備後国深津郡五箇庄大津野地区/坪生庄⑥ | 史跡散策

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プロフィール写真は、備後・福山城

 室町時代後期1538年ごろ坪生庄から分離独立した五箇庄の大門、津之下、野々浜の3村を訪ねました。

最初の写真は、大門村の背後の竜王山(標高約132m)から3村(現・大門町)と沖の瀬戸内海を見た風景で、当日もかすかに四国山脈が望めた。 

 写真中央は、主に大門町大門ですが、室町時代末までは海で1667年頃福山藩水野氏によって新田開発され、更に沖は昭和40年(1966)以降に工業用地として造成され、現在は単一製鉄所としては世界最大級の製鉄所が操業しとている。

 次の写真は、竜王山の山麓にあるJR山陽本線・大門駅ホームに上りの兵庫県相生行の電車が入線する処です。

電車の背後の小山は、後に記す烏帽子山です。

 次の写真は、大門駅ホームの南側です、駅のすぐ南下を鉄道にへ並行して国道2号線が通っている。

 下図は五箇庄3村の略図です、この3村は明治時代に頭文字をとって深安郡大津野地区とよばれていたが、現在は福山市大門町となっている。

 福山市の中心部から東へ14km、昔の坪生庄中心から南へ4.5kmの瀬戸内海に面した地点にあります。

 

 次の写真④は、1538年ごろ坪生村の新中八幡社の御神体を持ち帰り、ほとぼりのさめた1553年ごろ烏帽子山に創建したと伝わっている、五箇八幡社で野島、引野、大門、津之下および野々浜村の5ケ村の産土神社として祀られてきた。

写真⑤は、五箇八幡社の拝殿と本殿です。

ここ烏帽子山(標高約32m)は、古くは山城跡だったようです。

 

 写真⑥は、JR大門駅の北600mの所にある標高約80mの枝広城跡

室町時代後期に岡志摩守景勝が築城し、のち伊予守護職の河野一族の

河野刑部光重が入城したという。

写真⑥は、枝広城主の岡志摩守が建立した(別伝あり)と伝わる真言宗上ノ坊の品の良い楼門。

 

 次の写真は、室町時代初期の1330年ごろ飽浦(あくら)四朗左衛門が築城し1349年には笠岡の陶山義高が足利直冬勢と戦い、室町時代後期には先の河野刑部光重が居城とした明知山城跡の山です。

中央奥の山で標高140m、大門駅の北1,000m処にある。

1556年笠岡城主の陶山国時に攻められ落城している。

次の写真⑨は、明知山城主・河野刑部光重が戦没後に嫡子の立円が開いた浄土真宗紫雲山光円寺です。

 立円は、本願寺顕如上人に帰依し織田信長の本願寺攻めの一次木津川合戦の時に顕如上人の使僧となり、備後三原に居た小早川隆景に兵糧助成を依頼し1万石の兵糧を石山本願寺に運び入れた。

 顕如上人の子の教如上人は、信長との和睦成立後、立円の功績をたたえて「教」の字と「八つ藤」の紋の永世使用を許可した。

現在21世になられるが、代々「教」を名前の上につけられている。

 私は福岡市出身ですが当地に永住するにあたり、縁あって当寺にお世話になっております。 

 

 次の写真⑩と⑪は、室町時代までは瀬戸内海に浮かぶ小島だったが

福山藩水野氏によって新田開発され陸地化した、鶴島の厳島神社と亀島の春日神社の鳥居です。 創建は新田開発前後と云われている。

 

 写真⑫は、JR大門駅から西へ約1,000mの国道2号線の脇にある「大門貝塚の碑」です。 (2013/3建立) 

 この貝塚は縄文前期から縄文後期の約4,000年間の遺構で明治23年

(1899)に発見されたが残念ながら昭和34年(1959)に国道2号線の造成の時に消滅している。 

この記念碑は、旧野々浜村の坂里古墳の天井岩が使用してある。

 

 これまで、6回にわたり備後国坪生庄跡を投稿しましたが今回で修了します、お読みいただき感謝いたします。

 

<参考資料>

    各地の説明板、福山市大門町「大津野のあゆみ」

     光円寺発行、光円寺の由来と沿革

      国土地理院 1/25,000地図