二月十二日、競泳の池江璃花子選手が白血病を公表し、公式競技の参加を取り止めて療養生活に入るとのニュースが流れました。池江選手は2000年生まれの18歳。日本競泳会を代表する選手で、次々に日本記録を更新し、十一種目の日本記録保持者でもあります。史上初の日本選手権5冠達成、史上初のアジア競技大会日本選手6冠達成など、あらためて記録を調べていくと彼女の成長と進化に驚かされます。

 

そんな池江選手の病気の発表に日本中が驚きました。僕もニュースを聞いてなんだか自分のことのようにショックを受けました。池江選手とは特に知り合いというわけでもないのですが、スポーツニュースで見るたびに「凄い子だな」と感心して、勝手に期待やら希望やら親近感やら乗っけて応援していました。

池江選手への応援メッセージや励ましの言葉などは、ニュースやSNSなどあちこちで目にすることが出来ます。僕がここで「頑張れ」と言ってもあまり意味が無いかもしれないので、少しこの場を借りて「白血病」の話と僕の気持ちを話させて下さい。

 

僕が「白血病」だと診断されたのはちょうど池江選手が生まれた2000年のことだからもう18年程前の事です。当時東京で仕事をしていましたが、身体中がだるくて痛くてなんだかわからないけど体調がおかしい。とても仕事が出来る状態ではなくなったので実家に戻り、病院で精密検査をしてもらうもなかなか正確な診断が出ない。「白血病」だと診断が出たときにはもう貧血でフラフラになっていました。手や足には覚えの無いアザもありました。昔のドラマやインターネットで多少知識があったので「ひょっとして…」とは思っていましたが、実際に「急性リンパ性白血病」という診断が下されたときには何も考えられませんでした。すぐに入院・治療を始めないといけないと言われましたが、先生に無理を言ってなんとか一日だけ帰宅させてもらい、会社の仲間や友達に次々に電話をしてお別れを言いました。僕が性格的に楽観的というか、あまり悩まないほうだったので「ダメならまあ仕方ないや」くらいに思っていましたが、世話になった人や仲良くしてくれた友達にはもう会えないかもしれない、お別れくらい言っておこうと思ったのです。

励ましてくれる人。電話口で泣いている人。驚いて無口になる人。冗談を言ってくれる人。色々な反応がありました。「元気になったらまた遊ぼうな」と言ってくれる人がたくさんいたのはとても嬉しい気持ちでしたが、僕自身は心のどこかに「守れない約束はしてはいけない」という気持ちがあり、適当な返事をしていたような覚えがあります。

 

白血病は簡単に言うと血液のガンと言えます。血液がガンになるのではなくて、血液を作り出す細胞(造血細胞)に異常がおこり、正常な血液が造れなくなる病気です。大きく分けてリンパ性と骨髄性の2種類があり、さらにそれぞれ急性と慢性とに分かれます。治療法の進んだ現在では、そこからさらに十種類以上に細かく分類されるようです。池江選手の病状は「白血病」としか発表されていないので詳しい事はわかりませんが、通常であれば第一クールで強めの抗がん剤治療を行い、一度免疫を0の状態にして白血病細胞の根絶を目指し、状態に合わせて輸血や造血因子の投与を繰り返します。徐々に免疫が立ち上がり、白血病細胞が減少して寛解(かんかい)になったら、その後地固め療法として抗がん剤治療を2クール、3クールと繰り返します。治療の結果白血病細胞が確認出来ない状態(完全寛解)になっても、骨髄の奥深くで休眠状態の白血病細胞が生き延びている可能性があり、再発の危険があるので、放射線治療などを経て完全寛解の状態を維持しながら骨髄移植、臍帯血移植、造血幹細胞移植などを目指します。病状や環境によって異なりますが、一般的には骨髄移植の適用が多いとされています。

 

骨髄の型は血液の型とは違い、兄弟・姉妹なら4分の1の確立で同じ型ですが、親子間では1~10万分の1と確立が低くなります。他人間のほうが同じ型の確立が高くなる場合があるのです。そこで骨髄バンクで同じ型(適合者)を探してもらうことになります。池江選手が病気を公表し、骨髄バンクの登録が一気に増えたようです。バンクに登録していても55歳で定年(?)となるので、年間2万人の方が定年(卒業?)していきます。毎年新規に2万人の登録があるかといえば難しい事なので、先々登録者数は先細りになってしまいます。今回たくさんの方が登録へと動き出したことはありがたい事です。

 

僕自身の闘病生活を振り返ってみると、抗がん剤治療が始まって完全寛解になり、骨髄移植を受けるまで約1年3ヶ月程かかりました。これはおそらく治療が順調に進んだほうだと思います。途中苦しいことや痛い思いや辛いことなどはたくさんありましたが、それでも同じ病棟にいた同じような境遇の病人仲間達の様子を見ていると、自分は病気でありながらも恵まれているのだなと感じていました。

