平安時代末の元暦元年(1185)に行われた備前国児島郡藤戸(現・倉敷
市藤戸)での「藤戸の戦い」の跡を訪れました。
写真①、倉敷川を上流から見る、現・倉敷川は倉敷市街地から児島湖に向かってゆったりと流れているが、当時は東側の岡山市の瀬戸内海の児島湾から西側の水島灘に向かって幅500mほどの海峡だった。
平家物語巻十の「藤戸」によれば、平家追討の総大将源範頼率いる
3万余騎と平家方の総大将平行盛率いる500余艘の兵船との戦いの
場所です。(左の本土側が源氏、右の児島側が平氏の陣営)
兵船を持たない源氏方は攻めあぐねて対岸に陣をひいた。
源氏方の侍大将の一人・佐々木盛綱は、ある夜、地元の浦男(漁師)より
胸まで浸かるものの馬で渡れる浅瀬を聞き出し、事前に調べたうえで
翌日の早朝(辰の刻)に家の子郎党7騎と海中にうち入る。
源範頼の制止命令により侍大将の一人・土肥次郎実平が止めに入る
が制止かねて共に盛綱に従う。 これを見て源範頼「佐々木にたばかれたり ーーー」と言いつつ、全軍に出陣命令を下し、平家方に大勝する。
敗れた平氏は「四国の屋島」に逃れた
写真②、今倉敷川に架かっている「盛綱橋」の上には「馬上の佐々木盛綱が渡海する像」が設置してある。
実際の渡海の場所はこの位置より西約500mの場所と思われる。
写真③、海中を馬上で進む佐々木盛綱像
下図は、「藤戸の戦い」の位置です。
JR倉敷駅の南6km、JR岡山駅の西16kmの地点です。
古代にはJR岡山駅から倉敷駅の南部は「吉備の穴海」と云われた
海域で、平安時代にも児島半島は「島」になっており「藤戸」付近は
播磨灘→「吉備の穴海」→水島灘は海路になっていた。 (黄色部分)
写真④、高野山真言宗「藤戸寺」
705年行基が千手観音を本尊として創建したと伝わる。
「藤戸の戦い」で先陣の功を立てた佐々木盛綱が後に児島郡を受領し
「藤戸寺」を修復し源平両軍戦没者と浅瀬を教えた浦男の霊を慰めた。
(盛綱は情報漏洩を恐れて浦男を殺害している)
戦国時代争乱で焼失したが1631年、岡山藩池田氏が再興し庇護した。
写真⑤、藤戸寺の境内より「藤戸の戦い」方面を見る。
正面中央が「盛綱橋」
写真⑥、経ガ島
盛綱は「藤戸寺」の倉敷川の対岸にある「小島に経を納めて浦男の供養塔」を建立した。
平家物語のこの「藤戸の戦い」を題材として、室町時代に「世阿弥」が
謡曲「藤戸」の能を創作している。
<ご参考>
①佐々木盛綱は、宇多源氏佐々木氏の棟梁・佐々木秀義の3男で
平治の乱(1159)に源義朝に味方し敗北後、一門は関東へ落ち延び
渋谷氏の庇護を受けた、盛綱は若年より源頼朝に近侍する。
石橋山の戦い、富士川の戦いなど草創期より従軍している。
②佐々木高綱と梶原景季で有名な「宇治川の先陣争い」の高綱は、
佐々木盛綱の弟。 この兄弟は勇敢で先陣争いに名を残している!!
<参考資料>
①岩波書店、平家物語(下)
②山川出版社、岡山県の歴史散歩
③現地説明板
④郷土史・岡山の風、吉備の穴海に浮かぶ児島
⑤昭文社、倉敷市
⑥Wikipedia、佐々木盛綱