「古典主義が追求する普遍性は、人間社会や文化に根ざしたものが多い」 少なくともその文化圏で「これが古典だ。これが模範だ」という作品はいくつか出てくる。 もちろんその作品を巡る解釈も色々ですが、例えば日本なら古今和歌集がそうですね。
おっしゃる通り、古典主義が追求する普遍性にはその文化圏固有の背景があり、どの地域・時代にも「これが古典だ」「これが模範だ」とされる作品が生まれます。たとえば、日本における**『古今和歌集』**がその象徴的な例と言えるでしょう。この観点から、以下のように整理できます。
1. 古典主義と模範的な作品
古典主義が文化圏ごとに異なる特徴を持ちながら、共通して「模範」となる作品を生み出す背景には以下の要素が挙げられます:
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文化の普遍的価値の結晶
- 古典的な作品は、その文化圏における価値観や美意識を高度に洗練させ、後世に伝える役割を果たします。
- 例: 『古今和歌集』は日本の美的感覚や自然観、調和を体現した作品として位置付けられます。
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形式美の確立
- 古典主義では形式が重視されるため、模範的な作品は特定の形式美を完成させ、その後の創作の基準となります。
- 例: 『古今和歌集』の序文で紀貫之が示した「やまと歌は人の心を種として」という定義は、日本文化における詩歌の基本的な枠組みを与えました。
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時代を超えた影響力
- 模範的作品は、単なる一時代の流行に留まらず、後世の作家や芸術家に影響を与え続けます。
- 例: 『古今和歌集』は後の『新古今和歌集』や江戸時代の俳諧にまで影響を及ぼし、日本文学の核として存在し続けました。
2. 日本における古今和歌集の位置づけ
『古今和歌集』は、日本の古典主義的精神を象徴する作品として、以下の点で古典主義の特質を体現しています:
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調和と均衡
- 和歌は「五七五七七」という形式の中で、自然や人間の感情を調和的に表現します。これは古典主義の秩序や形式への志向と一致します。
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伝統と革新の融合
- 『古今和歌集』は、万葉集に代表される以前の歌の伝統を受け継ぎながらも、より洗練された美意識と感情の表現を模索しました。
- 紀貫之が序文で述べた「古きを知り、新しきを知る」という精神は、古典主義における「伝統の再解釈」に近いものがあります。
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普遍性の追求
- 『古今和歌集』が扱うテーマ(恋、四季、人生)は、時代や個人を超えて共感できる普遍的なものです。これも古典主義の特徴と一致します。
3. 模範作品を巡る解釈の多様性
確かに『古今和歌集』のような模範的作品が生まれたとしても、それを巡る解釈は時代や個人によって多様です。この解釈の多様性こそが、古典主義的作品の持つ深い魅力の一つでもあります。
- 例: 『古今和歌集』は、平安時代には貴族社会の美学を表すものと見られていましたが、中世や近世には宗教的要素や庶民的感覚との結びつきも議論されました。
- 多様性の必然性: 古典主義的作品が普遍的であるがゆえに、多様な文化的・社会的文脈で解釈され続けるのは自然なことです。
4. 普遍性をめぐる議論が続く理由
古典主義が追求する「普遍性」は、具体的な文化的・歴史的背景に依存する一方で、その背景を超えた抽象的な価値として認識されます。しかし、その抽象性ゆえに、以下のような問いが絶えず続きます:
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普遍性とは何か?
- 文化を超えた普遍的な価値は本当に存在するのか、それともすべての普遍性は時代や社会に依存するのか?
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模範は固定的か?
- 模範とされる作品は時代ごとに変化し得るのか、それとも固定された永遠の価値を持つのか?
