歴史とは何なのだろう?
ひとことで言うならば、それは、どういう過去があって、今の世の中があるのかという物語。どうやって今のような国家システムができたのか、どうして今の支配者が統治することになったのか。そういう物語。
だから歴史とは、現在をどう捉えるかによって、常に異なる物語になる。それを書いた人がどういう立場に立つのかによって、また異なる歴史ができる。
これから私は、公の歴史の中で長い間影の存在だった人物についての物語を書こうとしている。
縄文の女酋長ニシキトベ。この人が主人公になる歴史を書こうとしている。
歴史を掘り起こすとは、現在を新たに形作ることに他ならないのだ。新たな可能性を求めて歴史を掘り起こす時、過去は書き換えられ、現在もまた新しくなる。
ニシキトベ。
時は、2600年ほど前のことだ。縄文時代が終わっていこうする時代。その終わりの始まりの時代。
「古事記」の中で、統治者に反逆した野蛮な化け物、荒ぶる神として登場する人物、それがニシキトベ。
「さて、カムヤマトイワレビコがそこから迂回して行って、熊野の村に至りますと、大きな熊がちらりと現れたかと思うと、そのまま姿を消しました。すると、カムヤマトイワレビコはたちまち気を失ってしまい、軍の者も皆気を失って倒れてしまいました。この時に、熊野のタカクラジが一振りの太刀を持って、天津神の御子が倒れているところへやって来て、太刀を献上しますと、天津神の御子、すぐさま目を覚まして起き上がり、『長く寝ていたものだなぁ』と言いました。さて、イワレビコがその太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神は、自ずと皆、切り倒されてしまいました。そして、倒れていたイワレビコの軍の者は皆、目を覚まして起き上がりました」
「古事記」 現代語訳、著者
カムヤマトイワレビコとは、神武天皇のこと。日本の最初の天皇とされている人物だ。実在したのかどうかわからないとも言われているけれど、そういう物語はあったのだろう。とにかく、そういう人物が軍を率いて九州から上陸し、熊野にやってきた。これは、その時の話。
神武の軍勢が熊野に上陸すると、大きな熊が姿を現したのだ。すると、神武の軍勢は皆、意識を失って倒れてしまった。その熊というのが、熊野の首長である女性、ニシキトベだった。
九州から入って、熊野にやって来た神武の軍。古事記では天から降ってきた神々だということになっているけれど、おそらくは大陸から渡ってきた人々なのだろう。大陸の進んだ戦争技術を持って、日本を征服しにやって来た人々。彼らは原住民を武力で征服しながら、熊野までやって来た。
その頃、日本は縄文時代だ。石器と土器の時代。何千年という長い平和が続いた時代だとも言われている。中央集権的な社会システムというものがまだなかったのだ。
部族間の小競り合いのようなものはあったのだろう。でも、戦争というものはなかった。保塁も、武器で殺された人骨も、出てくるのは弥生期になってからのこと。武力も支配も戦争も知らない人々が、この頃の日本には住んでいた。
自然と共に生きる人々。彼らはとても高い芸術性を持つ民族だった。
縄文期の土器や土偶は、一つ一つが独創的で表現性が強い。呪術的な力を感じさせる。
これが、弥生時代になるとすっかり変わってしまうのだ。形は整い、シンプルで美しい曲線を持つようになるのだけれど、独創性は消え、形は画一的になる。縄文土器にはあった呪術的な文様はすっかり姿を消してしまう。
そして、その土器は、広大な範囲で交易されてもいた。
縄文土器は同じ地方で作られたものが日本の各地で発見されるのだ。彼らは、北海道から九州にまで及ぶ広い範囲で交易を行っていたらしい。単純なカヌーのようなものに乗っていたらしいのだけれど、高い航海技術を持っていて、遠くまで海を渡っていくことを知っていた。おそらくは潮や風を読むことを知っていたのだろうし、私たちが知らないような術を使っていたのかもしれない。
