写真①
写真①は岡山県高梁市成羽町(備中国川上郡成羽)の真ん中を流れる成羽川の上流から成羽の町
を見た所で水清く悠々と水を蓄えて流れている。(こので標高100m)
この川はこの後、高梁川に合流して倉敷で瀬戸内海へそそぐ。
写真②はこの成羽川の左側の山の中腹(標高約250m)中生代のモノチスの化石が出る場所で
写真③の小さなモノチスの破片を見つけたので撮影した。
写真②
写真③
このモノチスは、中生代三畳紀後期(2億1000年前) の示準化石として世界的に知られており
この成羽地区は、太古には日本列島が大陸と分離する以前の大陸の海岸でモノチスや巨大な
森林があったと云われている。
この時、日本列島の本州の大部分・九州の大半、四国は海の中だった。
明治38年東大・横山博士が植物化石の論文を発表して以来、世界的にも有名な場所である。
植物化石やモノチスの化石および当時を再現した説明が後に述べる高梁市成羽美術館に展示
してある。
写真④
写真④はモノチスの化石の出る場所から成羽の町を望んだ風景で、中央の小高い山が戦国
時代後期に三村氏が拠点とした鶴首山城跡でその山麓に交代寄合旗本5,000石の山崎氏の
陣屋跡があ。 写真⑤ 大手門の石垣の後ろにある白い建物が建築家・安藤忠雄氏の設計に
よる高梁市成羽美術館。
写真⑤
この成羽地方の昔は、戦国期の成羽氏や山陰の尼子氏、安芸の毛利氏、備中の武将達の
戦乱、更に関ケ原、大阪の陣の後は、
①1617~1638山崎家治が因幡若桜3万石から3.5万石で成羽城主となる。
その後、家治は 1639肥後・天草4万石、更に1641讃岐丸亀5.3万石と栄転するが孫の代
1657無嗣改易で断絶した。
②1639~1642水谷勝俊が常陸下館4.7万石から5万石で入部したが、備中松山城(高梁市)を
居城としたため成羽城は廃城となった。
③1658山崎家治の次男・山崎豊治が交代寄合旗本5,000石に取立られてこの成羽陣屋に
入り幕末まで山崎氏が治めた。(領地は川上郡20村、浅口郡4村)
交代寄合は大名並の参勤交代をした。(江戸時代 17家が交代寄合)
なお1818年(慶応4)高直しにより1万2746石で大名に列した。
写真⑥
写真⑥は、成羽川の中流域で両岸の山は石灰岩の急な崖になっている所が多い。
石灰石の採取場所もある。
資料、高梁市成羽美術館資料
高柳・松平、戦国人名人名辞典
東京教学社、地学・地質・鉱物
Wikipedia 山崎氏