いまや多くの日本人が、漠然とした将来への不安や国家としてのゆるやかな衰退への蒙昧とした焦燥を抱きつつある。
しかし、そこにはやや不健全な蒙昧として閉塞感にも似た空気はあるものの、行動に移さなくてはならないという緊張感が感じられない。
今度の洞爺湖サミットでもそうであるが、期末テストが近くなってあわてている中学生と精神構造は五十歩百歩なような気がする。サミットで表面は世界のリーダー面していても、こういった本番で見識と実力が露呈する。世界の人々はそれを冷静に見ている。もはや言い訳はできない。温暖化対策でもそうであるが、国内の利害関係のなれのはての国内配慮的・調整型政策提言で世界が納得するとは思えない。今後、日本がどうしようとしているのか、そして、実際に自らどう行動しようとしているのか。世界に何をコミットするのか、そこを期待しているのだ。
よく言う「ぬるま湯理論」であろうか。目先のなんとなくいごこちのいい状態で安住していると、その風呂のそこで火が燃えていて、やがては入ってる湯船が熱湯になっていずれは死に至ることに気がつかないかえるの寓話である。かえるは最初から熱湯に投げ込むと、熱いので必至で脱出しようとするらしい。でもぬるま湯につかっていると徐々に温度が上がってゆくので致死的状態に至るまで気がつかず、熱湯になった時点ではもう手遅れとなるらしい。
目を携帯画面に限定し、外の視界をさえぎり、耳をi-podで外の音をさえぎり、なるべく外部とのわずらわしい接触や干渉を回避する傾向が若者中心に多いと聴くが、それは大人も政治かも官僚も同様で、こうして日本1億総閉塞状態で、極東の島国のささやかなぬるま湯につかって、世界との情報と問題意識の共有化を拒み続ける国家の衰退はおして知るべしである。
日本は不思議な国だとよく外国人の友人に言われる。日本人は個々人は皆さん優秀で質も高いのに、それをなぜ総合的に高め、しかもその成果を自分たち自身の幸せやコミュニティーのいごこちのよい環境創りに反映させていないのか。なぜ街があんなに醜いのか。美しくないのか。何のために一生懸命勉強して働いているのか。本来日本はもっと美しく魅力的な国家ではなかったのか。右顧左眄せずにもっと日本人であることに自信をもってどうどうとグランドデザインを世界に示したらどうか。
いいものを持っていながら謙虚なのか不器用なのか総合的な構成力が脆弱で世界へのプレゼンテーションも弱い日本が、要領の良い他の諸外国に「キャッシュデイスペンサー」扱いされ、いいように翻弄されている姿は観たくもない。そしてそうこうしているうちに、日本自身がそのおかれた環境の劣化に気付かず、ぬるま湯がやがては熱湯になった時に初めてコトの重大さを知り、いままでの無作為の罪を気がつくのでは遅すぎるのである。