芸術的で、航海と交易に長けた民族……。
中央集権的な社会システムを持たないのに、盛んに交易していた民族。縄文人と一口にいっても、さまざまな民族、さまざまな部族がいたのだ。でも、彼らは支配したり支配されたりというような関係を持たなかった。それは、横の繋がりで成り立つ大きな世界だったのだ。
今の私たちには、そんな世界はなかなか想像できない。でも、これは別の時代の話。そんな世界もあったのだと、少し頭を柔らかくして考えてみよう。
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ニシキトベとは、丹敷という土地の女酋長という意味だそうだ。
ニシキとは、熊野の土地の名前。トベとは、女酋長という意味。だから、ニシキトベとは個人の名前ではない。ニシキと呼ばれた土地でトベを務めた女性のことを、「ニシキトベ」と呼んだのだ。
だから、ニシキトベと呼ばれた女性は何人もいたのかもしれない。この土地で代々トベを務めた女性は皆ニシキトベと呼ばれたのだろう。あるいは、トベを務める女性が集落ごとにいたのかもしれない。そして、その女性たちを皆ニシキトベと呼んだのかもしれない。
トベとはシャーマンのような女性であり、権力を持って土地を治めていたと言うよりは、霊力によって人を助ける能力により、皆から頼りにされる大姉のような存在であったそうだ。
その頃大陸では、中央集権的な政治システムというものが既にあった。戦乱があり、権力争いがある世界。そんな大陸から、軍を率いて縄文時代の日本にやって来た人々がいたのだ。それがカムヤマトイワレビコ、神武天皇だ。
神武天皇の軍は、熊野灘から熊野へ上陸してきた。その異国の人々の前に、丹敷のトベを務めていた女性が姿を現して、また消えた。その時、彼女は大熊の姿をしていたと古事記では言っている。
大熊。彼女は本当に熊の姿をしていたのだろうか?
あるいは、土地の人間は野蛮人だという意識が彼らにはあったので、熊が出てきたと言ったのかもしれない。あれは野蛮な者たち、同じ人間ではないのだと。
征服者の物語では、征服される民族は野蛮人、野獣のような者たち、化け物のような者たち、などと言うのだ。だから征服するのが正しい行為だったという物語になっている。というわけで、彼らに征服された縄文の原住民は、大熊やら大蛇やら鬼やら荒ぶる神やらにされている。
まあ、歴史とはそういうものなのだ。
あるいは、ニシキトベは本当に熊の姿になって現れたのかもしれない。
武装した異国の者たちに会いに行くために、熊の姿に変身して?
それもあり得ると思う。あるいはまた、ニシキトベは呪力で身を護るために何かをしていたのかもしれない。それが、神武軍の目には大きな熊のような恐ろしいものに映ったのか……?
ところで、その熊の姿が現れるや、神武の軍は皆、意識を失って倒れてしまったのだ。
一体、何が起こったというのだろう?
毒ガスを使ったのだろう、という話がある。
ニシキトベは熊野の山人族の長、山人族たちは採鉱の民だった。採鉱の際には、鉱毒ガスが出る。彼らはそのガスを扱うことを知っていた。だから、攻めてきた神武軍に鉱毒ガスで反撃を仕掛けたのだろう、と。
そうなのかもしれない。
あるいは、ニシキトベはある種の呪力を使ったのかもしれない。それで、神武軍はふいに戦意を失って、ヘナヘナとなってしまったのかもしれない。気を失ったように倒れて、そのまま眠り込んでしまったのかもしれない。
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縄文の民族は呪術的な民族だったのだ。アメリカ・インディアンやマオリ、アボリジニたちとも同じ文化的な根を持つ民族だった。そして、トベとはシャーマンのような女性だった。
そのような民族、そのような人物であれば、敵が攻めてきた場合、どうするだろう? まずは呪力を使って民を守ろうとするのじゃないんだろうか?
