今日は、私の母のお話をさせていただきます。母は2年前に亡くなりましたが、母は私とは全く違うタイプの女性でした。母性愛の強さは私の知る限りでは、誰にも負けないと思います。どの様な過酷な状況でも絶え抜いて壁を乗り越えて来ました。そして、私のように積極的ではありませんが、じっと我慢をして嵐が通り過ぎるのを待てる女性です。母は港町で海産物を営む家に産まれました。でも私は母の実家が何処に在るのか、何人兄弟で祖父母がどんな人か会った事もないし名前も知りません。勿論、既に亡くなっていますがお墓も何処にあるのか知りません。母がいない今は、母方の親族は誰一人分かりません。以前、母から今は有名企業となり成功していると聞いた事がありますが、興味も無かったので詳しい事は尋ねませんでしたし、母も亡くなるまで1度も実家に帰る事はありませんでした。母は子供の頃から苦労を重ねて来ました。この事でも私が母のDNAをしっかり受け継いで来たことが分かります。(苦笑) 彼女が小学生の時に( 詳しい事情は分かりません。)神奈川県にある真鶴という港町に住むご夫婦が、どうしても母を養女にしたいと望まれて母は実家を出たそうです。新天地に移住してからは、本当に幸せな時間を過ごしたと懐かしそうに話してくれました。高校を卒業した後に現在は存在しませんが、松竹大船撮影所に就職をし、後に婦人部長を務めて忙しい毎日を過ごしていました。余談ですが母は容姿端麗だったようで、となり街から毎日のように男性達が母を見に来ていたと養父母が話してくれました。それから母は鳥取県出身の男性と出逢い結婚しました。後にその方が私の3人の兄達の父親となります。母は、その後その方の仕事の都合で中国に渡りました。ジャムスという土地で夫婦で市役所に務め官舎に住まいしていました。そこで、母は近隣の中国人に料理を教えたり、貧困のあまり病気になっても病院に行けない人にお金を与えたりしていたそうです。日本から持ってきた僅かなお金を使っていたのです。その後、日露戦争で日本がロシアに負けてしまい、二人の兄を連れて敵から逃れるように、引き上げ船に乗りました。官舎を出る前に近隣中国人の数人に金銭や僅かな貴金属を盗まれており(沢山の中国人を助けて来たのにです。)船に乗る時には、手元には殆ど価値のあるものは残っていなかったと話していました。私が呆れると『そうゆう時代だったのよ!』と苦笑していました。母は罪を憎み人は憎まずの考えだったので、私は笑っていられる母が信じられなかったです。それで、引き揚げ船の中で三男を出産しました。既に戦争は終わっていたのに、数十メートル先で大砲の玉が海上に落ちたり、命かながら帰国したそうで、とても恐ろしかったと言っていました。その後、鳥取県のご主人のご実家で暮らしたようですが、格式ある銘柄の家でしたが訳あって離婚をしました。兄達は、母の訴えも虚しく渡して頂けなかったそうです。その事は一生涯、母の後悔として母の心に残っていました。その後、私の父親の実家が酒問屋を営んでおり、その会社で働くようになりました。もし、母がそのまま真鶴に戻っていたら、私は存在しなかったという事です。この時、父は第二次世界大戦の真っ只中で、戦地に行ったり帰還したりの繰り返しで、その間に祖母は私にとっては義母になる方を迎え、ほぼ強制的に結婚をさせて父が帰還した2年の間に義理の兄と姉が産まれて、やがて終戦となり父は戦地から帰還しました。その頃には家業の酒問屋も祖父の不心得のせいで倒産を余儀なくされていました。帰還した父は母と出逢い一目惚れをしてしまいました。気の強い性格の義母にくらべて、母は本当に穏やかで優しい性格でしたし、容姿端麗でしたから恋に落ちるのは当然だと思います。二人は、なさぬ仲となった訳です。それでも父は祖母に、自分が愛した人と一緒になりたいから離婚をさせてほしいと、何度も頼んだそうですが既に子供もいる立場、厳格な祖母が許す筈もなく、それに当時は離婚をして女性が実家に戻るのは恥とされていたので義母も承諾してくれず両親は、共に家を出る事にしました。それからは、母にとって最悪な人生を歩む事になりました。夫婦仲はとても良く、父の会社の社員や近隣の方も事情は知っていましたが、それでも温厚で努力家の母を皆が父の妻と認めていました。それは私が産まれた後も、ずっと変わりませんでした。どの様な環境にあっても、母を悪く言う者はいませんし、家事も完璧にこなし内職も朝から夜までやり、生活を助けていました。