世田谷の自宅からぶらっと砧公園にある「世田谷美術館」までサイクリング。

そこで『青山二郎の眼』というテーマで特別展を開催していたので観てきた。



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そして運良く詩人の高橋睦郎氏と文芸編集者の長谷川郁夫氏と美術館長の酒井忠康氏の3者による鼎談(講演会)があったので出席して聴いてきた。当時の、希代の目利きで骨董の達人であった青山二郎を囲む小林秀雄や白洲正子等との交流の様子も詳しく伺えて実に面白かった。


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鼎談ではじめて知ったことであるが、欧州統合の父と言われたオーストリア人のカレルギー伯爵のお母様が日本人で青山みつと呼ぶ名前であったことは以前このブログでもご披露したが、この青山みつのお父さんと青山二郎の祖父は兄弟であったらしい。


展覧されている李朝の白磁やら北大路魯山人の名品も眼の保養にはなったが、それ以上に面白かったのは講演であった。この鼎談を聴いていてなによりも面白かったのは、「青山学院」と揶揄された青山を囲む文人たちの交流のあまりに人間的な様子である。結局最後は小林秀雄に「もう過去はいい」と捨て台詞を言われて小林と青山は決別を迎えるわけであるが、それにいたる長い年月、中原中也、小林秀雄、白洲正子、河上徹太郎、永井龍雄等、そうそうたるメンバーが青山の新宿にあるアパートを訪問しては酒を酌み交わしながら骨董話に文学に盛り上がったらしい。その場に居合わせたい気分にかられた。


かでも印象的であったのは、自分が傷いても自分を開いて思う存分自分の意見をお互い言い合う開かれた場の空気である。青山は東大仏文出身の世間知らずな観念的なエリートを徹底的にやっつけたらしい。自分にないものを持っている青山に文人達は惹かれ、よく集まっては一種のサロンのように夜を徹して議論を交わしたらしい。場合にはお互いを傷つけあったこともあったらしいが、そういった本気の付き合いが互いを切磋琢磨し、小林も青山も互いの審美眼を磨きあったとのこと。詩人の高橋氏も言及していたが、いまこういった熱い人間くさい交流が薄れ、自分が傷つかなくてすむようにみなこじんまりと自己の殻に閉じこもってしまっている閉塞的な世の中に、こうした交わりが一種新鮮かつ魅力的に映るのであろう。何でも思い切って言いたいこという、そして自分の生き方や美意識を全うするそんなストレートな生き方に魅力を感じるのは素直な気持ちであろうし、それがいま白洲正子や青山二郎がブームに近い人気を博している事情であろう。


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