よく晴れた土曜日の朝。空が晴れ渡り天気が好いので気持ち好い。
ベランダに布団を干す。初秋といってもセミが鳴いてる。晩夏の名残がある。
そんな平凡な朝が尊いと思う。
英国から一時帰国している長女が朝食の用意をしてくれる。
焼けたてのパンがこうばしい香りがして美味しい。
家族でいただく朝の珈琲は美味しい。
なにげない家族の朝の団欒が嬉しい。
昨晩は「Mrビーン」を家族で夕食ととりながら大笑いして観た後、秋の夜長「カッコーの巣の上で」を観る。かねてより観たかった名画。手ごたえのある好い映画だった。いずれも異常に見える世界での正常で健全な人間性を扱っている。なぜかほっとする。逆に昨今のメデイアをにぎわしている痛ましい事件はこれだけ豊かになった日本の正常な日常生活の中での異常な出来事である。現実の「正常な中での異常」は深刻である。だからこそ映画で描いている「異常な中での正常」にはなぜかほっとするし救われる気がする。「効率性」とか「成長」とか「発展」とか言うスローガンの下でどんどん人間社会も進化発展してゆくなかでどうやら現代人は大事な何かをボロボロ落としてきてしまっている気がしてならない。昨今の小説や映画・戯曲もこうしたテーマを取り扱っているものが多い。昔学生時代我々が使った「人間疎外」が深刻化してきてるのだろうか。家庭でも親が子供に期待する、子供も親の期待に応えようとする、でもそこにひずみやギャップがある。しかも昔はもっと素朴だった。人情があった。大家族で多様な人間が共同生活してゆくなかで喜怒哀楽があふれエネルギーが分散でき余裕があった。でも昨今は核家族で一戸一戸がカプセルみたいに閉塞している。そしてITや携帯の発展とIpod等のオーデイオ環境のすざまじい発展で目と耳もふさがれ社会全体が自閉症に陥っている。海外での生活が長かった子供たちは東京での久しぶりの生活をエンジョイする一方で、街角で出くわす風景、すなはち誰もが携帯とにらめっこし早足で駆け抜けてゆくその自閉的で余裕のないその異常な風景に当惑している。
人間の気持ちはボラタイルであるし移ろいやすい。でもその奥底にある自然でみずみずしい感性は変わらないし
その大事さは古今東西不変だろう。そしてもっとも大事なのは素朴な温かい心だろう。優しい思いやりだろう。
そしてひたむきな姿勢だろう。だからこの夏の甲子園は人々の胸をうった。
派手ではないけれども大事なこと、素朴だけれども大切にしたいこと。それはこうした朝の楽しい朝食の風景だ。
何気ない朝食を家族ととりながらたあいのない話をしながらふとそう思った。
長女もこの9月には渡欧し英国の大学生に戻り地球の裏側でので家族ばらばらな生活が始まる。また家族も4人になるけれども、いつまでもお互いにいつまでもこうした素朴な楽しい朝の風景をすごせる家族でありたいと切に願っている。