出雲国の山城・三刀屋城跡/島根県雲南市 | 史跡散策

史跡散策

古代からの歴史や史跡散策が趣味です。
プロフィール写真は、備後・福山城

   祝賀御列の儀の様子を拝見しながら投稿しています。

 両陛下おめでとうございます。

 

 今回は、山陰の戦国の雄・尼子氏の本拠・月山富田城を守る尼子十旗の

第三番の三刀屋氏の本拠の三刀屋城跡を訪れました。

旧・出雲国飯石郡三刀屋郷 (島根県雲南市三刀屋町)にあり、写真①は斐伊川の支流の三刀屋川の対岸から城跡の全景です。

 写真②は、城側の山麓より三刀屋橋をみる。

 この三刀屋川の河畔は今は桜並木になっており染井吉野700本、山桜230本、御衣黄(ぎょいこう)170本の合計,100本の桜が2kmに植樹されてい桜の名所になっている。 写真③

次図は三刀屋城跡の概略位置図です。

宍道湖畔のJR山陰本線宍道駅から木次線の木次駅から西2.5kmの所にあり、尼子氏の本拠月山富田城から西30kmの地点です。

ここは、備後国三次方面の出雲街道から山口大内氏、安芸の毛利氏が進攻してくる出雲入口を守る重要な城だった。

 三刀屋城は、承久の乱の功で信濃国伊那郡の諏訪部助長が承久3年(1221)出雲三刀屋郷の地頭職を与えられ名を三刀屋と改め築城した。

三刀屋氏は、鎌倉・室町時代を通じ時の守護職のもと在城し、戦国時代の尼子経久の時には、有力武将に成長し三刀屋城は尼子十旗第三番と位置付けされている。

 最終的には、毛利氏の傘下に入り、城も毛利氏の城代が入り、江戸時代初期は松江城の堀尾吉晴の城代が在城したが一国一城令により廃城となった。

今は、城山公園となっており車一台が通れる山道がある。 写真④

 次の写真⑤は、中腹にある馬舎跡です。

 写真⑥は、馬舎跡を少し登ったところから主郭跡正面の斜面(曲輪跡の上の切岸跡?)を見る。

 次の写真⑦は、先の切岸跡?と思しき斜面を主郭跡側から見る

 写真⑧は、主郭跡ですが廃城400年を経て建物などの遺跡は有りませんが、主郭跡は広く春の花見には絶好の場所のようです。

 写真⑨は、主郭跡の西の二の郭跡にある城山稲荷神社

 写真⑩は、主郭跡から眼下の三刀屋川と三刀屋町の市街地をみる、旧・出雲街道はこの市街地の中央を通っている。

当日は、快晴で、この写真の正面の奥の山の向こう30kmの地点に尼子の本拠の月山富田城がある。

 

 今回は、三刀屋城跡とここから北へ約10kmにある加茂岩倉遺跡と神原神社(古墳)訪れましたので後二者は後報したいと思っています。

 

<ご参考>

1)三刀屋氏は、清和源氏源満扶流で信濃国伊那郡の諏訪部が出雲国に

 入り三刀屋氏を名のる。

2)先にご紹介した、出雲国仁多郡の三沢氏も源満扶を祖としており三刀屋氏と同族です。

 戦国時代には両者はほぼ行動を共にしている。

 

3) 三刀屋氏は、室町時代には、出雲守護の塩谷氏、山名氏

 京極氏に従い、戦国時代には尼子経久の傘下となり尼子十旗の3番と い われる通り尼子氏の有力武将となっている。

 その後、山口の大内氏、安芸の毛利氏との攻防のあと三刀屋久扶は最終的には毛利氏に従う。

 

4) 天正14年(1586)三刀屋久扶は、毛利輝元に疑われ追放され浪人に、

  この時、徳川家康に8,000石で誘われるが断っている。

5)嫡子の三刀屋孝扶は、引き続き毛利氏に仕えていたが、本領復帰が

 かなわず退去し、細川氏に仕え更に関ヶ原合戦の後は紀州徳川家に

 3,000石で仕え名を諏訪部に戻した。

 

<参考資料>

Wikipedia、三刀屋氏、 歴史道VOL3  日本の城

中村整史朗、尼子経久、国土地理院 1/25,000地図