エストラゴンという名前を聞いて、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら(WAITING FOR GODOT)』を思い出したら、さぞかし、演劇通であろうが、最近、「ニート」と聴くと、徒然人はどうも、この『ゴトーを待ちながら』を思い出してしまう。
サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』は不思議な劇である。
登場人物はエストラゴンとウラジミールという2人の男。舞台は田舎道。この2人の男はゴドーという人物を待っている。そして、結局ゴドーは来ずに舞台は幕を閉じる。このゴドーは神(God)であるという解説もあるらしいが、徒然人は難しい話は分からない。
ただ、1つ言えることがある。
我々の人生もそうであるが、何かを待っていても始まらない。いまそこに出あったご縁を大事に、そこで一生懸命生きることで、次の世界が開けてゆくのだろう。待つだけの人生は一種のモラトリアムであろう。「待つ」ことを言い訳にしたモラトリアムの向こうにはなにがあるのだろうか。希望は上空に燦然と輝く星ではなく、いますぐ足元の路傍に咲くタンポポの黄色にあると思う。人生の価値は遠い向こうに待っているものではなく、すぐ目の前にあるものだろう。さまざまな些事に関わりながら人生を一歩一歩進めてゆく中に、一見無意味なような雑事で追われながら泣いたり笑ったりして生きてゆくその一瞬一瞬に人生の価値があるように思う。
未来は待つものではなく、現在の延長でしかなく、現在の結果であって、自分で築き上げてゆくものだろう。