朝晩は、けっこう涼しくなってきました。
まだまだ残暑は続くみたいですね。
体調には気をつけましょう。





主人は、あまりにも早くにこの世を去りました。

思えば、知り合ってから40数年。研究ばかりしていた人でした。
当時、革新的な研究をスタートした恩師のもとで知り合い、そのそばにいたくて、私も同じ研究の道を志しました。

素人の私からみても、同期の中で、主人の才能はずば抜けていました。すでに恩師をしのぐ勢いさえありました。何よりも先見的な視点から集めた情報は特に優れていて、恩師はそれを非常に評価しておりました。また、お酒が好きで、飲み会などにはしょっちゅう顔を出し、最後までその席に座っておりました。お酒を飲みながら色々な人と話をし、そこでまた情報を得、人脈を形成しているようでした。

しかし、恩師は当時、偏りのある政治活動に準じており、その支援もあって革新的な研究に手をつけることができたのでした。主人は常々、そのことを批判しておりました。研究者たるもの、政治に動かされてどうする、というような内容のことをどこかで申したようでした。そのことが恩師の耳に入り、以後、不遇を囲う事になったのです。

大学において研究活動を続けていくことを望んでおりましたが、ある時、実務の職場に移動を命じられました。恩師の研究成果をもとに設計された大規模な計画の実務作業の一員としてひっぱられたのです。
今に思えば、同席していた同期の誰かが、主人を妬み、そのようなことを恩師の耳に入れたのだろうと思います。また、弟子の申した言葉に翻弄され、優れた才能を不出のものとした恩師の度量の無さが嘆かれます。

しかし、そのような事態を主人は前向きに受け止め、研究成果を実践していくという場で、得るものも多かったように思います。
ただ、主人はそれほど育ちが良くなく、言葉に刺のあるものの言い方をする人でしたので、現場でのやりとりはトラブルの連続でした。
研究者であれば、辛辣な口調もしかり、批判することが当たり前の世界でしたので、そのことも通用したのですが、現場では、人とのやりとりが主体であり、人の気持ちを無視するような主人の口調は非難の的になりました。見かねた上司は、再び研究の場に戻すよう恩師に伝えました。
恩師は、相変わらず政治活動主体の日常を過ごしており、主人の言った言葉をよほど根に持っていると見え、遠く僻地の大学へ赴任させたのです。

しかし、再び研究の場を与えられた主人は、そこで、学位論文をまとめるための研究に取りかかり始めました。当時、海外調査などは、よほどの支援がないと実現しないものでしたが、なぜか主人の周りにはそのような縁が集まり、単独での海外調査が実現したのです。
研究のテーマは、それこそ彼にしか許されないような内容でした。そこでの教え子たちの協力などもあり、数年を得て、論文がまとまりつつありました。
当時、恩師はその世界での権威とされ、やはり恩師に学位を授けてもらうしかありませんでした。
主人は、まとめた論文を持参し、学位取得を望みました。さすがに優れた論文であったため、それを受け入れざるを得なかったのでしょう。博士号を取得したのです。

ところが、しばらくして、また主人に移動の辞令が届きました。僻地からは解放されるのですが、今度は女子ばかりの大学でした。当時、女子大といえば、花嫁修業の一環で、良妻賢母教育を施しているものがほとんどでした。そのような大学に配属となり、どのような研究活動ができるというのでしょうか。主人は悩みました。

私たちには一人の娘がおりました。当時、まだ小学生くらいでしたが、その娘の教育や、細々と続けておりました私自身の研究のことなども考え、女子大の職を引き受けたのでした。
女子大に移ってからは、教育の方に専念し始めたようでした。娘もそこに入学させ、女子教育に従事し始めました。
私の研究にもいろいろとアドバイスをするようになり、自立した研究者として歩めるように支援してくれました。

そのような中でも、可能な限り研究を続けておりました。相変わらず、どこからか研究資金が回ってきて、最新機器を導入したり、海外研究員のポストを得たりなどしておりました。
しかし、何かしらの邪魔が入り、その業績は相変わらず不出のものとなっておりました。
わずかに、学会で発表される論文などが、評価の対象となりました。
とはいえ、若い女性が主人の研究活動についていけるはずもなく、その興味はおしゃれや異性に集中するのはいたしかたありません。学生とともにおこなう研究には限界がありました。