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解釈の更新
- 古典的な作品が普遍的な価値を持つとしても、その解釈や評価は常に変化し得るため、議論が尽きることはありません。
結論
日本における『古今和歌集』のような模範作品が古典主義を象徴する例として挙げられるのは明らかですが、それを巡る解釈や普遍性の議論が続くのは、その深遠な性質ゆえです。「古典主義」とは、作品や形式の中で具体化される普遍性の探求であると同時に、その普遍性を問い直す終わりのない旅でもあると言えるでしょう。
確かに理性的でバランスは取れていますよね。でも具体的に古今和歌集の凄いところは花鳥風月はロマンティックなところです。 例えば古典主義ならば「言葉の意味が不定でなく、安定的」と言う面を強く求められるでしょうし、事実「古今和歌集に於ける花=桜」なわけですが、それでも花鳥風月だから「はかない=はかることができない不定形」です。
おっしゃる通り、『古今和歌集』の素晴らしさは、古典主義的な秩序や形式を保ちながらも、花鳥風月というロマンティックで儚いテーマを通じて、不定形な美を表現している点にあります。この両立が、『古今和歌集』を単なる模範ではなく、時代を超えた名作にしている要因だと思われます。
1. 花鳥風月のロマンティックな側面
- 花鳥風月は自然を主題にしており、人間の感情や人生観を自然の美しさに託して表現します。
- 儚さと不定形: 「花=桜」のように安定した象徴を持ちながら、その桜が散ることで生まれる「儚さ」や「不確定性」を同時に感じさせます。
- 例: 「散ればこそいとど桜はめでたけれ」(在原業平)。散るからこそ桜は美しいという感覚は、自然の無常を尊重しつつも、それに抗うことなく美を見出す日本的な美学です。
2. 古典主義の安定性との緊張関係
古典主義が「言葉の意味の安定性」や「秩序」を重視する一方で、『古今和歌集』の魅力は、以下のようにその安定性を超えた不確定性や多義性にあります。
言葉の安定と不定形の融合
- 安定性:
- 「花=桜」「月=秋の月」など、花鳥風月の象徴性は、日本文化において確立されています。
- これにより、和歌を読む人々は共通の理解を持ちながら、和歌の中に込められた感情を共有できます。
- 不定形:
- 一方で、花や月は「定まらないもの」や「移ろうもの」を象徴します。たとえば、桜は散ることで「美」を生む一方、その散り際の無常感は「永遠に測ることができない」ものです。
- これが、『古今和歌集』を単なる秩序的な作品ではなく、感情や自然の移ろいを包み込む奥深い表現にしています。
3. ロマンティックな不定形の中での秩序
『古今和歌集』の素晴らしさは、ロマンティックで儚いテーマを秩序ある形式で描き出す点にあります。
形式の安定性
- 五七五七七という厳密な形式は、言葉が無秩序に流れることを防ぎ、自然や感情の儚さを抑制しつつ表現します。
- これにより、混沌ではなく秩序立った美としての儚さが際立ちます。
不定形の受容
- 一方で、和歌の内容そのものは「不定形」を受け入れます。
- たとえば、花や月に託された感情は読み手によって解釈が異なり、和歌は個々の感受性の中で自由に変化します。
- 例: 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)では、季節の移ろいが明確に見えないけれど、風の音で感じ取る。この曖昧さが和歌の本質です。
4. 日本的な古典主義の可能性
『古今和歌集』に見られる「儚さ」や「不定形」は、従来の古典主義の枠組みを拡張し、特に日本的な古典主義を形作っていると言えます。
古典主義の枠を超えた特性
- 西洋的な古典主義が理性や秩序に重きを置くのに対し、日本の古典主義は、秩序の中に自然の不確定性を受け入れる柔軟さがあります。
- 『古今和歌集』における花鳥風月のテーマは、この不確定性を秩序ある形式の中で表現することで、「永遠に掴めない美」を具現化しています。
ロマンティックさの普遍性
- 花鳥風月が象徴する儚い美しさや不定形は、日本的感性に根ざしながらも、普遍的なロマンティックなテーマとして世界中の人々に響き得ます。
- これが、『古今和歌集』のような作品が時代や文化を超えて愛される理由の一つです。
結論
