先日、学生諸君と話していた席上、話題が、日本人の特性の話になった。


「日本人の特性」をひとことで表現すると何だろうか?と問いかけてみた。


さまざまな意見があったが、その中で、「画一的」という評価が結構何人かから出てきた。


日本人が画一的だという印象論は、よく聞く話である。「外国人から見た日本」と「外国人から見た日本人」という雑誌やメデイアの特集でもよく出てくる指摘であるが、「はたして、そういった日本人観自体が、実は、「画一的」なのではないか」と、彼らに切り替えしてみた。「はたして、本当に日本人は、本当に「画一的」なのであろうか。結構、多様なのでは。」と反駁してみた。


かの、ジョン・ラスキン(John Ruskin)は、「進歩が生まれるのは、多様性のなかの選択からであって画一性の保持からではない。」と喝破しているが、確かに、日本人が生み出してきた進歩はノーベル賞に限らず、多分野において、過去にも多々実績がある。そうした進歩を生み出す素地が日本にもあったと思うし、それなりの「多様性」は担保されてきたとも思うが、どうだろうか。


それでは、現在の日本人の実態はどうなのか。今後も、ノーベル賞は日本から多く輩出されるのであろうか。画一性と多様性の按配はどうなのだろうか。そして、未来は、これからはどうなのだろうか。


いまの日本に、坂本龍馬がいるのか、アインシュタインやナッシュがいるのかと問われれば即答できない。はたして、過去はともかく、今後の日本人と日本は、この多様性が健全な形で担保されてゆくのであろうか、この点どうなのだろうか。


しかし、この点について、徒然人はあまり悲観していない。


なぜなら、日ごろ接している10代、20代の諸君の中に、様々な多種多様な分野で、自分のすきな道を進もうと、高い志を持って、自分の信じる生き方を勇気をもって邁進しようとしている人物とも多く出会ってきたからである。世界の最先端で研究している独創的で優秀な青年も多く知っているし、新しい世界を切り開いた社会事業家もいれば、無酸素でエベレスト登頂を目指す青年もいる。農業で社会を変えようとしている実に魅力的な有意の青年も知っている。


アリストテレスの時代から「いまの若者は」と若者を懸念するせりふがあったそうであるが、古今東西、若者を過小評価する傾向がある。もっと可能性に目を向けるべきである。いまの若者を過小評価してはならないと思う。そして、確実に、彼らは歴史を書き換えようとしている。


むしろ、肝心なのは、こうした人間、皆1人1人違うということを尊重し、評価し、認める社会の仕組みである。自由とは相手を認める度量と同義である。そして、その違った1人1人の人間が真に心豊かな人生を送れる仕組みが望まれる。


ラスキンは、こうも言っている。


「人間が自分の仕事において幸福であろうとするならば、その人間はその仕事を好きでなくてはならぬ。」


好きなことを自由にできる社会が不可欠である。そこの真の幸せがある。


大事なことは、こうした希望の芽を摘むような社会であってはならないことである。


もはや、物理も古典も英語も数学も得意な万能な人材は時代が求めていないかもしれない。学校でも基本的な哲学やTheory of thinkingは学ぶ場があってもいいかと思うが、それ以外は、それぞれ自分の好きなことを自由にさせたらいいかと思う。生涯物理や微分や古事記を知らなくても、それでも好い時代が来てもよかろう。


もう偏差値で、単純なピラミッド序列を描いて、その数直線上に、幸せの尺度を重ねあわせる、不毛な「画一的」な時代は終焉を迎えつつある。虚栄心に彩られた名門幼稚園もお受験ブームもやがて無意味になる時代が到来するであろう。有名大学や一流企業も死語となる時代は、遅かれ早かれ到来するであろう。


昔ギリシャ神話か何かで、ベッドの長さを顧客に合わせないで、顧客の足をベッドの長さに合うように切り落とす話が合ったが、まさに現下の日本の社会構造や価値観が、かようなベッドの量産では困るのである。


もはや、画一的な国家に進歩はなかろう。未来はなかろう。そういったこ国民に真の幸せは到来しないであろう。


日本はそうであってほしくはないし、そうならないと信じている。


いまこうして接している学生諸君の未来のためにも。


【ジョン・ラスキン(John Ruskin)】

19世紀イギリスの評論家・美術評論家。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した。.