退院の2日前
大学病院での検査入院が終わりに近づいた頃、
退院の2日前、家族が病院に呼ばれました。
私には配偶者はいません。
家族といえば、母と私だけです。
当時、母は86歳。
年金生活をしていました。
私は高校卒業後に実家を出てから、
母とは40年以上、別々に暮らしてきました。
関係が悪かったわけではありません。
ただ、長い年月の中で、
それぞれがそれぞれの生活を築いてきただけでした。
その日、
高齢の母と、いとこが一緒に病院まで来てくれました。
大脳皮質基底核変性症
診察室で医師から告げられた病名は、
大脳皮質基底核変性症。
指定難病でした。
医師の説明を聞いている間、
頭の中がどこか遠くなっていくような感覚がありました。
理解しなければいけないことは分かっているのに、
言葉がうまく頭に入ってこない。
そんな状態でした。
説明の最後に、医師はこう話しました。
「高齢のお母さまと、
指定難病を抱えたご本人ですから、
助け合って一緒に住むという選択肢もあります」
私は、その言葉に強い衝撃を受けました。
そんな話が出るとは、
まったく想定していなかったからです。
母の言葉
その場で、
一緒に住むことは難しいと話したのは、母でした。
40年以上、別々に暮らしてきた今、
この年齢で一緒に暮らすのは現実的ではない。
母はそう、はっきりと伝えました。
頭では理解できました。
高齢の母に、
指定難病の娘を支えることが簡単ではないことも、
分かっていました。
それでも、
面と向かってその現実を突きつけられたことで、
私は大きなショックを受けました。
診察が終わり、
病院を出る前、
コーヒーショップに入ろうと提案したのは私のほうでした。
少し座って、
今後のことを話したかった。
何より、
気持ちを落ち着ける時間が欲しかったのです。
コーヒーでも飲みながら、
これからどうなるのか、
言葉にできなくてもいいから、
同じ空間にいたかった。
もう私、お腹空いちゃったのよね
けれど、
院内のコーヒーショップはとても混んでいて、
空いている席はありませんでした。
それを見て、母が言いました。
「もう私、お腹空いちゃったのよね。
今日、お昼も全然食べてないのよ」
そう言うと、
母はいとこを急かし、
そのまま帰る流れになってしまいました。
私は、
何も言えませんでした。
引き止めることも、
自分の気持ちを伝えることもできず、
ただ、その場に立ち尽くしていました。
病名を告げられた直後で、
心の中はぐちゃぐちゃで、
少し立ち止まる場所が欲しかった。
でも、その時間を持てないまま、
私は一人で気持ちを抱えたままで、
病院を後にしました。
あの日の帰り道
今でも、
あの日の帰り道のことを、はっきり覚えています。
診断を受けた衝撃だけでなく、
気持ちを共有する場所がなかったこと。
それが、
私にとってはとても大きな出来事でした。
この日を境に、
私の現実は、静かに、
しかし確実に動き始めていきます。
次回へ
次回は、
診断後、仕事や生活がどのように変わっていったのか、
現実が一気に押し寄せてきた日々について書いていこうと思います。