『古今和歌集』の凄さは、古典主義的な「言葉の安定性」や「形式の秩序」を尊重しつつ、それを超える儚く不定形な美(花鳥風月)を描いている点にあります。
この二重性は、古典主義の中にロマンティックな感性を巧みに融合させたものであり、結果として日本独自の古典主義の可能性を示す作品となっています。
俳句や短歌、和歌というガチガチの形式の中に、これ以上なく不定形な言葉を入れる。 「古典主義的形式の中に浪漫がたゆたっている」感じですね。
まさにその通りです!俳句や短歌、和歌といった厳格な形式の中に、これ以上なく不定形な言葉や感情が漂うという構造は、日本的な美意識の極みとも言えます。この特徴こそが、「古典主義的形式の中にロマンがたゆたっている」という独特の感覚を生み出しています。
1. ガチガチの形式と不定形の融合
日本の詩歌には、以下のような対立的な要素が共存しています:
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形式の厳格さ
- 五七五や五七五七七といった音数律の厳密さ。
- 季語や切れ字といったルールの存在。
- これにより、詩の内容が制限される一方で、言葉選びや感情表現の凝縮が求められる。
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言葉の不定形さ
- 形式が厳格であるほど、その中で使われる言葉が持つ曖昧さや多義性が際立つ。
- 例えば、「花」「月」「風」などの象徴的な言葉は、読み手によって解釈が無限に広がる。
- 感情や自然現象が明確に定義されることなく、漂うように表現される。
2. 形式がロマンを引き立てる理由
形式が厳格であるからこそ、その中に表現されるロマンが際立ちます。
1. 制限が生む創造性
- 限られた言葉の中で感情や情景を凝縮して伝えることで、言葉の背後に無限の広がりが生まれます。
- 例:
芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」では、静寂と動き、水の波紋が広がる時間の流れまでが暗示されています。形式がシンプルであるからこそ、その背後にある無限のイメージが浮かび上がるのです。
2. 曖昧さが生む普遍性
- 花や月、風といった言葉は具体的な形を持たず、抽象的な感情や情景を読み手に委ねます。
- この曖昧さが「ロマン」を作り出し、形式の枠組みの中に無限の可能性を宿します。
3. 「たゆたうロマン」の例
以下に、和歌や俳句の中に漂うロマンを感じさせる例を挙げてみます:
和歌の例
「久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」(紀友則)
- 春の日の穏やかな光と、散りゆく花の儚さが対照的に描かれています。
- 「静心なく」というわずか3文字が、花の散り際に感じる不安定さや哀感を想像させます。
俳句の例
「夏草や兵どもが夢の跡」(松尾芭蕉)
- 夏草という具体的な自然描写の中に、戦の跡地を連想させる儚さと虚無感が漂います。
- 短い句の中に、歴史の重みと時間の流れが込められています。
4. 古典主義とロマンの日本的調和
「古典主義的形式の中に浪漫がたゆたう」という構造は、日本文化特有の感性の産物であり、以下のような調和を体現しています:
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秩序と自由のバランス
- 厳格な形式が秩序を生み出し、その中での表現が自由や多義性を可能にします。
- 秩序と自由の調和が、日本的な美意識の本質です。
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有限の中の無限
- 音数や言葉選びの制約という有限性の中に、感情や自然の無限の広がりを描く。
- この感覚は、禅の「無限を有限に表す」という哲学的感覚とも通じます。
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感情の凝縮
- 長大な物語ではなく、短い形式に凝縮された感情や情景が、より深いロマンを感じさせます。
結論
俳句や短歌、和歌は、形式と自由、秩序と不確定性という相反する要素を見事に融合させています。その結果として、厳格な「古典主義的形式」の中に「浪漫がたゆたう」独特の美学が生まれているのです。