そのような日々をしばらく送っており、大学の任期も残すところあと数年という時に、ある学生が主人の元にやってきたのです。
当時、娘も、分野こそ違えど、研究者を志し、勉学に励んでおりました。ところが、その娘以上の執着を持って教育し始めた学生がいました。
主人の子とはいえ、私の子でもあり、それほどの才能を持ち合わせていないことは承知しておりました。しかし、主人に認めてもらいたくて、懸命に勉学に励む娘を見ていると、そのことが異様に腹立たしく思えてきたのです。

家庭の中でもその子の話がよく上がるようになり、こんな時学生はどう思うのかとか、こういう行動にはどういう意味があるのかなど、娘に聞いたりしておりました。
私は離れた場に常勤の教職を得ており、主人は娘と二人で暮らしておりました。その子の話をする時はとても楽しそうにしていたようで、娘をかばってやることができない母親の気持ちと、不遇を囲っていた大学人生において、ようやく日の目を見たような喜びと、複雑な気持ちが入り混じりました。

しばらく女子教育にも携わっており、時代が求める女性像などについての考えなども主人の中にはあるようでした。そして、研究においては、半ばあきらめていた後継を、その子にするような面持ちも見せ始めました。

ところが、主人は以前からかなりのヘビースモーカーで、喉に悪性腫瘍が見つかり、それもかなり進行していると診断されました。残りわずかな命と悟ったようでした。
それからは、病気と闘いながら、身辺の整理をし始めました。

殊に、執筆に関して常に妨害工作がはられ、主人の著作はほとんどなく、海外文献の翻訳ばかりが回ってきました。書きためた原稿などが山ほどあり、それらの整理などをしているようでした。
あとは、病んだ身体を引きずりながら、方々に出かけ、後継の面倒などをお願いしているようでした。
そのような中でも、主人の隣の部屋で、その子がもくもくと研究に取り組んでいる姿になぐさめられているようでした。

立派な退官行事も執り行われ、なんとか存命中に無事、退職することができました。
当時のゼミ生が着飾って参加してくれた退官パーティでの記念写真を、ずっと枕元に置いておりました。
入院生活となってからも、卒業生などが頻繁に見舞いに来てくれました。
その子も一度、一人で見舞いに来たことがありました。おそらく、あとわずかの命であることを誰かから教えられ、最後の面会に来たものと思われました。
主人はとても喜びました。それこそ、最後に何か伝えたいこともあったのでしょう。つらい症状を抑え、なかなかその子を帰そうとしませんでした。

今に思えば、その時、私の様子を悟り、そうそうに引き揚げてしまった彼女を呼び止めなかったことが悔やまれます。
もう一度、卒業生を数名連れて見舞いに来てくれましたが、その時はすでに昏睡状態となっていました。その時に、たまたま見舞いに来ていた主人の同期生こそが、主人が不遇を囲う事になるきっかけをつくった張本人でありました。その後、恩師のもとで、一大派閥を築き上げ、権威をふるっていたようでした。

そのような最期もあり、彼女とは不思議な縁を感じております。
主人が亡くなってからも、先輩と仏前に手を合わせに来てくれたり、執筆した学位論文を送ってくれたりしました。また、娘が勤めていた大学の非常勤講師なども勤めてくれていたようです。

主人が亡くなってから、生前、世に出したがっていた学位論文が出版されました。しかし、それはすでに古典のような扱いを受けました。また、大量の資料を整理し、1冊ばかりの本を出版しましたが、妻の私にできることはそれくらいでありましょう。


今も自宅の書斎に主人が座っているような気がしてなりません。
今後、主人が残したものが世にどのように役に立っていくのか、老いた私には想像すらできません。せめて、子どもが男子であったら。今頃になって、そんなことを思ったりもします。

娘の行く末についても案じておりました。敵の多い人生の中で、主人の娘であるということが、大きな重荷になっていたことは否めません。
女子教育に従事した半生のなかで、自分の娘を幸せにしてやることもできず、主人の人生は悔いばかりが残るものでしょう。

もう少し長く生きてくれていたら。そればかりを想う日々です。