NIMBY(ニンビーあるいはニンバイ)と言う、実にシニカルで不思議なことばがある。


この不思議な言葉は、Not In My Back Yard(自分の裏庭ではこまる)の略で、ある施設を建設することやリスクや費用を負担をすることに対して総論として必要性は認識するものの自分たちの地域には建設して欲しくないし自分でリスクや費用を負担するのは嫌だとする感情を示している。一種の人間の業であり、エゴである。現下の普天間問題も、地球環境問題も、いずれも同根である。この解決策は、リスクや費用の合理的な調整を伴う公平性と透明性しかない。むろん、そう簡単ではないが。


この議論のやりとりを観てて思うことは、いずれにしても、なによりも大事なことは大局観を見失わないということである。そしてコストとリスクを全員で負担する意思の強さとそれを担保する知的な仕組み作りが大事である。


人類が愚かでないのであれば、それは不可能ではないはずである。


徒然人は自然の中をあるきまわることが好きで、田舎が四方が山に囲まれた環境でもあったのでいつも山々を眺めながら育ち、よく山にも登った。そのささやかな登山経験でも学んだことが2つある。1つは一歩一歩着実に登って高度をかせげば必ず頂上に立てるといういたって明確な真実である。そして、2点目は、目指す頂上が常にどこにあるのかを見失わないことである。地図を見直すことも、眼前の尾根や稜線を観ることも大事だが、頂上が常にどこにあるのかを認識することが、さらに大事である。


それは地球環境の議論でも身近な我々個々の人生でも同じである。


先のコペンハーゲンは終りではなく始まりである。


そのCOP15が散々だったというてきびしい批判はよく聞くが、その批判はピントがずれている。議長運営の稚拙さもあったろうが、元来その属性として不可避的な、換言すれば通過儀礼として生みの苦しみでなのある。


先のコペンハーゲンでの約束に応じて、すでに先進諸国40カ国が削減目標を提出しており、途上国も35カ国が削減対策を提出済みである。個別に削減目標を公表しているその他の国々もあわせるとこの総数は117カ国にものぼり、世界全体の排出量ベースで86%をカバーしている。京都議定書の参加国が米国や中国・インド等を欠けた見切り発車だったあの時代と比べると格段の進歩とみて好いだろう。ようやくここまで来たのである。


最終的な法的拘束力を持つ段階までにはまだ時間も労力も要するが、ようやく稜線が見えてきたのである。少なくともその稜線は頂上に確実につながっていることは確かである。


いまこそ、はるか向こうに輝く頂上を見つめ、そこを目指しているのだという初心をあらためて再認識し、確実に近付いていることに自信を持つことが肝要である。


いままで20余年にわたり粘り強く気づきあげてきた国際的枠組みは、いままでの道程を振り返ればよくわかる。真下にはいままで登ってきた細い登山道とそれを取り囲む美しいすそ野が広がっている。不可能と言われながらも、ようやくここまで来たのである。


将来世代に気候変動のリスクとコストを極力最小化して引き継ぐ義務が我々にはある。そして世界中のあまたの脆弱で貧しい国々の現に気候変動の被害を真正面から被っている悲劇を最小化する責務が我々にはある。産業革命前の状況から気温上昇を2度未満に押えることは現代科学水準から決して不可能なことではないと言われている。むしろ、それを実現することができるか否かは、我々の意思の力である。我々次第である。


世界人類が、真っ先に確実にやらねければならないことは明確である。単純である。


2012年末に期限到来する現行の京都議定書に続く、ポスト京都の国際的枠組みを、先進国と途上国がNIMBYの亡霊に打ち勝って、はるか向こうに輝く頂上を見つめ、そこを目指して、新たな法的拘束力を持つシステムを、2013年からの空白をあけずに、一気に構築することである。


はたして、今年の11月末からメキシコのカンクーンで開催されるCOP16がいかなる進展を見せるのか。はたして、NIMBYの亡霊に打ち勝って将来世代の持続可能な幸福を担保できる「カンクーン議定書」が誕生するか?


もうすでに地道な登山は始まっている。地図はある。目指す頂上も見えている。


いまも我々の目の前にある坂の上の雲の向こうには頂上が見え隠れしている。