先の英国訪問の際、片田舎に住む詩人ラルフの自宅に招待され、彼の家族とともに美味しい手作りの夕食を頂きながら、しかも嬉しいことに地球温暖化の影響で美味しくなったとジョーク付口上で頂いた実に美味しい英国製ワインを堪能しながら、愉快な時間を過ごした。
その席上で詩人は問わず語りでこう面白いことを言っていた。
「欧州の古い諺に、ゆっくりと歩む旅人は一番遠くまで辿りつける、という示唆に富んだ箴言がある。いまこそ、その意味を考える時期である。いま世界の経済の仕組みそのものが壊れつつある。急進的で貪欲(greedy)な仕組みにはもはや限界が来ている。いまこそ、新たに地球環境と人間に優しいnon-greedy仕組みを構築すべき時代にあると思う。」と。そこに深い洞察と未来志向の含意を感じた。
確かに、大昔からの先哲の知恵は、いかに無限大の膨張しがちな人間と欲望を抑止するかの工夫の歴史だったかもしれない。日本では「もったいない」という習慣や価値観は徒然人も田舎のおばあちゃんからよく聴かされたし、古い時代のキリスト教やユダヤ教、さらには今日のイスラム教の教えるところの「リバー(自己増殖の禁止)」も、ある意味、理屈抜きの「絶対教義」として、人間の果てしない欲望にたがをはめる一種の「知恵」だったのかもしれない。換言すれば人類は長い歴史の中でこういった工夫を一種の「持続性(sustainability)」を担保する装置として創造してきたのであろう。
ゲーテのファウスト博士のメフィストテレスとの交渉を紐解くまでもなく、古来の文学、哲学、宗教、さらには昨今の経済学の議論の推移を省みても、多くの部分で、人間の幸福に頓着して、その向こうになる永遠の幸福の持続性について、永遠なる命について志向し問答ている気がするのであるが、とりわけ昨今の地球環境の有限性、脆弱性の問題意識が高まるにつけ、この議論はいよいよもって真正面からしかも具体的にその「均衡解」を模索せざるを得ない次元に至っている。もはやそこには神学論争をネバーエンデイングに繰り返している猶予はない。
経済的価値はあくまでも幸福になるための1つの要素でしかないのに、なぜかそれが全ての行動の究極の目的のうようになって「自己目的化」し、若干20代で田舎に住む自分の親父年収の100倍以上の取得を得て、そのために目をさらのようして、人格が変わったかのように守銭奴になりきる姿はもはや幸福な形のそれではないであろう。そんなのは個人の自由だと言ってしまえばそれまでだが、その挙句の果てがこのサブプライムに端を発した国際金融危機とその結果としての死屍累々である。人類は本当に賢いのか愚かなのか分からなくなる。そしていつも思うのであるが、こういった空虚な幸福の追求の何百倍もの不幸がそのすぐ脇に横たわっている。そしてその不幸を被る多くの人々が世界の貧困層等の弱者なのである。そこに人類の不条理を感じるのは徒然人だけではなかろう。
もう経済的なサイクルに伴う不況の解決策を戦争という有効需要政策で解決する愚行は厳に回避しなければなるまいし、地球環境ののっぴきならない現下の状況を鑑みるに、もはや人類にとってそんなくだらないゲームをしている暇はないはずである。
あの日、イギリスの田舎で詩人がいったモノローグは、まさにこの大きな疑問としていまも頭の中でリフレインしている。