先日テレビをつけると、芸者姿の奈緒が

「島村さぁ~ん」

と叫んでいた。

 

あぁ、「雪国」か。

 

そのまま、なんとなく終わりまで見入ってしまった。

時系列でなく、パッチワークのような場面場面のつながり。皆まで言わない表現。「雪国」だなぁと思いつつも、かすかな違和感を覚えた。

私の記憶にある「雪国」の香りと何かが違う。

(。´・ω・)?

 

そもそも雪国を読んだのは、中学3年か高校に入った頃のことだから、内容を鮮明に覚えているわけではないし、今見たドラマ「雪国」は、確かに私が知っている雪国ではあったけれど。

なんでしょうね、この違和感。

 

居てもたってもいられなくて、早速、「雪国」文庫本、買ってきました (*^^)v

 

 

 

 

 

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 

有名な書き出し。でも、私はその次が好きかな。

 

夜の底が白くなった。

 

川端康成はもとより、芥川龍之介や太宰治、あるいは三島由紀夫などの小説は、言葉に重み、厚み、濃さが感じられて、読み進めるだけで極上の時間が味わえる。

一つ一つの言葉が表す様を思い描き、表現の巧みさに溜息をつき、これはと思う箇所を何度も読み返す。、、といっても、当時は

村は寒気の底へ寝静まっていた。

・・・月はまるで青い氷のなかの刃のように澄み出ていた。

と言ったあたりに、うっとりしていたような気がする。

 

改めてページをめくっていくと、当時を思い出した。

後半に何度か出てくる冬の空の「天の河」が特に印象的で、駒子の「一年に一度はいらっしゃいね」の言葉と相まって、織姫と彦星のイメージが浮かんだけれど、冬の雪国は雪に包まれ、「閉ざされた異国」。ハッピーエンドの気配はどこにもない。そしてラストの一節。

 

踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。

 

行男と駒子と葉子が作る三角形に、ふと冬の大三角をみた。

冬の大三角の真中に天の川がある。

そのあやうい三角形の中に、かろうじて保たれている非現実の世界とそこに迷い込んだ島村。それは行雄の死でいったん崩れていたのに、島村は、しかし駒子と葉子と自分でもう一つの新たな大三角を見ていたのかもしれない。

が、それも葉子の死によって、とうとう3点を繋ぐ糸がプツリと切れ、島村は真っ暗な宇宙に放り出され打されたような、現実の終わりのような、そんな印象がラストの一節から強く感じた。

 

 

読み終えて当時を思い出し、つい笑ってしまった。

そもそも男と女の情なんてものを、十五、六の小娘が行間から読み取るのは、無理があっただろうし、ましてや行男をとおした駒子と葉子の関係や、駒子と葉子に抱く島村の気持ちなんて、たとえ直接的に書かれていたとしても理解しがたかったと思う。

改めて読み返しての感想は、

「雪国」は、せめて不惑の年くらいに読み返すべし。

かな(*^^*)

 

 

追伸)

「或る女」も葉子だったよなぁ。

葉子って流行りの名前だったのかしら。どなたかご存じありませんか?