実に感銘を受けた。新しい歴史作りへのヒントを感じた。


世田谷徒然日記


今日、中沢新一氏の話を聴いてきた。テーマは、「深沢七郎」についてであった。熱かった。心に響いた。


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中沢新一氏は、「深沢七郎は日本文学が知った最後の奇蹟なのである。」と説く。


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深沢七郎は、42歳の時に、姥捨て伝説を題材にした「楢山節考」で中央公論新人賞を受賞し、三島由紀夫をして驚愕せしめた奇跡の作家とも言われている。


世田谷徒然日記    世田谷徒然日記

(「楢山節考」原稿)


今日の中沢新一氏の話を聴きながら、ふと思った。


いまや世界が「3.11」を契機に、今後の人類に行き先に当惑を覚えている中、ポストモダンの新しい到来は実は、脆弱で不安定なグローバリゼーションに基づいた思想ではなく、むしろ、地に足がついた図太い野生の思考ではなかろうかと。


そして、実は、無知な庶民を装った深沢七郎の考えそのものが、まさに、図太い野生の思考なんではなかろうかと。


中沢新一氏は、日本人が、そのDNAの中に縄文時代以来古来伝承してきた普遍的な野生と共同体的な感性を放棄し、その庶民性をから乖離した形でて、近代化の名のもとに、西欧風の輸入した「悩める個」の次元に浮遊していた、と総括する。


そして、いわゆる悩めるインテリの上から目線の文学ではなく、近代文学の歴史において、深沢七郎は、特異で希有な存在として、「奇跡」として、文壇に突如登場し、まさにその庶民の真っただ中にいたままで、強烈な存在感を持ちつつ、やや下品で野卑な位置に居座り、そこから、自然体で文学を発信した。と高く評価する。


そして、続ける。


だからこそ、もっとも洗練された近代文学を築いたとも言われていた三島は、深沢七郎の出現に感動しながらも当惑し、小林秀雄に至っては、恐れおののき、逃げまくったのである。と喝破している。


講演後、無性に深沢七郎の本を読みたくなり、帰りに、1冊の文庫本を買った。


深沢七郎の『言わなければよかったのに日記』である。これがまた、抱腹絶倒。実に面白い。


そして、読みながら、あらためて、思った。



すべてが機能的で無機質で軽薄で皮相的な、実に生命線の薄弱なこの近代人間社会において、ややもすると、いままで異端視されてきた深沢七郎の、野卑な、むせかえるほどの生命力こそが、いま、もっとも求められているのではなかろうか。と。


【深沢七郎】

深沢七郎(1914~1987)は、山梨県笛吹市石和町市部に生まれ、42歳の時に、姥捨て伝説を題材にした「楢山節考」で中央公論新人賞を受賞、その後も「笛吹川」「東京のプリンスたち」「みちのくの人形たち」などを発表し、異色の作家として注目された。


世田谷徒然日記

(ギタリストでもあった作家の深沢七郎)


【中沢新一】

中沢新一は、1950年、山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。宗教から哲学まで、芸術から科学まで、あらゆる領域にしなやかな思考を展開する思想家・人類学者。著書に『チベットのモーツァルト』(サントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)『カイエ・ソバージュ』全5巻(『対称性人類学』で小林秀雄賞)、『緑の資本論』、『精霊の王』、『アースダイバー』(桑原武夫学芸賞)、『芸術人類学』、『三位一体モデル』、『ミクロコスモス』シリーズ、『狩猟と編み籠 対称性人類学』、『鳥の仏教』など多数。20064月より、芸術人類学研究所所長、現在明治大学野生の科学研究所所長。



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【「言わなければよかったのに日記」】

中央公論社より昭和33年10月31日に初版されている。少々行儀の悪い筆者の魅力が簡潔に再構築されている装釘もこの初版本の魅力のひとつといえる。表題作「言わなければよかったのに日記」は毎日書かれたものではなく、思い出してまとめて書かれたものだと、あとがきにある。『楢山節考』で1958年中央公論新人賞を受賞し、文壇デビューまもない深沢七郎がその後、当時の錚々たる作家たちと交流を重ねた際に感じた、自分のものをしらない滑稽さや冷や汗をかくような失敗談、そしてそのたびに「言わなければよかったのに」と後悔してしまう心情が綴られている。しかし、恥ずかしいと言っている割には、当の本人はそれをさほど気にするわけでもなく、萎縮するどころか実にあっけらかんとしているのが何とも面白い。それどころか、時折見せる観察眼は人間の本質をえぐり出すような鋭さですごみさえ感じさせるほどである。


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