たぶん、職種の違いもあるのだと思うけれど。


われら看護師は

「その人の背景にあるものも含めて、見る/看る」という特性がありましてね…。


なぜそうなのか?を見る時に

なぜそうなるのか?

なぜそうなったのか?というところまで

見ようと試みるところがあって。


わたしは

長期療養施設で、慢性期看護を学んできて

10年ちょっと実践もさせてもらってきたのでね…。

「病気が現在進行形で動いている、活動している」状態にある対象者(患者さん)への支援は

不得手なところがあるけれど。


慢性期にあっても、病気が動くこともあるわけで。

でも、そういう場合であったとしても

それまでの経過をある程度知っていたり。

お互いに「顔が見える関係」なので

これくらいの距離感で、とか

細かな部分もなんとなくはわかっていて。


十分ではないながらも、寄り添うことだったり

「側にいるよ」「近くにいるよ」と伝えることは

できていたのかな…と自画自賛。


今、ご縁があって

慢性疼痛外来に入っていたり。

看護についての研究に加えていただいていたり。

就労継続支援施設で支援する側にいるけれど。

少し前の自分を見ているような感覚になることがある。

もちろん、背景にあるものが全く違うので

同じようにわかる、ということはないけれど。


なぜ、「察して」さんになったのか?

なぜ、「言えないひと」になったのか?

なぜ、「逃げている」ように見えるのか?


逆引きの辞書を読んでいるみたいに

その意味が見えてくることがある。


当事者としては、こうだけど。

支援する側としては、こうなんだな…とか。


「いろんな角度から見てみよう」って

がっつり治療中によく言われていたけれど。


今は

少しだけど俯瞰して見ることもできつつあって。


治療開始前も、今も

自分で自分の看護計画を立案して

自分で自分を看護していることに変わりはないけれど。


看護過程の展開をする段階(PDCAサイクルを回す段階)で

自由度がなかったというか。

情報が偏っていたというか。

柔軟性に欠けていたというか。

初学者と教えるレベルにある人みたいな差というか。

そういう「違い」みたいなものが

とても大きかったな…と。


指摘を受けたことについて

「努力しているんですけど…」

「考えてはいるんですけど…」

と、返す利用者さんがいるのだけども。


「でも、変わっていないよね?」

「それって、努力の方向性が違うんじゃない?」

「考えていても相手には伝わらないよね?

どうしたら相手に伝わるか?自分でやってみてね」

と、どこかで聞いたことがあるようなことを

伝えているけれど。


50歳を目前にして

ここでも「逃げ」たら、もうチャンスはないよ?

いろいろと「嫌なこと」を言われてきたから

前の職場を退職したけれど。

ここでもその時と同じことを言われていると思う。

それって、あなたに意地悪しているんじゃなくて

向き合うことができたら変われるよ、っていう

アドバイスなんだと思う。

「みんなでわたしをいじめている」のではなくて

同じことをしていたら、同じことの繰り返しだよ

ってことなんだと思う。


と伝えている利用者さんがいるのだけども。


体調不良を理由に休めば看護師(わたし)に詰められ。

相談員さんからも「それは休む理由にならない」と

突き放され…と

かなりな崖っぷちにいる状態で。


「寄り添い」「寄り添うこと」って…?と

ちょっと考えているところです。