 

僕より少し先に治療を行っていた当時二十歳の女の子は、若くて体力もあり、免疫の立ち上がりも早いはずなので、抗がん剤治療の地固め療法も終って骨髄移植へと進む時期になっている…けれどなかなか免疫が立ち上がってこない。安定した寛解状態が保てない。骨髄移植へと進めない、どうすればいいんだろう…と担当の先生が悩んでいました。なんで僕の病室で悩んでいたのかはよくわかりませんが、先生にしてみれば僕がある意味楽観的に治療を受け入れているように思えてつい口にしてしまったのかもしれません。僕とは対照的に彼女は病気や現状をなかなか受け入れられず、毎晩泣き明かして悲観的になっている様子でした。「病は気から」とはよく聞く言葉ですが、治療を重ねていくうえで本人の治す気持ちがないと免疫も立ちあがってこない、次の治療に進めないんだと先生は呟いていました。

 

僕も病気になった時点では自分はもう終りなのだと思いました。でもなにもしないで終ってしまうのは悔しいしバカバカしい。出来る治療は痛くても苦しくても全部受け入れて、それでダメなら仕方ない、という開き直ったような気持ちで治療に臨みました。寛解状態になって骨髄移植の話が出たときも、「骨髄移植がうまくいったとして3年後に生きている可能性は40%。骨髄移植をしなければ生きられるかもしれないけど再発の可能性が高い。どうする?」と先生に聞かれ、何の迷いもなく「骨髄移植します」と即答。家族とは骨髄の型が合わなかったので骨髄バンクに適合者を探してもらうようお願いしたのでした。

 

あの時同じ病棟で同じ病気と闘っていた彼女はどうなったろうか。結局僕の治療が先に進み、島根の病院で骨髄移植を受けたのでその後会うことはありませんでしたが時々彼女のことを思い出します。治療が上手く進んで順調に回復していれば彼女も大人の女性に成長していることでしょう。そうなっていると願います。悩み、苦しんでいる彼女に何もしてあげられなかった。でも酷なようですが出来ることは何もないのも現実です。本人が受け入れて、背負って、向かっていく以外にない。そして周りの人は祈ることしか出来ない。現実はいつだって厳しい。

 

骨髄移植手術を受けているとき、ドナーの方が提供してくれた骨髄(名古屋から空輸されてきた!)が点滴から僕の血管に入り、身体の中を巡っていく感覚、浸透していく感覚を感じながら点滴の落ちるのを眺めていて、気がつくと涙がポロポロとこぼれ落ちていました。もらったのは骨髄だけど、「心」をもらったような気持ちになりました。空をクール便で飛んで来た骨髄液はひんやりしていたけれど、心の中が暖かくなっていくのがわかりました。

 

白血病の治療法はものすごく進歩しています。ところが現在でも白血病になる原因は解明されていません。予防のしようが無いのです。遺伝病ともいえないし生活習慣病ともいえない。誰が発症するのかもわからないのです。提供する気でいたら提供される側に回ることもあり得るのです。受け皿や選択肢は多ければ多いほどいい。

骨髄を提供する側(ドナー)は、何度も体調管理を強いられながら面談や検査を重ね、当日は全身麻酔で骨髄細胞を採取されます。現在でも3日程入院が必要になります。仕事の都合や家庭の都合、また微妙な体調の変化などもあるので最終面談・採取段階へと進むことも簡単ではありません。実際に僕の場合も一人目の提供者とは移植直前に話が流れました。その結果地固め療法をもう1クール行って体調を維持し、二人目の提供者から骨髄をいただきました。たくさんの善意や偶然や奇跡が重なっていまを生きています。感謝の気持ちしかありません。

 

病気の人に対して「頑張れ」と言ってはいけないというのが今の風潮です。辛い思いをしている人にもっと頑張れと言うのは酷だということでしょうが、これも受け取る人によって受け取り方が変わります。僕自身は「頑張れ」といわれるとちょっと嬉しかった。一緒に歩いて背中を押してくれているような気持ちになった。どう考えても頑張るのは他の誰でもない自分自身なのだから、頑張るしかないでしょう、頑張らせていただきます。そんな気持ちでした。

池江選手は強い気持ちと心で競泳選手として世界に立ち向かってきました。複雑な想いを抱えながらも強い気持ちと心で白血病と向き合うのだと思います。病気公表後の発言などをみてもとても18歳とは思えません。尊敬の念すら覚えます。そんな池江選手だからやっぱりこう伝えたい。こんなありふれた言葉しか言えないし伝わらないのもわかっています。

それでも〝願い〟として言いたい。

頑張れ。

頑張れ。

頑張れ。

 

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