いまインターネットの発展進化の影響か、「どこか別のところ(Elsewhere)症候群」が蔓延しているらしい。いま人々は常に、「どこか別のところ(Elsewhere)に行かなければという焦燥感、強観念にとらわれているとの洞察である。


先日のNewsweek(28th Jan 2009)のNY大学社会部長の書いたエッセーだ。実に面白い鋭い分析である。


「常に動いていて自分の居る場所と時間が正しいと思えるのは、次の目的地に移動している最中だけという気がする。」と言うコメントが印象的であった。


どこか別のところ(Elsewhere)社会に向けて、1950年代からアメリカでゆっくりとした変化が始まった。そして人々の財布と家庭と人間関係に影響を与え、人々はいま戸惑っている。それは日本人にも当てはまる。昔はいまよりも労働時間は短く、しかも職場を出た後は、家庭でもPCに向かって仕事の続きをするなんてありえなかった。だから、子供とキャッチボールする時間的な余裕もあった。しかし、いまはない。

人々がいつもイライラしている。そしていつも、この「今」を大事にしなくて、、「どこか別のところ(Elsewhere)に気持ちは向いている。だから、列車に乗るのでも、次の列車を待たずにプラットフォームを走るのか、女子高校生が人目をはばからず車内で化粧をするのか、と妙に合点した。そこに今を大事にする姿はない。


人間って賢いか愚かか時々分からなくなる。ゆとりのある心豊かなおちつきのある人生を希求しているのに、結局その日を目指していまはがんばるのだと「今」を犠牲にしてしゃかりきになって働き、あらゆる大事なものを犠牲にして、結局それで人生が終わってしうまう危険をいつもはらんでいる。それでは人生いつになったって楽になりゃしまい。どこか別のところ(Elsewhere)にいつも気持ちがいっていて心ここにあらずなのである。


でも本当に大事なことは、人生は「今」の積分でしかないことを自覚することである。「明日」は妄想であることを知るべきである。夏の日の「逃げ水」のように、「どこか別のところ(Elsewhere)」を追っかけても、いつも遠くへいってしまうのである。もともと、どこか別のところ(Elsewhere)なんてこの世にないのである。


「忙しい」という漢字は、「心を亡くす」と書くんだと昔高校の国語の先生がいっしゃっておられたことの含意を思い出した。


昔まだ若くて青臭いい頃、為替ディーラーの友人と飲む時に、彼らがミニロイターをテーブルにおいて飲んでいるので、為替と友達とどっちが大事なのだと、真剣に怒ったことがあった。最近でもM&Aの要職にある外銀の友人がテーブルのかたはらにブラックベリーをおいて交信見ながら飲んでいるので、やや気の毒に思った。彼らは職業柄やくなくかわいそうだとは思うが、なぜこうまでして、私生活に仕事なり他の要素が侵食してしてきているのか、いまの便利で節操のない公私の境界線のぼやけてしまったシステムの欠陥と現代人の「人間疎外」を感じた。最近では高校生や大学生も、居酒屋で友人と飲む時に、お互いに話をしないでそれぞれ自分の携帯のメールを見ている場面が多いと聴く。皆さん「どこか別のところ(Elsewhere)」に気持ちがいっていて「今」が空虚なのである。カラオケもしかり。徒然人は元来苦手なのであるが、なぜなら、皆さん自分のい世界に入っていて「どこか別のところ(Elsewhere)」に気持ちがいっていて「今」が空虚であるから、そこに心の交流がないからである。虚しく時間が消費されてゆく気がしてならない。


このNewsweekのエッセーを読んで、いろいろ思った。そして、昔、ドイツで子供と一緒に読んでドイツ人童話作家のミヒャエル・エンデの『モモ』をふと思い出した。