山陽古道⑤備後国御調郡(2)/尾道市~三原市 | 史跡散策

史跡散策

古代からの歴史や史跡散策が趣味です。
プロフィール写真は、備後・福山城

 山陽古道は、御調郡の駅家の者度駅(いっとえき)と推定されている、現在の尾道市 市(いち)付近で御調川を渡河して川の右岸(南側)の現在の国道486号付近を西行していたか?! 

 御調川は現在・尾道市と三原市に属しているが、両市街地に並行して北約12kmの山間部を流れている。

市から約1km西進すると南側の山の中腹に高御調八幡神社がある。

 鳥居から拝殿に向かう石段が直線て急勾配になっている。

現在の社殿は天明3年(1783)の再建だが、戦国時代は前回ご紹介した雲雀城主の池上因幡守と次に紹介する丸山城主の上里丹後守が祭礼を共催して両者の競馬が有名だったと伝わっている。 写真①②高御調八幡

神社の石段と拝殿・本殿

 

 次の写真③は、山陽古道に戻り一旦御調川を左岸(北側)に渡った左岸から見た 御調川の中流域。

 

  下図は、御調郡市~美生(みのう)付近の位置イメージ図

 

 先ほどの渡河付近から約3km西進すると田圃の中に丸山城跡がある。

次の写真④、標高144m、比高50mの城跡です。

 この城は、前回の雲雀城の池上氏と同時期(1493ごろ)に三吉氏の家臣の上里丹後守が築城したと伝わっている。

戦国時代は主家・三吉氏のもとで雲雀城の池上氏、牛の皮城の森光氏と共に尼子方として山口の大内氏(後年は広島の毛利氏)と戦っている。

 

 丸山城のすぐ北側の山麓には鎌倉時代の仁治2年(1241)千葉豊後入道直翁が建立したと云われる700年余の歴史を持つ萩八幡神社がある。

 次の写真⑤⑥

 

 丸山城/萩八幡神社から500m西進した山麓に本郷平廃寺跡がある。

次の写真⑦の中央の民家のすぐ後ろにあり、白鳳時代に創建され平安時代初期まで存続した古代寺院跡で、伽藍配置は四天王寺式で瓦を初め多数の出土品があったそうだが、現地では説明板のみだった。

 

 

 ここから御調川を再度、南側に渡河して支流の八幡川に沿って山陽古道に戻るが、この八幡川はホタルの里として保護されている。

写真⑧、ホタルの里の看板

 写真⑨ 八幡川/この川は上流にある御調八幡宮の山から流ている。

 次の写真は、八幡川の北100mの八幡町本庄にある二代目クロガネモチ

の樹で、初代は広島県第二位のクロガネモチ(根廻4.9m、樹高15m)だったが約30年前の台風で倒壊してしまった。

初代は和気清麻呂の姉の和気広虫が道鏡事件の連座で備後国の当地に配流された時、広虫が杖を土中に挿したものから発芽成長したと伝わっていた。 --- 中央の樹です。 左右の樹は桜

 

 

 国道486号(山陽古道)に戻って、しばらく進むと美生(みのう)地区に至る。

ここは室町時代の九州探題を世襲した渋川氏の分流の御調渋川氏三代の菩提寺の浄土宗蓮台寺です。

 なお渋川氏で九州探題初代は、渋川義行(1365~)は、備中守護職および備後守護職も兼ねていた。 

  

写真⑪は山門をくぐった所からその次の写真⑫は渋川氏三代の供養塔

 備後渋川氏二代の渋川義正は、毛利元就の妹を妻として、毛利氏の客分扱いで、先祖が九州探題を世襲していたこともあって、「今探題」と呼ばれていたという。

次の写真⑬は、蓮台寺の背後の山にある渋川氏三代の居城・子童山城

(こどうさん標高580m、比高380m 、中央右の山)

 次の写真⑭は、蓮台寺から美生の里をみる、民家のある部分を山陽古道が通っていたと思われる。

 

 

<参考資料>

   各現地の説明板

   森本 繁著、備後の歴史散歩(下)

   尾道市、「尾道文化33号古代山陽道」