おそらく縄文人は、テレパシーで交信することも知っていたはずだ。
アボリジニたちは、誰でも当たり前にテレパシーを使うという。彼らにとって、それは特別な技術ではない。誰でも当たり前にするようなことだと言うのだ。本来人間に自然に備わった能力なのだと。
「ミュータント・メッセージ」のマルロ・モーガンは、アボリジニたちと生活しているうちに、英語の通訳を介さないでもコミュケーションできるようになってしまったと言う。彼らは「頭と頭で話す」と言っているのだけれど、それは単なる以心伝心の交歓というだけではなくて、狩りに出かけている仲間との連絡にまで及ぶ。アボリジニたちは、本当に電話のようにテレパシーを使うのだ。この能力があるからこそ、彼らは広大な砂漠の中で遭難することもなく生き延びていけるんだそうだ。
現実にはそんなこともあり得るんだっていうこと……。
アボリジニに限らない。チベットの奥地の人々なども、当たり前のようにテレパシーを使うらしい。そういう人たちに言わせると、それは特別な能力というようなものではない。嘘をつかないこと、心に隠すところがないこと。ただ、それだけなんだそうだ。それだけで、誰でも自然にできることなんだそうだ。
だから、縄文人たちも当然のごとくテレパシーを使っていたに違いないと私は思うわけなのだ。自然の感性を使って生活する人々なら、当たり前のように使っている能力だから。
それに、当時は共通語なんていうものだってなかったのだ。話す言葉だって、それぞれの土地で違っていたはずだ。それなのに、広大な範囲で交易していた彼らは、互いにテレパシーで意を通じさせていたんじゃないかと思う。
テレパシーならば、思念と思念とで通じ合うのだから、互いで違う言葉を使っていても通じ合えるのだ。共通語も、通訳さえも必要なく。
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さて、カムヤマトイワレビコが軍を率いて上陸してきたところは、そんな人々が住む土地だったとしよう。横並びの世界に生きていて、互いに心に隠すところのない人々だったのだと。首長たるニシキトベならば、どうするだろう? まずは、テレパシーでの会話を試みるんじゃないんだろうか? おそらくは、外からやって来た人々に対して、いつも彼らがしていたように?
「あなたたちは友達としていらしたのですか、それとも敵としていらしたのですか? 友達としていらしたのならば、歓待いたします」
例えば、こんな風に。
ところで、神武軍の方は、原住民を征服しようとしてやって来た人々だ。戦乱があり、支配したりされたりがあり、階級社会がある国からやって来た人々だ。異民族はやるかやられるかだと思っている人々。彼らは相手に心を開いていない。相手を野獣のようにしか思っていない。彼らにニシキトベの念が通じただろうか? おそらく、通じなかったんじゃないだろうか?
しかしその時、不思議なことが起こったのだ。ニシキトベの姿を見た神武軍の人々は、ふいに眠気を催して、気を失ったように眠り込んでしまった。
何が起こったのだろう、その時……?
私にはわかるような気がする。
もしも、支配すること戦うことを知らない人々、心をすっかり開いている人々が、武装してやってきた彼らに、ただ友愛の念を送ってきたとしたら? 戦うこと支配することで生きている彼らが、それまで知らなかったような友愛の念をふいに受け取ったとしたら……?
その時、彼らは一体何のためにここへやって来たのかが、ふいにわからなくなってしまったんじゃないだろうか? 戦って勝ち取ることなど何の意味もないように思えてしまったんじゃないんだろうか? そして、その場にヘナヘナと倒れて、眠り込んでしまったんじゃないんだろうか?
ニシキトベである大熊の姿がふっと現れて消えた時、神武の軍は気を失ったようになって眠ってしまったのだ。それは毒ガスのせいなどではなく、本当はニシキトベが送った愛の念のせいだったんじゃないかと私は思う。
何故と言って、純粋な愛の念ほど強いものはないはずだと思うから。
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このブログシリーズが書籍化出版されました!
「ニシキトベの復活」とタイトルを改め、ナチュラルスピリット社から2017年5月に出版されました。ブログを読んで下さり、応援して下さった方々、どうもありがとうございます。
出版につき、読みやすいように文章をさらに改めました。お手元に置いて愛読していただけたらと思います。