友人に、ライアン・フィリップのファンのFちゃんという子がいまして、


その俳優さんの出演しているDVDはほぼ購入しています。


先日、遊びに行った時に、私が『よく集めたねぇー。』と感心して棚を眺めていると、


『uzu、これ見たことある?』と言って薦め、この『バンバンクラブ』を貸してくれました。





内戦の続く南アフリカに赴く、タイムズの4人の戦場カメラマン。


その中の、グレッグ・マリノヴィッチとジョアオ・シルヴァが書いた実話に基づいた作品で、


カメラマン達が目にした内戦の一端や、仲間との関わり、


カメラを向ける思い、葛藤や偏見や誤解、などなどが、


彼らを支える女性達との関係も交えて、描かれていました。


紛争の様子は、とても痛ましくて、そんな中を時おり冗談を交わしながら、


ただただベストショットを求める、バンバンクラブ(と周囲から呼ばれた)彼らは、


ある面では渇いたようにも見えます。


所詮、他人事で、安全なところから劇的な場面を切り取り、争う人々や逃げ惑う人々、


家族を失って悲しみにくれる人々や死にゆく人々を撮って、その写真で報酬と栄誉を手にする、


冷酷な人達だというふうに。


けれども、それは目の前の大きな痛みや悲しみ、争いの圧倒的な愚かさや残忍さの中にいるからこそ、


それに対してどれほど自分が無力なのかを思い知るからこそ、


そうした感覚を麻痺させて、伝えるための一枚を撮り、


やりきれなさを笑いやお酒や薬でどうにか飛ばしていたのだと思う。


もしかしたら、どちらもなのかも知れない。


人には、善意も悪意もあって、その階段を瞬間瞬間、上り下りしていたりするコトを考えると。


原作の著者で戦場カメラマンのグレッグ・マリノヴィッチを演じたライアン・フィリップは好演でした。


葛藤や戸惑いが、伝わって来て、鼻がつーんとなりました。



(左・グレッグ・マリノヴィッチさんと、ライアンフィリップさん)




そして、バンバンクラブのメンバー、ケビン・カーターの様子も勿論描かれています。


憶測や断定を避けるかのように、とてもあっさりとでしたけども。


南アフリカで共にチームとして活動した日々のことや、後に道を分かち、


ケビンさんがスーダンに潜入して、あの『ハゲワシと少女』の一枚を撮った場面も。


(『ハゲワシと少女』別の角度では、ハゲワシは実際もっと離れた位置に居ます。)



私、この騒動のコトは事後に知りました。


当時、とにかく、世界中に物議を醸し、非難を浴びていたそうです。


この写真がタイムズに載るや否や、大反響になり、


人々は閉ざされたスーダンの現状に衝撃を受けました。


酷烈な事態を物語るその写真は、ピューリッツア賞を受賞します。


と同時に、『なぜ彼は、少女を助けなかったのか?』『写真を撮る前に、ハゲワシを追い払うべきでは?』


という非難の声が一部の記者から立ち、それは『人命救助か報道か』という命題に変わって、


またたく間に広がって、人々の憶測や思い込みを纏って、大きな嵐になるんです。


ケビン・カーターは自分でも認めるほど、口下手なタイプだったそうです。


記者に対する返答や、弁論は、きっと理路整然とはしていなかったのだと思います。


写真の少女は、実際は生きていて、(そのあと顔を上げてまた立つ姿を、別のカメラマンがおさめている)


