私はお風呂に入った時に

念入りに洗う箇所がある。

 

それは、耳と足。

 

どちらもここ何年かなんとなく念入りに洗うようになり、

それまでは普通にさっとしか洗わなかった。

 

加齢に伴い、加齢臭は耳の裏にニオイの根源があると聞いて、

それから意識しだしたのだと思う。

 

特に顔を耳に近づけて話をするような時、

臭そうだしね、私。

 

よく洗ってなるべく人に不快な思いをさせないように

気を付けている。

 

そして、足。

足をよく洗うのは人のためでなく自分のため。

 

頭も顔も体も全部洗った後、

足をクリクリと表裏すみずみまで丁寧に洗う。

 

昔、買っていた犬をシャンプーでゴシゴシする時みたいに、

「コイツメ、コイツメ💛」と思いながら、

「今日もたくさん歩いたね。重かったね。ありがとう」

と心から念じている。

 

はい、気持ち悪いですね。

 

わかっています。

 

私は56歳ですが、私が二足歩行で歩くようになってから、

足はずっとずっと豆を作ったり、

くじいたり、むくんだりしながらも

私を運び続けてくれているのですよ。

 

自由に歩けると言う事はどんなに素晴らしい事。

 

特に去年は一時期杖をついたりしていたし、

意識せずにサッサカ歩ける時の倍の時間をかけて歩くつらさを

身をもって感じた。

 

今は毎日

「暑い~」とか、

「だるい~」とか言いながら、

それでも立ち上がれば、足は前へ向かって進む。

 

一日、トイレに行ったり、本屋に立ち寄ったり、

駅で友達を待ったり、

電車に飛び乗ったり。

 

私の足。

甲高で見た目がとてもぶかっこう。

でもとても丈夫で愛おしい。

いつもありがとう。

 

ぶかっこうと言えば私の手もひどいw。

 

若い時は、

「きゃー、あなたの手、手の甲にえくぼができる~!」

とか笑われたりして、

思わず手をかくしたりした。

 

短くて太くて、キューピーの手みたい。

大嫌いだった手。

 

「あんたが顔洗ってると、アライグマが顔洗ってるみたい」

と言われたりもしたw。(うまい!)

 

若い頃は細くて華奢な手が憧れだった。

自分の手を見ては悲しい気持ちになっていた。

 

でも、人生の中でたくさんの手を見て来て、

美の基準が少しづつ変わって来た。

 

よく言うけれど、

田舎に住む高齢のおばあさんの節くれだった手の美しさ。

 

また、その手で野菜を切ったり、

箸を使ったりするごつごつとした所作。

 

ああ、この手は柔らくて肌色の皮膚を持って生まれて来て、

もう100年近くも生身で仕事をし続けて来たのだなあと思う。

 

あと、シミがあって

きれいにネイルがしてあって、

サファイアの指輪をしている手。

 

昔、カナダ人の友達のおばあさんが、

90歳近かったけれど、

いつも指にネイルをしていて

それがサファイアの指輪と、

シミの多い手ととても合っていて、

きれいだなあと思った。

 

サファイアはシミだらけの手によく似合うと思う。

 

私の手も、

大した手入れをしていないので

ずいぶんシミが増えて来た。

 

でも、それを眺めるのも楽しい。

 

若い子のふくふくとした、

みずみずしいハリのある手を見ると、

思わずさわってみたくなるほど可愛いと思うけど、

それと自分の手は別。

 

自分の手は自分の手で可愛い。

田舎の高齢のおばあさんほどではないけど、

ずっと仕事をしている。

これも本当にありがとうと毎日思っている。

私の手は見せる物ではなくて、仕事をするもの。

だから、土も掘るし流しの詰まりも取る。

この手で野菜を切っておいしい物を作る。

キーボードを打つ。

ギターを弾く。

雑巾をしぼる。

 

キレイな細い手にあこがれる。

 

でも、仕事をする手はもっと好き。

 

そう言う考えは若い頃にはなかった。

 

だって若いうちは、手なんてキレイに越したことはないもんね。


でも年をとればみんな同じ。


皮膚がたるんでも、

しわくちゃになっても、

備わった機能と言うのは美しいものですね。