周防国、防府天満宮/日本最初の天満宮 | 史跡散策

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古代からの歴史や史跡散策が趣味です。
プロフィール写真は、備後・福山城

 昨秋、福岡からの帰路、山口県防府市にある防府天満宮に詣でて

きました。(車で移動、二度目の参拝)

丁度、晩秋で境内の紅葉が美しかった(写真①)

 ① 紅葉

 防府天満宮は、下図のように旧周防国(現防府市)のほぼ中心部に

あります。

 

鳥居をすぎると階段(写真②)がありこの上に楼門がある。写真③④

  ② 階段

  ③ 楼門

写真は、人が少くなるタイミングで撮影しましたが、当日は祭日で天候

も快晴で多数の人が参拝にみえていた。

神前結婚を済ませたカップル・親族や7.5.3の親子連れも何組かおられた。

 

 当社は三大天満宮の一つで、祭神は学問の神様・菅原道真公の他

公の先祖に当たる天穂日命(天照大神の皇子)、武夷鳥命(たけひなとり)

野見宿祢(土師氏の祖)が祀ってある。

 ④ 楼門

 

 今回初めて知ったことですが、道真公は承和12年(845)6月25日に誕生

され幼名を「阿呼(あこ)」といわれ5才の時に次の歌を詠まれている。

 

   "美しや 紅の色なる 梅の花

     阿呼が顔にも  つけたくぞある "    神童と云われた

 

 三大天満宮の創建時期を比べると、防府天満宮904年、太宰府天満宮

 919年、北野天満宮は947年と防府天満宮が一番古く境内には

  「扶桑菅廟最初」の碑があった。  写真⑤

 ⑤ 最初の碑

 下図は、道真公が右大臣に上られた後に藤原氏の讒言により延喜1年

(901) 56才の時、無実の罪で太宰員外帥に左遷され西下の途中に防府

国府に立ち寄られた付近図です。

    

 瀬戸内海を船で周防国・勝間の浦に上陸され当時、周防国の国司で

あった同族の土師信貞を国府に訪問され、本土の最後となる周防の

「此地」で京の朝廷からの「無実の知らせ」を待っていたいと願いながら

海路で九州へ旅立たれた。

 

 その後、道真公は大宰府で失意の内に延喜3年(903)陰暦2月5日に

薨去され太宰府安楽寺に埋葬された。

 丁度その日、周防の勝間の浦に神光が現れて酒垂山(現・天神山)

には瑞雲が棚引き人々が驚いた。

国司以下、皆は道真公の霊魂が光となって 「此地」 へ帰ってこられ

たと云い、翌年の延喜4年(904)に国司は天神山の麓に「松崎の社」を

建ててお祀りした、現在の社は1952年の火災の後に再建されたもの。

 

     <参考>

 菅原道真公の没後、京では疫病、異常気象などの不吉な事が続き

公の祟りと云われるようになる。

 909年 右大臣藤原時平39才病死

       醍醐天皇は太宰府安楽寺へ鎮魂使を送る

 919年 太宰府天満宮を建立  鎮魂

 923年 皇太子 保明親王21才 薨去

 923年  天皇は、道真公を右大臣に復し正2位を追贈する。

 925年 保明親王の子、慶頼皇太子5才 薨去

 930年 内裏の清涼殿に落雷

      醍醐天皇は譲位の直後に崩御される

 947年 北野天満宮創建 鎮魂

 

   <参考資料>

 社務所発行、防府天満宮

 祥伝社、高野 澄著・太宰府天満宮の謎