それから、私は手塩にかけて彼女を教育しました。
幸運にも、卒業生の務める大学の研究室事務の職に就き、妹さんとの共同生活なども始まり、研究に従事する環境に恵まれました。
夏休みには一緒に学会や調査に出かけました。机の上の作業があまり好きではなかったようなので、学外調査などは喜んで参加しました。
しかし、権威のある先生や派閥の争いなどを嫌い、そのような席では口もきかずに困りました。
初めて学会の投稿論文を執筆している最中に、がんで入院しておられた先生が亡くなられました。
私は、その1年ほど前に、兄に紹介された同業者の男性と結婚し、子どもを身ごもっていました。
先生が大学におられる間、ただただそばで研究に従事していられることが私にとって最大の幸福でした。その先生がご退官されただけでも、私にとって試練の日々となったにもかかわらず、この世から亡くなってしまわれました。
私は少なからずショックを受け、その現実を受け入れられないでいました。
しかし、先生の死と並行して、私のお腹には新しい命が育っていたのです。
そして何よりも、彼女と一緒に論文を執筆していくことに、先生の遺稿をまとめるような感覚を覚え、それに没頭しました。
最初の投稿論文が掲載されると、彼女はそのことにとても快感を覚えたようでした。
学会では一流とよばれる学会誌で何人もの先生の審査をパスして掲載されるものです。
自分の研究が認められたということにとても喜び、引き続き、続編にとりかかる意欲を見せました。また、ご家族がそのことを大きく支援しているようでした。
私は、先生の死により、これまで続けてきた研究に迷いが生じ始めました。
そもそも地道な作業の積み重ねによって築いてきた成果でした。彼女の斬新なアイデアや発想を受け止め、方向性を見定める度量が私にはありませんでした。
こんなとき、先生ならばどういわれるだろうか、常にそればかりを考え、やってはいけないことだけを彼女に教えていきました。
彼女はあっという間にいろいろなノウハウを習得し、私を越えていきました。
先生の庇護の下、地味な研究を続けてきた私は、もはや彼女の研究についていくことができなくなりました。
周囲のバックアップもあってか、学位を取得したいと申し出てきました。
先生が亡くなられてから、学閥間にいろいろなことがあったようですが、私はそれどころではなく、自分の研究を維持していくことに精一杯でした。
そして、母校に私の居場所はありませんでした。他の大学に移るように要請を受けました。
先生あっての私の研究であり、先生あっての私の職でした。
私が研究の道に引きこんだとはいえ、その活躍ぶりに嫉妬を覚えました。
彼女の書いた論文はいたるところでもてはやされました。そして、母校に教員職も用意されているような気配もありました。
恩師とは別に、彼女には懇意にしている教授がいました。その教授は学内でもそこそこの力を持っていましたし、学生生活で困ったことなどがあれば、その教授に相談などしていたようでした。
彼女の存在はもはや私にとって疎ましいものになりました。
やはり、先生あっての彼女だったのです。
私はなんとか新しい職場が決まり、そちらに移ることとなりました。
恩師が亡くなってからのごたごたを、彼女を初め、何人かの卒業生が背負い、処理していく中で、私は隣の部屋に引きこもり、ひたすら知らん顔を通しました。一番そばでその恩恵を受けながら、何一つ
手伝うことができなかったのです。
私には、自分を庇護してくれる大きなものが必要でした。
気が付いたら、私はその傘の下に滑り込んでいました。
もはや、他のメンバーにとって、私は裏切り者でした。
大きな傘が無くなり、苦しい時期を乗り越えていった彼女達を尻目に、私は新しい傘のもとで自分の研究を続けていました。
恩師が抱えていた何名かのゼミ生が、無事に学位をとり終えると、彼女はこの地を離れて行きました。
以前から実家に帰りたがっていたのですが、そこに近い場に教員職を与えられ、疲れを癒しているようでした。彼女はどこまでも特別でした。
私は彼女との研究内容で申請した研究助成が採用され、海外への調査が実現しました。
尻込む彼女を懸命に誘い、調査に同行してもらいました。そして、そこで新たなメンバーと研究活動を続けていくことを望みました。
彼女はすでに、私の身の振り方にあきれ返っているようでした。
そして、海外調査から戻ると、彼女は二度と私の呼びかけに応じなくなりました。
それどころか、学術の世界の汚さに嫌気がさしているようでした。
古き良き時代の大学の香りが残る頃、はつらつと入学してきた彼女は、今一体何を思っているでしょうか。
ご結婚されたと聞きました。おそらく、もう大学に戻られることはないでしょう。
大学にしがみついて生きていくことしかできない私には、他にどのような生き方があるのかわかりません。
無責任といわれようが、無神経といわれようが、私にはこうすることしかできなかったのです。
学術の世界において、ここまでの地位を築いてしまった彼女を、放っておくはずもありません。
恩師が何を彼女に託したのか。私には到底理解できません。
ただ、ご存命の頃、楽しくゼミをし、お茶を飲み、彼女のレポートを楽しみにしていたことが暖かく思い出されます。
お墓参りなどもよく行っているようでした。
亡くなってもここまで慕ってくれる学生さんがいることを、心から喜んでおられると思います。
最後に、私の弱さをどうぞ許して下さい。そして、それをいつも許してくれたあなたに、心から感謝しています。
どうか、お幸せに。そして、いつまでもその信念を貫き通していってください。
