2006年、2007年と週に2~3回岐阜に行く仕事があった。

東京から来た商業コンサルを岐阜の人達はどうしても斜めの目線で見る。

それは仕方のないこと。

このときのあらゆる逆風を「依頼したのだから責任をもって信頼する」といって

自ら楯になってただひたすらにプロジェクトの進行に尽力した豪傑がいた。

そして様々な情報や地元でなければ調整できない人脈などを惜しげもなく紹介してくれた。



行き詰まれば焼鳥屋でサシで問答した。そして

「仕事で来た東京モンでここまでつきあえたオナゴはおらん!」

といいながら、毎回クラブやスナックやキャバクラを何軒もハシゴした。

毎度毎度

「プロジェクトが終わったらわしと付き合え」と言って笑った。

でも最後には

「人間づきあいのないやつには頼めん仕事だ。名声でも金でもない、覚悟があるか無いかだ。」

と酩酊する。



プロジェクトが窮地に陥ったときに、私たちコンサルを厳しく叱責した。

「やりきってくれるはずだ、と信頼しているからだ」と本気で怒った。

プロジェクトは当初の夢からは何歩か低い現実で成った。

でも、ここまでこれたのは奇跡だ、と、これが街が変わるチャンスだ、と

力強く握手を交わしてくださった。

完成とともに契約が切れた私たちが去った後も

街の活力をよみがえらせるために日々戦っていた人。

私はと言えば、契約の仕事が終わったからと

その商業がかんばしくない様子に、心苦しく、岐阜に行けなくなった。



8月に病にたおれ、先週の土曜日に天に召された、と昨日知らせが来た。

最後に会ったのは今年の1月。

相変わらず元気だった。

「早よわしと付き合え」と笑っていた。



昨日見た棺の中の人はとても小さく、閑かだった。

その人はもうそこにはいなかった。



さみしかったので、帰りの夜道、空を見上げた。

「おまえがはよこんからおっちんじまったわ」と笑ってる気がした。



まだ若い、御歳70歳。

またスナックでカラオケしたかったな。

長いこと岐阜に行かなくてごめんなさい。





読んでくれた皆様、湿っぽくてすみません。
健康診断はまめにね。