僕は映画も好きだ。
人生、アート、音楽、演技、言葉、多くを表現する映像作品は、人の心を大きく動かす。
かつてヒトラーが人心掌握に映画を用いた理由がよくわかる。
僕自身も例外ではなく、わかっていても心を動かされ、本当に心に響く映画だとたった数時間で、今までまったく考えたこともなかったことを考えるようになったりもする。
 
今日はその中の1つを紹介しつつ、※自分が考えたことを書き記す。
(※とても多くを考えさせられた映画なので、正確には、自分が考えたことの一部になる。)
 
 
僕が考えさせられた映画は、
「ラ•ラ•ランド」、「ファーストマン」などでも有名な、
デイミアン・チャゼル監督の「セッション」だ。
かなり有名なので知ってる方も多いだろう。
実はこの映画、チャゼル監督が28歳の時に製作した映画で、ジャズドラマーだった彼の経験がいかされている。
以下、少々、映画の内容がわかってしまう部分もあるのでご注意を...
 
 
 
名門の音大に入学したドラマーと、伝説の鬼教師が繰り広げる狂気のレッスンがこの映画の見どころで、狂気の沙汰ともいえる世界観が描かれている。
僕は奮闘する彼らを見て、「才能」について考えた。

 

才能は多くの場面で優劣を決める要因となるもので、多くの人がこの壁とぶつかる。
勉強やスポーツや仕事には、必ず才能の差が生じるからだ。
しかし本当に才能は持っていた方が良いのだろうか?
 
この映画の主人公(ドラマー)には才能があった。
リズム感、音感、様々な才能の見方があるだろうが、僕の思う彼の最大の才能は、求められたことができる才能だ。
鬼教師から、何度も叱咤を受けながらも、求められたことができるようになり、その才能のおかげで、「もっと」という感情を極限にまで高めることができている。
それは「努力」などという凡人に与えられた夢では到達できない領域かもしれない。
しかしその才能を使い、ある一点に莫大なエネルギーを使った先には何が待っているのだろうか。
映画にはその先は描かれていなかった。
 
 
僕は何となくその先に潜んでいるものがわかる。
おそらくそれは「死」だ。
どのような経緯で死に至るか、詳しく説明するのは割愛するが、抽象的な例えでいうと、「才能を持った人間が、ある一点にエネルギーを注ぎ込む」というのは、「非常に大きな重力を持つ物質がブラックホールをつくる」ようなもので、一気に集まった莫大なエネルギー(ブラックホール)は、急に消滅してしまう。
それは人間でいえば死だ。
 
多くの天才と言われた人達の言葉の中には、死にまつわる言葉が多々みられ、才能のあるものが本気で物事と向き合うと、何故か死と向き合うことになる。
今の僕では、その因果関係はうまく説明できないが、「死と才能」の関係は「陰と陽」のようなもので、表裏一体のものなのかなと思った。
 
 
セッション。観てない方は是非観てください。
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ブログを書きながら、いろんなことを考えるのですが、どうやら僕は凡人のようで、なかなか文章にまとめるとは難しいく、練習が必要ですね。笑
ブラックホールを例でだすか?とか自分で自分にツッコミを入れながら、自己満足文章を書いてるのですが、ご意見ご感想はめちゃめちゃ大歓迎です!
「こういうこと?」とかの質問でも構わないので、何かあればコメントください^^
 
 
注意:僕は映画やアート作品をみながら、毎回こんなことを考えてるわけではありません。笑