一番、それに憧れていました。
幸運にも、卒業生の務める大学の研究室事務の職に就き、妹さんとの共同生活なども始まり、研究に従事する環境に恵まれました。
夏休みには一緒に学会や調査に出かけました。机の上の作業があまり好きではなかったようなので、学外調査などは喜んで参加しました。
しかし、権威のある先生や派閥の争いなどを嫌い、そのような席では口もきかずに困りました。
初めて学会の投稿論文を執筆している最中に、がんで入院しておられた先生が亡くなられました。
私は、その1年ほど前に、兄に紹介された同業者の男性と結婚し、子どもを身ごもっていました。
先生が大学におられる間、ただただそばで研究に従事していられることが私にとって最大の幸福でした。その先生がご退官されただけでも、私にとって試練の日々となったにもかかわらず、この世から亡くなってしまわれました。
私は少なからずショックを受け、その現実を受け入れられないでいました。
しかし、先生の死と並行して、私のお腹には新しい命が育っていたのです。
そして何よりも、彼女と一緒に論文を執筆していくことに、先生の遺稿をまとめるような感覚を覚え、それに没頭しました。
最初の投稿論文が掲載されると、彼女はそのことにとても快感を覚えたようでした。
学会では一流とよばれる学会誌で何人もの先生の審査をパスして掲載されるものです。
自分の研究が認められたということにとても喜び、引き続き、続編にとりかかる意欲を見せました。また、ご家族がそのことを大きく支援しているようでした。
私は、先生の死により、これまで続けてきた研究に迷いが生じ始めました。
そもそも地道な作業の積み重ねによって築いてきた成果でした。彼女の斬新なアイデアや発想を受け止め、方向性を見定める度量が私にはありませんでした。
こんなとき、先生ならばどういわれるだろうか、常にそればかりを考え、やってはいけないことだけを彼女に教えていきました。
彼女はあっという間にいろいろなノウハウを習得し、私を越えていきました。
先生の庇護の下、地味な研究を続けてきた私は、もはや彼女の研究についていくことができなくなりました。
周囲のバックアップもあってか、学位を取得したいと申し出てきました。
先生が亡くなられてから、学閥間にいろいろなことがあったようですが、私はそれどころではなく、自分の研究を維持していくことに精一杯でした。
そして、母校に私の居場所はありませんでした。他の大学に移るように要請を受けました。
先生あっての私の研究であり、先生あっての私の職でした。
私が研究の道に引きこんだとはいえ、その活躍ぶりに嫉妬を覚えました。
彼女の書いた論文はいたるところでもてはやされました。そして、母校に教員職も用意されているような気配もありました。
恩師とは別に、彼女には懇意にしている教授がいました。その教授は学内でもそこそこの力を持っていましたし、学生生活で困ったことなどがあれば、その教授に相談などしていたようでした。
彼女の存在はもはや私にとって疎ましいものになりました。
やはり、先生あっての彼女だったのです。
私はなんとか新しい職場が決まり、そちらに移ることとなりました。
恩師が亡くなってからのごたごたを、彼女を初め、何人かの卒業生が背負い、処理していく中で、私は隣の部屋に引きこもり、ひたすら知らん顔を通しました。一番そばでその恩恵を受けながら、何一つ
手伝うことができなかったのです。
私には、自分を庇護してくれる大きなものが必要でした。
気が付いたら、私はその傘の下に滑り込んでいました。
もはや、他のメンバーにとって、私は裏切り者でした。
大きな傘が無くなり、苦しい時期を乗り越えていった彼女達を尻目に、私は新しい傘のもとで自分の研究を続けていました。
恩師が抱えていた何名かのゼミ生が、無事に学位をとり終えると、彼女はこの地を離れて行きました。
以前から実家に帰りたがっていたのですが、そこに近い場に教員職を与えられ、疲れを癒しているようでした。彼女はどこまでも特別でした。
私は彼女との研究内容で申請した研究助成が採用され、海外への調査が実現しました。
尻込む彼女を懸命に誘い、調査に同行してもらいました。そして、そこで新たなメンバーと研究活動を続けていくことを望みました。
彼女はすでに、私の身の振り方にあきれ返っているようでした。
そして、海外調査から戻ると、彼女は二度と私の呼びかけに応じなくなりました。
それどころか、学術の世界の汚さに嫌気がさしているようでした。
古き良き時代の大学の香りが残る頃、はつらつと入学してきた彼女は、今一体何を思っているでしょうか。
ご結婚されたと聞きました。おそらく、もう大学に戻られることはないでしょう。
大学にしがみついて生きていくことしかできない私には、他にどのような生き方があるのかわかりません。
無責任といわれようが、無神経といわれようが、私にはこうすることしかできなかったのです。
学術の世界において、ここまでの地位を築いてしまった彼女を、放っておくはずもありません。
恩師が何を彼女に託したのか。私には到底理解できません。
ただ、ご存命の頃、楽しくゼミをし、お茶を飲み、彼女のレポートを楽しみにしていたことが暖かく思い出されます。
お墓参りなどもよく行っているようでした。
亡くなってもここまで慕ってくれる学生さんがいることを、心から喜んでおられると思います。
最後に、私の弱さをどうぞ許して下さい。そして、それをいつも許してくれたあなたに、心から感謝しています。
どうか、お幸せに。そして、いつまでもその信念を貫き通していってください。
一番、それに憧れていました。