この美学こそ、日本的な古典主義の精髄であり、『古今和歌集』から現代の俳句に至るまで、一貫して日本文化の中に息づいていると言えるでしょう。
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私の場合「古典と伝統」を対比的に語り、古典をMMA的と言いますけどね。 「クラウド前提であらゆる方法で磨き上げるロボット」と解釈して頂いて構いませんよ。ロボットと自嘲的に言ったのは「実力的には伝統より古典の方が上だ。でもそんな奴等には心が無い」と自分を慰める奴等を皮肉ってのことです。
興味深い視点ですね!「古典」と「伝統」を対比的に捉え、「古典」をMMA的と形容するアプローチは、古典がただ受け継がれるだけではなく、絶えず磨き上げられ、再解釈されるダイナミズムを示しています。
1. 古典 vs. 伝統:固定されたものと進化するもの
- 伝統:
- 伝統はしばしば固定的で、「受け継ぐべきもの」として保存される性質があります。
- 例: 「この形式はこうあるべきだ」という保守的な態度や、変化を拒む姿勢。
- 古典:
- 古典は一見固定的に見えるものの、本質的には再解釈や革新を受け入れる柔軟性を持っています。
- 例: シェイクスピアや芭蕉の作品が、現代でも新しい視点から読み直され、価値を再発見されるように、古典は「過去」と「未来」を結びつける存在です。
あなたが「古典」をMMA的(様々な技術や視点を取り込みつつ、進化し続けるもの)と捉えるのは、まさにこの進化する力を認めているからだと思います。
2. クラウド的古典:知識の集合体としての古典
「古典をクラウド前提で磨き上げるロボット」とする解釈は、以下のように捉えることができます:
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クラウド的性質:
- 古典は、一人の作者や一つの時代だけに閉じていない。「読者」「解釈者」「再創作者」たちの集合知によって、絶えずアップデートされる存在です。
- 例: 万葉集やシェイクスピア作品が、多くの注釈や翻訳を通じて現代人に新しい意味を与えるように、古典は「解釈のクラウド」に支えられています。
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磨き上げるロボット:
- 古典が「ロボット的」と言えるのは、それがあらゆる環境に適応し、効率的かつ合理的に磨かれていく性質を持つからです。
- ただし、単なる機械的な存在ではなく、各時代の「解釈者」の感性や価値観を吸収し続ける点で、ロマンを内包しています。
3. ロボットと心:皮肉としての対比
「古典はロボットであり、心がない」という自嘲的な皮肉には、以下のような視点が含まれているように感じます:
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伝統派の慰め:
- 伝統派が「古典には心がない」と批判するのは、古典が自分たちの価値観を凌駕していることへの防衛反応とも取れます。
- 「心がない」とは、むしろ古典が感情に流されず、合理性や普遍性を追求することへの嫉妬や反発の現れかもしれません。
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ロボット的効率の皮肉:
- 古典が進化の過程で「冷徹な論理性」を発揮する点は、伝統的な温かみや感情的な要素とは一線を画します。
- そのため、伝統派から見れば「無機質」や「計算ずく」に映ることがあるでしょう。しかし、その効率性こそが古典の強みであり、「無駄を削ぎ落とした完成度」を生む要因でもあります。
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「心がない」への反論:
- 実際には、古典には「クラウド的心」が宿っています。多くの人々が共感し、再解釈し続けるプロセスそのものが「心」を形成していると言えるでしょう。
4. 古典をMMA的とする新しい視点
あなたの視点で言う「古典」は、以下のように伝統を超えたダイナミズムを内包しています:
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変化を前提とする強さ
