~2024年5月4日の日記「日々のささやき」~

死ぬときに、人は「走馬灯」を見ていない

という記事が目に入り、

急ぎ読み進めた。

そんなはずない!という思いで。

 

私は、見たいと思っている。

ある意味、死ぬときが楽しみとも言える。

 

走馬灯を見るとは、

伝え聞いていることでは

人は死に際に、それまでの人生の光景を

もう一度見ることができて

ゆっくりと流れるというもの。

 

私が期待しているのは

言うまでもない、あゆみの姿。

夢にも出てくれないあゆみの生前を

もう一度ありありと見ることができ、

大切な思い出の場面が、もう一度現れ出る

そのときを、ずっと楽しみにしている。

 

で、記事で紹介されている研究結果は

よくわからないものだった。

「人がいつ亡くなるかを完全に予期することは難しく、

死の間際の脳活動を科学的に検証するのは困難でした。」

というのが結論のようだ。

 

ひとまず安心。

「走馬灯」を見るのか、見ないのか、

断言できないようだ。

私は、見ることに期待している。

 

まあ、死に際に見れなくても

「死んだら会える」

と皆さん言っているけれど。

 

皆さんというのは

実際に死んだ人ではなく、

お子さんを亡くされたお母さんたち。

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ずいぶん昔に、

テレビで立花隆さんが臨死体験について、

脳科学者や臨死体験をした人たちを取材している番組を見ました。

 

臨死体験をした多くの人たちが

「温かく、光に包まれたような幸せな感じだった」と話していました。

 

身体が段々と機能していかなくなる中で、

「幸せ」を感じる脳の部分が一番最後まで機能するのだとか。

 

わが子の病気が治すことは困難と分かった時、

唯一の救いは、生きているあいだ、

私がこの子を全力で幸せにしてあげれば、

最期はきっと、きっと、幸せな気持ちでいける、でした。

 

そして、今。

 

わが子と会うために

死ぬまで待たないといけないなんて…

 

私の祖母、母、親戚も、

最後の数年は認知症になりました。

 

私が祖母に会いに行くと、娘と間違えて

「ああ、〇〇ちゃん、来てくれたん!」

と嬉しそうに笑っていました。

 

私の今のささやかな希望は、

死ぬまで待たなくても、

生きていて、私に話しかけてくれて、

手を握ってくれる「わが子」に会うことです。

 

介護は本当に大変なこと、

身を持って知っているので、

身勝手なのはわかっています。

 

でも、もし、私が

「〇〇ちゃん!来てくれたのね!」

と言ったら、

「そうだよ、待たせてごめんね」

と言って手を握ってください。

わがまま言いますが、

心からお願いします

 

子どもを亡くした親・家族で構成しているセルフヘルプグループ「小さないのち」です。

会の代表が20年以上前に突然の病気で1歳の娘を亡くし、「同じ境遇の親御さんと会いたい!」という一心で、インターネットもない時代に、手探りで作った会です。

以来、当事者による、当事者のための会として活動しています。

 

対象は生後1日から独立以前のお子さん(成人を含む)です。

対面・オンラインでのわかち合いのつどい、オンライン掲示板、会報の発行、その他会員が希望することを通して、語り合いながら、交流しながら、ゆっくりと、それぞれに、心を回復し、この先の人生の意味を見出すために、共にあゆんでいければと思っています。

 

ご夫婦や、男性お一人の会員さんもいらっしゃいますので、

男性の方も、どうぞお気兼ねなくご連絡ください。

 

今、辛く、悲しく、苦しい日々を送っている方々に届くことを心から願っております。

会の詳細、お問い合わせ先、過去の「日々のささやき」は会のHPをご覧ください。