と言うのも、毎月の父の給料は殆ど祖母に渡していましたから、母が家計を切り盛りするのは本当に大変だったと思います。そして私が誕生するのですが、何故かその時期だけ父は実家に帰っていて、母は三畳一間で私を産んだそうです。その時の出来事が影響して母は生涯実家に帰らなくなったのです。それは、その家は母の実母の家で母はそこで間借りをして私を産んだのですが、産んでから二日後再婚相手と暮らす為に祖母は、無情にも母と産まれたばかりの私共々家から追い出したそうです。母は知り合いを頼り、やっとの事で小さな家を借りて暮らし始めました。その頃の暮らしは定かではありませんが、間もなくして父が戻り一緒に暮らし始めました。父は、仕事熱心で家族の為に一生懸命働きました。勿論、母も内職をして父を助けていました。私が幼稚園に上がる頃には、父は営業部長という役職にもつき普通なら家庭も安泰しますが、我が家は違いました。相変わらず、いえ前にも増して父の給料は殆どが祖母に渡り、兄や姉たちの教育費や生活費に注ぎ込まれました。ですから、私に関わる物、例えば文具や幼稚園の支払い等は全て母の内職で賄っていました。ある日、父が何をしても許し文句を言わなかった母が、1度だけ父に文句を言いました。それは、幼稚園の時に私が母に『私が小学校に上がる時に、お祝いで自転車が欲しい!』と言ったので、母は遅くまで内職をやり、毎月の支払いをした後に、毎月少しづつお金を貯めて私が小学校に入る時は自転車を買うつもりでいました。でも、その時期、義姉が中学校になるので、『お祝いが欲しいと言うので買ったから、いつもより生活費が少ないから、貯めてあるお金を使って欲しい!』と言うので、母は父に尋ねたそうです。『お姉ちゃんやお兄ちゃんには、今まで色々な物を買っているでしょう?この子は、欲しがらないから何も与えていない。でも初めて自転車が欲しいと言ったのよ!このお金は、私が1年かけて彼女の為に貯めたのです。』と、すると父は言ったそうです。小学生に自転車は要らないよ!と、でも姉や兄には祖母が買い与えていたのを母は知っていたので、この時ほど娘に対して何もしてあげられない母の無力さを思い知ったと後に話してくれました。後にも先にも、母が父に文句をいったのは、この時1回だけです。この事は、父からも悪かったと大人になってから言っていただきました。その後は初めに私がブログで書いた通りです。私が二十歳になる頃には 祖母は度々、我が家へ母を訪ねて来るようになりました。義母は気が強いですが、面倒見の良い性格で私も決して嫌いでは有りませんでしたが、母は料理が上手で優しい性格なので、祖母は母の料理を食べながら、母に愚痴を溢すのが楽しみのようで、その後も祖母が倒れるまでの長い年月、母は祖母の話し相手をしていました。祖母が倒れて入院した時も、母と私とで最期まで看病しました。勿論、義母や義兄、姉もお見舞いには来ましたが『散々、祖母には可愛がって貰ったのに冷たいね!』と母に言ったら『人生、色々な事があるけれど、自分の所から去って行かれる人の心は暗く荒むものです。お婆ちゃんが、ずっとお母さんの所に通っていたから、あちらのお母さんもお兄ちゃんやお姉ちゃんも、きっと寂しかったと思うよ!』と言うのです。祖母にも、義姉にも散々嫌味を言われたのにな~?と母には呆れてしまいました。でも、そんな母だからこそ父も愛したし、母と出逢った人達が親切にしてくれるのかな?と思いました。父の友人から聞きましたが、父が亡くなる時に母に言ったそうです。『母さんと一緒になって良かった!僕が1度浮気をした時も責めずに知らなかった振りをしていたでしょう?済まなかった!そして、ありがとう!』と、君のお母さんは凄い人だね!と言われて本当に嬉しかったです。私は、きっと母のようにはなれないと思いますけれど....母は私が最も尊敬出来る女性です。そんな母ですから、母が亡くなった時は母を介護してくださった方々や前夫の親族や彼の友人からもメールでお悔やみの言葉を沢山いただきました。母の優しさは万国共通に伝わるんだな~と思いました。さて、長き怒濤の母の人生でしたが、私もブログを書きながら母の人生を一歩また一歩と2人で歩けたような気持ちになりました。ブログビギナーの為、読み辛かったと思います。最後までお付き合いいただきまして本当に『ありがとうございました!』皆様の毎日が幸せでありますように🍀
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