黄小娥さんの「易入門」、沢天夬の解説で山月記のワンシーンが引用されてまして、

そういや国語の教科書で読んだことあるなぁと懐かしく思い、読みたくなった。

以下、ちほら。がグゥ…ときた部分


人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。
今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。
かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。
おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。
本当は、ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ。
あの丘に上ったら、此方こちらを振りかえって見て貰いたい。
自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。
勇に誇ろうとしてではない。
我が醜悪な姿を示して、もって、再び此処ここを過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地をながめた。
忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。
虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。


まだ挫折の知らない、輝かしい将来を信じて疑わなかった子供の頃に読んだところで、特になんも感じんやろ。

大人になった今読むと胸が痛む!
そして切ない。。。

そして今、トートツな人外つながりでカフカの変身を読もうと思ったところ。

あれは切ないというか理不尽よね…