おなり(姉妹)神とは、
女性にはその兄や弟を守護する霊力を持っているとする沖縄・奄美地方に伝わる思想です。
遠方へ旅立つ兄や弟へ手編みの手ぬぐいや自身の髪の毛を御守りとして授けるという風習が近年までありました。
さて、ゴホウラ貝の加工場跡とみられる場所が沖縄本島とその周辺離島から50ヶ所ほど見つかっていますが、その場所は、かなり分散しています。限られた地域で専門職人を集め組織的に製作していたのではなく、各集落でその住民がそれぞれ製作していたというように見えます。
(やはり、というべきか。本島南部の百名および久高島からは加工場跡は見つかっていません。)
この貝輪の加工場跡の分布をみたとき、「おなり神」という言葉が脳裡に浮かんできました。
ゴボウラの貝輪というものは、姉妹から遠方へと旅立つ兄弟に授けられた御守りであったのではないのかと。地元に残る女性たちが作っていたものではなかったのかと。
九州地方で発掘されたゴホウラの貝輪は、吉野ヶ里遺跡を除いて、すべて男性の遺骨の腕にはめられていたかその周りから見つかっています。
2~3世紀の九州というのは動乱の時代と言われており、装飾品としての貝輪を現地の人々が求めていたとは、まず、考えられません。「ゆとり」の持てる時代ではなかったのです。
ということは、やはり、沖縄から九州へと渡来してきた人々が身に着けていた御守りと考えるほうが可能性としては高いと思います。
『魏志倭人伝』 によりますと、女王国の風俗として、男性が少ないという記述があります。これは、かなり多くの男たちが九州へと渡っていったという裏付けにもなり得る記述です。
当時の倭国(日本)を取り巻く情勢は、「魏」がその勢力を朝鮮半島まで延ばしてきており、小国分立して互いに争っていては、危機的状況になるのが見えています。
「なんとかしないといけない」と考えた者がいたのだと思います。当時既に卑弥呼は年長だったと記されていますが、九州へ渡れば再び帰ってこれないということは百も承知のこと。それは、当時の沖縄の人々にとっては、かなり重い決断があったことは想像に難くなかったはず。
ともあれ、骨を埋める覚悟で九州へと渡った人々が、その後の歴史に与えた影響はかなり大きなものであったと考えられます。