第一章
「今回の企画のメインテーマは、『次世代を担うヤングアート』というもので、私も大変心待ちにしておりました・・・」
老翁らしい落ち着いた、重みのある声が静かな会場に響く中、今回の企画にそれぞれの作品を出品した大学生一同は身を硬くする。美術を前に静かにするべし、と誰かが叫んだように会場は一気に厳かな雰囲気に包まれた。
「近年、人々の芸術に対する関心はとても著しいものですが、あまりにも大衆的になってしまった事が、本来の芸術の意味を欠く状態となってしまいがちで真に――」
差し当たりなく、だからと言って素っ気無くもないスピーチに、誰もが聞き入っている中、俺はこっそり欠伸を漏らした。すると、そっと横にいる友人に小突かれた。
「おい」
「何だ」
「寝るなよ」
友人は声を最低限に抑え、でもまるで呆れている様子を隠すことなく言った。俺は仕方ないと肩をすくめた。
「これから入学しようとしてる大学の理事長の話くらい、ちゃんと聞けよ」
「いや、でも俺は美術科じゃない」
「そうゆう問題じゃないだろ。何の為にオープンキャンパスに来たんだよ、あ、すいません・・・」
声を荒げる友人は隣の厚化粧の女性に注意され、押し黙った。俺は、やれやれと思いながら前に向き直った。
大学ならどこでも良かった。家が裕福だと、適当にやれば人生何でもどうにかなるらしい。友人は俺だけが特別だと言うが、勉強も運動も適当にやればできて、したい事もなりたいものも無かった俺に、今更しっかり他人のスピーチを聞けというのも、どうかと思う。
ただ、俺がこの大学に入ると決めたきっかけだけは、そうとは言えなかった。
あれは、感動というよりも、衝撃に近い。
俺は目を閉じ、その時の事を思い出す。
両親に無理やり連れていかれた美術館。高三の夏だった。その場も今回の会場と同じような企画が用意されていた。主旨は若手の貧乏アーティストのスポンサーを募集、といったところか。両親は軽いチャリティー気分を気取った姿を俺に見せたかったらしい。
最上階の、ギャラリーの角を三つ曲がってすぐ左の壁に、その絵はあった。
俺の身長よりも大きい絵が、静かに、そこにあった。
その絵を見た瞬間、俺は自分の心臓が鼓動を打つのを生々しく感じた。呼吸をしている事を改めて気付かされた、そんな衝撃だった。
その場で動けない俺の隣に、ある老人(多分、この企画の関係者だろう)がそっと傍に寄ってきた。
「・・・この絵が、気に入りましたか?」
答えられないでいる俺に、その人は、ふ、と笑いかけた。顔中の皺が、まるで今まで生きてきた年月を語るような、そんな微笑だった。
「この作品は、この企画の中で一番大きな油絵なんですが、ちっとも出しゃばった感じがしない。なぜだか分かりますか?」
俺は目だけでその続きを促すと、老人は続けた。
「この絵は、他の油絵とは違う。色が、まるで違うんです。他の作品に見える厳しさや、毒々しさがない。その代わりにあるのは洗練された混じりけの無い、そんな色です」
俺は、老人の言わんとしている事が分からず、眉間に皺をよせた。そんな俺の考えを察したのか、老人は、
「えー・・・分かりやすく言いますと」
と、続けた。
「若者特有の、満ち溢れるエネルギーや、野望とか、そういったというものが感じられない。でも、それが逆に我々に何かまったく別の事を語りかけているように見えませんか?」
俺は、とりあえず頷いた。老人は満足そうに微笑む。
「色と照明が照らす光が語り合っている。それを見ている私達は、その会話をこっそり盗み聞きしているような気持ちになる。そんな私達は卑しい存在であるということを気付かせるような絵だと、私は思うのです」
それは、そうかもしれない。けど、それだけじゃない。俺はそう思った。
「・・・がう」
「はい?」
「違う、いや、違わないけど、それだけじゃないんだ」
俺はそれだけ呟くと、また絵に視線を戻した。
確かに、他の作品と違って、荒々しい色使いをしていない。
海や、雨や、空や、この世の全ての蒼を混ぜたような背景の森の中、淡い赤色のヒナゲシが咲いている。そこへ静かにもたれる半人半獣の、女。
その黒い目に、俺は射竦められた。その漆黒の目に視線を当てると、目線が吸い込まれて戻れないような、恐怖さえ覚える。
急に心細くなって、身を縮めて叫びたい気分になった。しかし、ふと視線をその赤いヒナゲシにやると、暖かい太陽を思わせ、安心する。
全て、矛盾している、そんな危うさが、怖い。
「この作品は本当出品するのに苦労しました」
老人は言った。
「今回の企画のために、私がわざわざこの絵の描いた学生を訪れて、やっと譲ってもらう事にしたのですよ。これは人に見せるために描いたんじゃない、と言われましたが、諦めきれなくてね」
「その学生って、どんな人なんですか?」
「大学一年生です。こんな大きな絵を描くとは思えないくらい優しい綺麗な子ですよ。いや、男の子に対して綺麗は失礼かな。両親を失っているのでどこか独り立ちしていてね」
「この絵の買い手は?」
「まだ、誰も決まっていませんよ」
「この絵を買ったら、その人はその学生に寄付する事になるんですか?」
「はい、もちろん。実際、彼は来月から大学を中退しなければならない状態なのですよ。本人は、『絵ならどこでも描ける」言っていますが、そうもいきませんからね」
「・・・・・・」
俺はもう一度その絵を見上げた。その赤いヒナゲシを見た。
このヒナゲシを描いた人に会ってみたい。
思えば、それは俺が初めて何かを切望した瞬間だった。
その日、俺は両親に彼の絵を買うように勧めた。両親は息子がやっと何かに関心を持ってくれた事が嬉しかったらしく、それをすぐに買い取った。そして俺は、その金額を大学に入り次第働いて返すという条件を受け入れた。つまり、その学生の足ながおじさんになったのだ。
俺が目を開けると、ちょうど理事長のスピーチを終わっていた。俺は重い腰を上げて会場を出た。俺がこの大学に来た理由はこんなところで時間を潰す事ではない。
彼に会うため。彼の絵に会うためなのだ。