ハゲワシも、其処彼処に居たらしく、


少女の母親もわりと近くに居て、食糧の配膳に並んでいる間に、娘を少しの間地面に置いていた、


というのが実情だったそうです。


そしてケビン・カーターはその後、ひとり場を離れ、惨状の痛ましさに泣き続けました。


その姿は、生き残った、もう一人の同行のカメラマンが記しているようです。


ドキュメンタリーやノンフィクションって、厳密にはそうなり切れないトコがありますよね。


どこを切って、どこを見せるかで、印象の操作はずいぶん変わってしまう。


溢れかえる非難の問い掛けに、『写真を撮った後にすぐハゲワシを追い払った』ことなどを、


不器用ながらにも答えますが、おそらくもうどんな答えにも、命題への議論は膨れていて、


人々はケビン・カーターを責め立て、呑み込みました。


『少女を犠牲にして、金と栄誉を手にした男』とでも言うように。





そして、ピューリッツア賞を受賞した一か月後に、彼は車の中で自殺してしまいます。


以後さらに議論を呼んだので、私はその時に知り、いくつかの記事を読んだコトはありました。


哀しかったのはよく憶えています。


その時、ふとすぐに胸をよぎったのは、私がまだ幼い頃、初めて呼吸が苦しくなるほど泣いた


『キタキツネ物語』を観た時のコトでした。


今となっては、シーンも憶えていないのですが、確か母キツネが窮地に陥って死んでしまうとかで、


子供の私には、人の手があれば助かっていたんじゃないか?と思われる状況だったんです。


私はびーびー泣きながら、隣で観ていた8つ上の兄に、


『どうしてこれを撮っている人は、キツネを助けてくれなかったの?』と訴えかけ、


『どうぢでよぉ~~~!!』と突っ伏して泣いていると、


『じゃあuzuが助けに行けば?これは、キツネの現実と生涯なんだよ。


あの人が帰ったあとでも、同じ危険の中を生きてるんだよ。


キツネが死んだのは、その人のせいじゃない。この後、ちゃんと助けたかもよ?』


『そのうちわかるよ。』と言われたのでした。


確かに、そのうち解っていたんです。



(今でも号泣する自信が100%あります。)



もちろん命の尊さは同じでも、動物と人間を並べているはありません。


ケビン・カーターの自殺は、情緒の不安定さや薬物(おそらく心の痛みを消すための)、


仲間の死(バンバンクラブのメンバーが銃弾に倒れる)など複数の要素が重なり、


非難を受けたコトだけが原因とは言えないのかも知れませんし、真相は判りようがありません。


ケビン・カーターの娘さんは、父について


『私には、あの苦しんでいた子が父で、その他の世の中がハゲワシのように見えます。』と言い、


ケビン・カーターの父親は葬儀の時に、日本の小学生から送られた手紙の中に、


戦地の惨状を教えてくれたケビンさんに対して、感謝の気持ちが綴られているコトを知り、


『死ぬ前にこの手紙を読んでいたら、息子は自殺しなかったかも知れない。』と語ったそうです。


一つの命を守り、救うべきだったと巻き起こったうねりは、


ケビンさんの命が消えたコトをどう捉えたのだろう?


彼がもし、弁の立つ人だったら、事態は変わっていたのだろうか?


でもケビンさんは、弁護士でもライターでもなかった。


納得させる術を、何に求めれば良かったのだろう。


どれほどの人が、『人命か報道か』という議論に圧縮された中に埋もれてしまった、


経緯や真実や可能性について知る努力をしただろう。


少しでも責任を感じた人は、どのくらい居たのだろうか?とても気になりました。


ケビン・カーターが、少女を優先的に救わなかったのは事実なのだと思う。


同時に、彼に非難を浴びせた人々とその声も、少女は救わなかったし、


ケビン・カーターをも救わなかった。


これもまた事実だと思うのです。


怒りから発して、そのままぶつけるものは、それがたとえ正義であれ悲しみを生んでしまう。


自分を麻痺させなければならない程の、


人の怒りや恨みのヒステリーで満たされた戦場から帰ったケビンさんを待っていたのは、


また別の戦場だったなんて・・・本当に切ないと感じました。


せめて、日本の小学生の手紙が、ケビンさんの手元に届いて欲しかったなぁ。


痛いシーンがダメな私は、劇場の大きな画面でもないのに、ちょいちょい目をつぶったり、


指の隙間から見たりと、落ち着きのない鑑賞になりましたが、観て良かった!と思った作品でしたねこ映画