私が知る中でも最も誠実で
最もクリエイティビティにあふれたデザイナーが
大きな争いに巻き込まれていることを新聞で知る。

彼はひとつの節目を超えて、
呑気に隠遁生活を楽しんでいる、と思っていたのだが
隠遁せざるを得なかったのだな、と分かった。

それほど、その会社の神髄部分に関わるクリエイティブを担っていたのだ。
世界の多くの人がそれを目にし、触れ、驚き、
あっという間に日常のツールになっていったその道具とそのデザイン。

誠実なデザインだから人々が支持する。
だから普及する。
だから進化する。

その自由な創造活動はあらゆる角度から検証されるから
世に出たときに説得性を獲得する。
その一連の動作が裁判の論証に用いられるなどは不毛でしかない。

クリエイティブ活動にはしばしば「独自性」を求められる。
でも「独自性」などだれも証明できない、と私は思う。
なぜなら、すべてのクリエイティブ活動は
これまでの多くの「誠実」なクリエイターによる創造活動の鎖の上にあるからだ。

ひとつの生産物に注目してそれを語るのは
その鎖の輪っかのひとつを取り出して
「独自性に富んだ鎖だ!」
と入っているようなもの。
既にそれは鎖ではないのに。

もし創造性の「独自性」を証明するなら
その鎖をずーっと辿るとよい。
一番近いところで生命の誕生の瞬間までたどれば
世の中の全てが何かを受け継ぎながら存在していると感じられる。

独自性を「証明」すること自体
クリエイティブな活動から大きくずれたテーマではないだろうか。

そんな裁判のテーマから早く解放してもらいたい。

彼が創り出すカタチは本当に創造の優れたDNAを受け継いでいるのだ。

それをもっと世の中に、出していきたい。
もっと多くのツールに関わってもらいたい。
そしてそれに触れて使いたい。
多くの人に何気なく使ってもらいたい。

早く、彼がこのしがらみから解き放たれますように。

「誠実な創造活動」が保たれる社会であることを祈り、
その軸を忘れない仕事をすることで
小さくとも作用し続けよう、と思う。