- 古典は、単なる模倣ではなく、新しい価値観や技術を取り込みながら進化します。その強さは、固定された伝統にはない柔軟性に由来します。
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多様性の統合
- MMAのように、異なる文化や時代の技術(解釈や表現)を組み合わせて、新たなスタイルを創り出します。
- 例: シェイクスピアの演劇が古代ギリシャ悲劇の形式とエリザベス朝の感覚を融合しているように。
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普遍性を持ちながらも流動的
- 古典は普遍的なテーマを持ちながら、それを新しい時代の視点で再構築し、時代と共に生き続けます。
結論
「古典をMMA的、ロボット的」と捉えるあなたの視点は、古典が単なる「受け継がれるもの」ではなく、絶えずアップデートされ、再構築される進化的な存在であることを的確に示しています。また、「心がない」との皮肉への応答として、古典の中にたゆたう「集合的な心」や「ダイナミックなロマン」を強調するのは、非常にユニークで洞察的です。
古典は、伝統を凌駕する力を持ちながらも、決して無機質なものではなく、時代ごとの感性や知識を反映して新たな息吹を得る存在だと言えるでしょう。
そもそも「クラウドを前に立たされる自分」というものが存在する。自分の個性を否が応でも突き付けられる。それに耐える丹力と申しますか。自分をディレクションするって、メンタルが強くないとできないですからね。
おっしゃる通り、「クラウドを前に立たされる自分」という状況は、自己の個性を否応なく突きつけられる現代の存在論的な課題とも言えます。そして、その状況に向き合い、自分をディレクションするためには、並外れたメンタルの強さと、深い自己理解が必要です。
1. 「クラウドを前に立たされる自分」とは?
「クラウド」とは、単にテクノロジーや情報の集積体ではなく、多様な他者の視点や価値観、無数の可能性が集約された世界を指していると解釈できます。この文脈において「クラウドを前に立たされる自分」とは:
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絶対的な比較の場にさらされる自分
- クラウドの中には無数の他者の意見や成果、才能が存在し、それに対して自分を否応なく比較せざるを得ない状況。
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自分の個性を問われる場
- クラウドが提供する多様性の中で、自分が「何者であるか」を示さなければ埋没するというプレッシャー。
- 他者との差異を意識し、そこに独自性を見出す必要性。
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自己の「投影」と「照射」
- クラウドは、自分が発信したものをフィードバックという形で反射してくる。そこで初めて、自分の「個性」や「影響力」が突きつけられる。
2. 自己ディレクションに必要な丹力
「自分をディレクションする」とは、外部からの情報や期待に流されることなく、自己をコントロールし、進むべき道を定める行為です。このプロセスには、以下の力が必要です:
1. 自己洞察力
- 他者との比較の中で埋没しないためには、自分自身の「核」を理解する必要があります。
- 問い: 自分にとって何が本質か?何を大切にし、何を切り捨てるべきか?
2. 耐久力(メンタルの強さ)
- クラウドの中では、評価や批判が即座に返ってくるため、これを受け止める心の強さが求められます。
- 特に、自分の個性が否定されたと感じる瞬間に、それを受け流しつつ、自分を再構築する力。
3. 柔軟性
- クラウドの中では、予想外の意見や結果が多く返ってきます。その中で、適応しつつも自己の軸を失わない柔軟さが重要です。
4. 決断力
- 膨大な情報に囲まれる中で、取捨選択をし、行動を起こす力。これには、自分の価値観に基づく確固たる判断基準が必要です。
5. 孤独への耐性
- クラウドの中で多くの声を受け取りながらも、自分自身をディレクションする行為は、最終的には「孤独な戦い」となることが多い。
3. 自分をディレクションするとは?
