ゲーテ協会からのご招待で、早稲田大学共催のライムント・ホーゲ レクチャー+パフォーマンス『Body Space Music』に参加してきた。


ホーゲが登場する早稲田大学の小野梓記念講堂の舞台でのパフォーマンスは、いまだかつて体験したことのない実に思い出深いものとなった。


世田谷徒然日記



合間に幾つかの映像も披露され、合間にホーゲ自身が演ずるダンスを目の前で鑑賞する貴重な経験ができた。


世田谷徒然日記

(ライムント・ホーゲ(Raimund Hoghe)。

 早稲田に続き、明日からは、京都で公演)



不思議な感覚の伴うホーゲ自身が演ずるダンスの空間には、音楽が絶えず流れている。


音楽は、バッハであったり、マリアカラスの美声であったり、ストラビンスキ―であったり、ガ―シュインであったり、様々であった。


そこで気付いたが、ホーゲはたった一つの単調な動作しかしていない。けだし、結して退屈なものではなく、一瞬緊迫感が持続している。


世田谷徒然日記


今回のレクチャー+パフォーマンスで、想定外に、実に得難い貴重な経験であったのは、ホーゲ自身への会場からの質疑応答の機会が与えられたことであった。


創作のプロセスの中では、主に、音楽とダンスとどちらが、先行するのか、という質問には、音楽の有意性を説明した。


もしも、ここにピーナ・バウシュ(Pina Bausch)が生きておられて意見交換する機会があったら、彼女だったら何と答えたであろうか?


世田谷徒然日記

(ピーナ・バウシュ)


ホーゲ自身の体のハンデイと彼自身の藝術との関係性についての踏み込んだ質問もあったが、ホーゲは何ら関係はないとし、むしろ、異質性間のコミュニケーションの意義を淡々と答えておられた。



ホーゲは、こう言う。


「長年にわたり言葉を使って書いてきた。しかしその言葉の背後にある身体を目で見ることはできない。そこで今度は私自身の身体、そしてダンサーの身体を使って書いてみる。すると言葉で書くことと、身体で書くことが私にとっては結局何ら違いのないことだとわかる。つまり、言葉とダンスに境界線はない。全てが互いに結びついている。まるで人生のようにね。」


彼自身、もともとはフリーのジャーナリストとして、「ディ・ツァイト」紙等に寄稿していた物書きであり、元来が、ダンサーでも振付師でもなかったことも面白い。



さらに、ピーナ・バウシュ(Pina Bausch)についていろいろ伺いたかったが時間切れで機会を逸した。


ホーゲのダンスを観ていて、これは、「ダンス」ではなく、ある種、特別な「儀式」に立ち会っているのではなかろうかと思えてきた。


そこに、ホーゲの真骨頂があるような気がした。


世田谷徒然日記


【ライムント・ホーゲ(Raimund Hoghe)

フリーのジャーナリストとして、「ディ・ツァイト」紙、「テアター・ホイテ」誌、西ドイツラジオ放送に寄稿。1980年からタンツテアター・ヴッパータールの文芸部員に就く。賞としてはテオドール・ヴォルフ賞とノルトライン・ヴェストファーレン州の文学推進賞を受ける著書に『長所としての弱点』(ベーテルからのルポルタージュ、1976年)、『バンドネオン―タンゴにはどんな効果があるか』(ピナ・バウシュの作品のためのテクストと写真、1981年)、『ほかと違う――アウトローの履歴書』(1982年)、『愛の値段』(短編小説、1984年)『ピナ・バウシュ タンツテアターとともに 』は、ドイツの革新的ダンスカンパニー、タンツテアター・ウッパタールカンパニーのドラマトゥルクとして、2009年に急逝した振付家ピナ・バウシュとダンサーたちの創造の現場とかれらのパーソナリティーをがつぶさに語っている。カンパニーが独自のスタイルを完成させていった1970・80年代の貴重な記録で高い評価がある舞台と稽古場の写真を多数収録。2006年、《Swan Lake, 4 Acts》によってフランス批評家による最優秀外国作品賞を、2008年にはダンス専門誌『ballettanz』の批評家投票によって、2008年のベストダンサーに選ばれたデュッセルドルフ在住。

【ピーナ・バウシュ(Pina Bausch)】
ピーナ・バウシュ(Pina Bausch)は、本名Philippine Bausch。(1940年7月27日 - 2009年6月30日)14歳から、ヴッパタールに近いエッセンのフォルクヴァンク芸術大学で舞踊の巨匠クルト・ヨースに師事し、ダンサーとして頭角を現した。同校を首席で卒業後、18歳のとき国費留学生として米国ニューヨークで、ジュリアード音楽院 舞踊科に入学。帰国後、フォルクヴァンク舞踊団でプリマ・パレリーナとして活躍。のちフォルクヴァンク芸術大学の教授就任。1969年にフォルクヴァンク舞踊団のために振付けた作品「時の風 の中で」がケルンのコンクールで1位を獲得したのを契機に、ヴッパタール市立劇場から作品の 依頼を受け、クルト・ヨースの後継者となって独自の舞踊を確立することに邁進。1973年に、ヴッパタール市立劇場パレエ団の芸術監督・振付家に就任。その名称を「タンツテアター・ヴッパタール」と改名。最初は、一地方都市の舞踊団にすぎな かったが、彼女の個性的な創作活勤によって世界の舞踊界で注目されるようになった。彼女は、今世紀初頭に始まつたノイエ・タンツの様式をさら に発展させ、演劇的手法で表現するオリジナルな舞踊芸術を確立した。3年前の2009年6月末、ガンにて死去。



世田谷徒然日記

(今日の快晴の美しい青空に映える大隈講堂)