英国の経済学者ケインズ(J. M. Keynes)、ドイツの文学者エンデ(Michael Ende)は、その立ち位置や表現手段こそ違うが、「真の豊かさとは何か」という不可解な難問に対して、ともに「貨幣欲との適度な距離感」がヒントになることを実に見事に喝破している。
ケインズは、1930年に書いた「わが孫たちの経済的可能性(Economic Possibility for our Grandchildren)」と題した小論で、見事な洞察と予言を披露している。
紀元前2000年から18世紀の初めまで、地球文明の中心地における人々の生活水準は、重要な技術改善や資本蓄積が行われなかったため、疫病や飢饉はあったものの、ほとんど変化を見なかった。
16世紀に開始された資本蓄積はスペインが新世界から旧世界にもたらした金銀財宝の利潤によって始まった。
その時から現在に至るまで複利による驚くべき蓄積力によって、資本の増加は旧時代の100倍をはるかにこえる大きさとなった。
そこで、ケインズは、依然として、貪欲・高利貸・将来への蓄えはまだ必要だとしながらも、「重大な戦争と顕著な人口の増加がないものと仮定すれば、経済問題は、100年以内に解決されるか、あるいは解決の目途がつく。…これは、経済問題が人類の恒久的な問題ではないことを意味する。」と喝破し、やがては、「この200年間最も下劣と思われた貨幣の所有欲を最高の価値ある地位に押し上げてきた道徳原理を我々は追放できるであろう」と予言する。
同時に彼は、将来の貨幣欲追放に到達する為の要素として、人口統制の力、戦争と内乱を回避しようとする我々の力、科学固有の問題と管理を科学者にまかせようとする我々の意思、貯蓄率の4つを掲げている。
一方、ドイツ人文学者のエンデは、1973年に衝撃的な児童文学の金字塔『モモ』 (Momo)を発表した。
時間貯蓄銀行(Zeitsparkasse)と称する灰色の男たちが街に現れる。彼らによって人々の時間が盗まれる。すると、みんな心の余裕が無くなってしまう。
やがて世の中に、慢性的な空虚感、抑鬱気分、絶望感、感情不安定、社会的関係への関心のなさ、情緒的な冷たさが蔓延する。そこに、貧しいけれど人々の話に丁寧に耳を傾け、自分自身をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ不思議な少女、モモが登場し、人々が奪われた時間を取り戻すべく果敢に戦う。やがてモモは勝利し、奪われた時間を取り戻す。この1冊の本は、忙しさの中で生きることの本質を忘れてしまった人々に対する警告書であり、利子が利子を生む現代の貨幣経済システムに深い疑問を投げかける経済論文でもある。
この物語は児童文学書であるが、むしろ立派な未来志向的な哲学書でもある。
この2人の先哲のメッセージは、我々に、人類は、貨幣欲との適度な距離感を説きながら、自らの真の豊かさを追求しつつ、やがては、貨幣欲の追放に到達できる次元に達する必要性と可能性を示唆している。こうした文脈で、若干のアイロニーを込めて言うなれば、そもそも、経済学とは、いかにしたら貨幣欲から解放された世界を創造できるかを模索する学問であるとも言える。
確かに、経済的な問題、すなわち生活物資の確保は、今もなお、先進国も途上国も含めて、常に緊急な問題ではある。
それがゆえに多くの悲しい戦争、忌まわしい格差問題や不条理な人間疎外が発生している。
しかし、ケインズは、「貪欲や高利や警戒心は、いましばらくなおわれわれの神でなければならない」が、これは過渡的な現象にすぎず、経済的な進歩は、わが孫たちを一つの到達点、つまり「経済的至福( economic bliss )」に導くと予言する。
そこにおいて、人々は、いままで一種の必要悪として容認してきた「財貨としての貨幣愛」をようやく「半ば犯罪的で病理的な性癖の1つ」として放棄でき、そこでは、あらゆる産業分野における生産性が向上し、労働時間は大幅に短縮され、漸く「効用よりも善を選ぶ」時代を迎え、人類に、真の幸福を担保できる余暇と豊富の時代が到来する。
かような未来図をケインズが予言したのは、いまから80年前のことである。
彼の予言が正しければ、あと20年で、経済問題は解決の目途がつき、economic blissが実現しているはずである。
はたして、このケインズの予言は、真なのか否か。それは歴史の審判にゆだねざるを得ないが、当然のことながら、現段階では、依然として理想と現実のギャッ
プは大きく、経済的至福に至る道はなかなかどうして遠い。
このことは、ケインズやエンデの没後、今日に至る様々な内外政治経済政策の蹉跌や地球環境問題解決への試行錯誤の死屍累々が物語っている。
はたして、economic blissは、我々にとって、真夏日の炎天下に見る「逃げ水」のごとく、永遠の幻なのであろうか。見果てぬ夢なのであろうか。
実現時期はともかく、幸運にも、やがてeconomic blissの域に達する時期が来たとすれば、そこに、はたして真の幸福はあるのであろうか。残念なことに、ケインズもエンデも、こうして到達した経済的至福の状態において人々の享受する具体的な生活の豊かさについては、何も言及していない。
ただケインズが、余暇による退屈がもたらす神経衰弱の懸念に触れるに留まっている。いま、もし彼らが生きているのであれば、この後続の物語について、じっくりと彼の意見をうかがってみたいものである。
