椋梨(むくなし)氏は、(古)高山城を本拠とする沼田小早川茂平の弟の小早川季平を初代として2代椋梨国平が当地に椋梨城を築城し爾来約300年間、沼田小早川氏の有力武将として活躍した。
写真①は、椋梨城跡の東側を流れる椋梨川です。
椋梨川は、この後沼田川に合流して三原市の瀬戸内海に灌ぎます。
下図は、椋梨城跡周辺の概略図です。
現在は広島県三原市大和町椋梨ですが、昔は安芸国豊田郡でした。
国道486号線から約300m南へ行くとすぐ椋梨城跡の本郭の前に出る。
標高290m、比高差20m --- 写真②
本郭の左より登りますが、かなり急斜面の道で写真③④を見ると本郭の周辺には幅20~30mの堀があったことが想像できる。
写真⑤は本郭台の南から北側を見る。
北側に櫓が復元されている、本郭規模は約60×25mです。
写真⑥は、南側の土塁にある椋梨城跡の碑
写真⑦は、本郭より東方面を見る。
写真⑧は、本郭より西方面を見る。
写真⑨は、本郭の背後の南方を見る。
いずれの方位も見通しがよい。
写真⑩は、南側の背後から本郭を見た処ですが手前の田畑と本郭の間には深堀があったようです。
写真⑪は⑩の土手にいた「蛇」さんです。気温が下がって動きが鈍くなっててた、今年初めて蛇との対面でした。
写真⑫は、東側から本郭を見た処ですが昔の姿を良く残している。
写真⑫撮影場所の後方約200mの丘の上には椋梨氏の菩提寺・学応寺があったそうで、永禄4年(1561)3月26日に安芸国高田郡郡山城から
毛利元就と長兄の隆元が新高山城の小早川隆景を訪ねた時に一泊し、元就の孫の毛利当主・毛利輝元が豊臣秀吉の九州征伐(天正15年)の
後天正16年(1588)11月ごろ京都・聚楽第の秀吉に謁見した帰路、尾道で下船したあと陸路をとり、この椋梨城に一泊したと伝わる。
下図は、椋梨城の概略位置で、毛利氏本拠の吉田郡山城へは北西30km、小早川隆景の新高山城へは南東15kmの位置にあります。
<ご参考>
①椋梨氏第13代椋梨景良は、慶長2年に小早川隆景が病没後は毛利
輝元の家臣となり、関ケ原の戦いの後は防長に移り幕末に至る。
②椋梨地区は、国道486号が東西に通っているがその南北両側を山に
囲まれ、椋梨川も中央をながれ⑦⑧⑨に見る様に豊かな田園地帯
<参考資料>
現地の説明板、三原市観光課・椋梨城跡
学研新書・二木謙一著・秀吉の接待