「Twitter」がはやっている。


少し試してみたが、古いタイプの人間かもしれないが、やや警戒感がある。友人に言わせればそれは「食べず嫌い」だとのこと。しばらく習慣化したら徐々に面白さも出てくるとのこと。確かに、生まれて初めて自転車に乗ったり、初めてコカコーラを飲むときの感じかもしれないし。しばらく試してみればいいのかもしれないが。


以前から、自分の性格が「現場主義」で、「直接主義」である。その一方で、ネットは、「間接」で「非接触」である。バーチャルな世界である。


こうしたネットの道具が、海外の友人との交信や、仕事や研究のための情報往来や情報収集。とっておきの美味しいお店を探したり、知識や知恵を得たり、時代の流れを感じたりするのにとっても便利であることに異論はない。徒然人も実際結構使っている。感謝している。


しかし、あくまで、直接逢う人的つながりのきっかけとして重宝ではあっても、そのバーチャルな世界に四六時中埋没することには抵抗感がある。いまやっているこのブログも、限定的に使っている。週日の仕事を除けば、自宅では、PC前には、週末の朝とか、一定の時間を限定して、あまり習慣的に埋没しないよう自己規制している。むしろ友人と飲んだり、家族と過ごす時間が100倍重要である。ネットでPC前に1時間座ってにらめっこしているくらいなら、スタバでカフェラテを買って、晴れた青空の下で友人と散歩したい。一定時間以上この電子部品の塊の前で電磁波を浴びながら座っていることは苦痛ですらある。


元来インターネットや携帯はじめIT文化には、いまだに本能的な警戒心がある。必要だし便利だから仕事でもプライベートでも使っているが。あくまで「程度問題」だと思っている。必要悪とすら思っている。


冒頭に触れた通り、特に、最近猫も杓子も話題に出す「Twitter」にはなぜか生理的な距離感を感じる。


むかしから、あまのじゃくかもしれないが、誰もがする野球やゴルフやカラオケには抵抗感があるのと同じかもしれない。「Twitter」にはなぜか襟巻トカゲやレッサ―パンダと似た一過性のブームへの警戒感と同じものまで感じる。


公開情報されている識者による「Twitter」についての解説・分析によると、Twitterは、チャットとブログの中間的な性質をもっているらしい。


Twitterは、あるユーザーが文章を書き込み、別のユーザーがそれに短い応答を返す、その連鎖がチャット形式で表示される仕掛けである。そして、利用者は、いつでもメッセージを発し、また読むことができる。とっても便利らしい。チャットの参加者ほど時間を共有しているわけではない一方で、ブログほ、距離感があるわけではない。なるほど。Twitterは、さも同時に、リアルタイムで交わされているかのような錯覚があるとその道の経験者は言っている。本来は時差コミュニケーションであるものが、あたかも同期コミュニケーションのように錯覚されているらしい。


その道の専門家は、このことを「擬似同期性」と呼び、Twitterの急速な普及の鍵だ分析している。


怖いのは、Twitterが、従来のブログの巡回等の「非同期的」なメディアであるネットが抱えていた孤独感を解消する方便としてという登場している点である。個人的な、孤独な習慣に、実際には違うにも関わらず、共鳴や同期性といった一種の集団幻想を与えるものではないかと。本当の孤独はかような幻想で解消できないにもかかわらず。


まあ、逡巡したり躊躇せず、まずはやってみなはれ、と言われそうではあるが。