何時かは、本人達に話したいと思っていたのですが、ついぞ機会が無かったので。
私が中学三年の時の、コンクールのパートの振り分けについて。
出来れば、今、部の実権を握っている子達に読んで欲しいです。
まず、二年生の頃の話からさせていただきます。凄く重要な内容ですので。
私が中学二年の時、チャンスの「呪文と踊り」が非常に流行っており、私たちも選曲しました。
私はパーカッションだったのですが、うちの学校には、妙な掟(?)があって、一年生と助っ人は小物楽器、二年生はスネアとバスドラ、三年生が鍵盤系とティンパニーとドラムを担当していました。
ですが、曲をご存知の方は分かると思うのですが、呪文と踊りは、テンプルブロック(木魚)が一番目立つ曲です。ある意味主旋律です。
テンプルブロックを担当していたのは、一個上の先輩で、私にあてがわれたのは、タンバリンでした。
六月頃。急に顧問に呼び出されたんですよ。
私は思った事を黙っていられない性分で、先輩に譜読みの誤りを伝えて、プライドを傷付けてしまったらしく、目の仇にされていました。
幸い同級生は守りを固めてくれていて(特に今でも親友の彩月は、絶対に私から離れなかったですし)、私自身、後輩に対しては「遠慮なくダメ出しをして良いし、先輩というだけで道を譲らなくて良い」と言っていたので、あからさまに虐められる事は無かったのですが。
その分、顧問にある事ない事言付けられる事が多くて、「また何か言われるのか」と思って職員室へ行ったのですが⋯⋯。
「貴女のパートはね、裏拍から入るから一番難しいんですよ。本番までに合わせられる?」
物凄い衝撃を覚えました。嫌がらせで与えられたパートが、その実一番難しかったなんて。
自分でも、深く考えていなかったんです。元々私に選択権は無く、「貴女タンバリンね」と言われて、なんとなく重い気持ちで担当していて。
「出来ます」
と答えて、そこからブーストが掛かりました。楽器を家に持って帰って練習したし、より良い音が出る様に、皮をドライヤーで乾かしたりして、結局買い替えて貰いました。
大会を終えてから、楽器に対する考えが変わったんですよね。
この楽器は、この学年に、では無く、曲の内容を見て割り振るべきだ、と。
また、私は先輩との衝突から、徹底的な実力主義になっていたので、同級生のAちゃんと度々意見がぶつかり合いました。
私は、自分より年下の子でも、能力が高ければ、難しい楽器、花形の楽器を任せるべきだ、と考えていました。Aちゃんは、これまでの風習通り、学年毎に楽器を振り分けるべきだ、と考えていました。
で、三年生のコンクール。
曲はまたもやチャンスの、「朝鮮民謡の主題による変奏曲」
チャンスは、テンプルブロックが大好きなんですかね?! 主旋は、テンプルブロックとシロフォンでした。
三年生のパート割は特にもめませんでした。私は鍵盤系全てを担当しました。勝手に、私といえば鍵盤系というイメージを付けられていたのですが、実際問題、譜読みは早く正確でしたし、バリ島でガムランに触れていた事もあって、良い音を出すのに長けていました。
問題は、二年生のパート。
男の子が二人いたのですが、どちらにテンプルブロックを任せるべきか。
私とAちゃん二人で話し合い、かなり激しい言い合いになりました。後輩にはその姿を見せない様にしていましたが。
此処からが、胸の内にしまっておいた話です。
T君はリズム感が良く、直感が優れているけれど、努力を継続出来ない。
K君は譜読みは遅いし、センスがあるとは言い難いけれど、努力を積み重ねる事の出来る子。
演奏する姿が華やかに見えるのも、先生からの評価が高いのも、目立つ事が得意なT君。
恐らく顧問も、T君がテンプルブロックを担当すると思っていたでしょう。
私とAちゃんは真逆の理由で其々違う子を推しました。
Aちゃんは、T君の性格面を考慮し、「普段から真面目に頑張っているK君に任せるべき」と。
私はその言い分に違和感を覚え、「見せしめに選ぶのでは無く、実力を考慮するならT君だ。性格を理由にするなら、K君であれば、小物楽器を任せても不貞腐れる事なく練習を続けるはず」と。
もう、それは激しく言い争いになり、30分くらい口論していましたね。
結果的に、ウチのテンプルブロックが意味不明な配列になっており、鍵盤楽器以上に難しく、継続して練習する必要があるという理由で、K君に決めました。
予想通りT君の方は投げやりになってしまい、その場でかなり不満を言っていました。(そもそも私達の一個上の先輩に対してあの態度を取っていたら、虐められていたと思います。そういう点に於いてはAちゃんも、かなり寛容でした)
私も、その頃には、楽器自体に優劣を付けるべきなのか? という疑問を抱いていたので、フォローしてあげられず、申し訳なかったです。
顧問も、私の代が主導権を握った年には、取り分け大きなトラブルが無かったので、わざわざ口を挟んだりはしませんでしたし。
結果的には良い采配だったと思います。適材適所でした。だけど、選択の過程が正しかったのか、今でも時々考える事があります。
今、吹奏楽部で後輩を率いている子達へ。
その采配は、誰のためですか?
自分さえ目立てれば、という考えは心の隅にありませんか?
その選択で、一番良い音を奏でられますか?
何のために演奏をするんですか?
全国的に見たら、あまり良い結果では無いのかもしれません。
でも、私の代は、何が良いのか模索し、三年生であろうと力作業をし、悩んで、本気の喧嘩をして、母校の歴史上最高の成績「県大会出場、銀賞」を残しました。
十年以上経った今でも、その成績は塗り替えられていません。
私達がいなくなった後、何があったのか分かりませんが、県大会に行けなくなってしまった様です。
もしかすると、私達の選択が誤っていて、良くない物を残してしまったからかもしれない。
だけど、五年後かな? 市内の吹奏楽団にいた私が、講師として見に行った時、パーカッションの子達は、皆同じヒッコリーの重たいスティックを使っていました。それが「決まりだから」と。
その癖、楽しくやれれば良いという風潮で、いろんな事があべこべになっていました。
集団で活動する以上、沢山の問題があるかと思いますが、私の経験が誰かの糧になれば、と思います。
因みに私自身は、高校進学後、やはり吹奏楽部に入ったのですが、月三千円の部費を親が出してくれず、バイトも出来なかったため、団費千円の地元の吹奏楽団で活動していました。
実は最初、両方に所属していたのですが、高校の吹部の指揮者と、楽団の指揮者がいがみ合っていて、今度は先輩ではなく、顧問にあれこれ言われ、嫌な思いをして、毎月親にお金をせがんでまで続けたく無い! と思ったのも理由の一つです。
でも、子供の頃から、大人の集団にいた事で、学べた事もあります。
当たり前の様に顧問が用意してくれていた楽譜が、数万円する事。ホールを貸し切って練習するのに、幾ら掛かるのか。
その時になって、初めて、中学の頃の顧問が、手厚く、莫大なお金を掛けて、私たちを大切に扱ってくれていた事を思い知りました。
多分、私の代だけなんじゃないかな?
同窓会の後に、顧問をかっさらって、部活の打ち上げをしました。
楽しかったです。でも、同時に、その場に後輩達もいて欲しかったという思いもあります。彼らがどう思っているかは分かりませんが、私は大好きでした。
この前、偶然K君と出くわし、不器用だった彼が、ただ同じ街で生活している事を知れただけで、幸せでした。
以上。私の心の底にあった、最も悩ましく、幸せな思い出です。