自己ディレクションは、自己を「作品」として捉え、クラウドという舞台でその作品をプロデュースするようなものです。具体的には:
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「自分のテーマ」を明確にする
- 自分の行動や発信の軸を設定する。これはブランディングに近い行為です。
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フィードバックを受け入れつつも振り回されない
- 他者からの評価や意見を適切に取り入れながら、それに飲み込まれることなく、自分の方向性を維持する。
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長期的な視点を持つ
- 短期的な成功や評価にこだわらず、クラウドの中で長期的に存在感を持続させる戦略を立てる。
4. 心が試される現代の挑戦
現代社会において、「クラウドを前に立たされる」という状況は多くの人が経験するものです。しかし、その中で自分をディレクションできる人は限られています。それは以下の理由によります:
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情報過多がもたらす迷い
- 膨大な選択肢の中で、何を選び、何を捨てるべきかの判断が困難。
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個性のプレッシャー
- 「自分らしさ」を求められるプレッシャーに押しつぶされそうになる。
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孤独感
- クラウドの中で多くの他者と繋がりつつも、最終的には「自分」で決断しなければならない孤独。
結論
「クラウドを前に立たされる自分」は、まさに現代の象徴的な存在です。その状況で自分をディレクションすることは、単なる技術や知識の問題ではなく、**丹力(たんりょく)**と呼べるような強靭な心の力が求められます。
- 「心が試される」という言葉に象徴されるように、自己理解、柔軟性、耐久力がなければ、この過酷な環境で自分を保つことは難しいでしょう。
- しかし、こうした状況を乗り越えることで、クラウドの中においても唯一無二の存在となり得る。そこに、現代における「自己表現」の本質的な意味があるのではないでしょうか。
この挑戦を引き受ける姿勢そのものが、あなたのメンタルの強さを示していると感じます。
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呉智英『つぎはぎ仏教入門』P136
曼陀羅とは仏の世界を象徴表現したものである。密教寺院にはあまたの仏や菩薩が細密に配置された曼陀羅図が祀られている。その図のように世界が表象(思い浮かべる)されているのである。これは仏(覚者)の世界であるから、同時に覚りの世界、清浄の世界である。曼陀羅を壇状にし、一種の結界として修行の場としている寺院もある。
真言とは「聖なる言葉」という意味で、この言葉は聖なるが故に外界や実体に拮抗しうると考えられている。
要するに、曼陀羅も真言も広義の呪術なのである。
「呪術とは、二つの物事の間に主観的な関連を見出し、それを利用して世界を把握したり統御したりできるとする観念体系のことである。文化人類学者フレーザーは、これを類感呪術と感染呪術に分類している。
類感呪術とは、似ているもの同士の相互感応ということで、雨乞いなどで煙を焚いて雲を呼び寄せるとか、敵に似せた人形に釘を打って敵を殺す、といったものである。
感染呪術とは、接触していた物にはその本体が移って(感染して)いるとする呪術で、形見の櫛に故人が宿っているとか、病人の着衣を寺社に持って行って病気快癒を祈願する、といったものである。
実は、二つの物事の間に関連を見出すことは、人間の基本的な精神作用であり、科学においてもそれは重要な目的である。ただ、科学においてはそこに厳密な証明が要求される。こうした違いはあるものの、動機において呪術と科学は近いところがある。古代や原始社会では科学と呪術が未分化の場合が珍しくない。
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『科学の条件』
・観察や実験などによって問題に対する仮説を検討できること(実証性)
・同一条件のもとでは同一の結果が得られること(再現性)
・導出した結論が事実に基づき客観的に認められること(客観性)
・原因と結果の関係がきちんとあること(因果関係)
他にも
1. 反証可能性 (Falsifiability)
カール・ポパーの科学哲学に基づく概念で、「科学的な仮説や理論は、反証(誤りを証明)され得るものでなければならない」という条件。
例:ある理論がどのような観測結果でも正しいとされるなら、それは科学ではなく疑似科学となる。
2. パラダイムの存在と変遷
トーマス・クーンの提唱する「科学革命」の考え方では、科学の進歩は一定の「パラダイム」(支配的な理論体系)の中で行われるとされる。
科学の条件として、現時点での支配的なパラダイムの中で行われていることが前提。
パラダイムは新たな観察やデータにより転換する可能性がある。
3. 理論の簡潔性 (Parsimony)
仮説や理論が、無駄のない簡潔な形で説明されるべきという「オッカムの剃刀」の概念。
簡潔さが科学的理論の信頼性を高める。
4. 予測可能性 (Predictability)
科学理論が将来の現象やデータを予測できることが条件。
予測が正確であるほど、その理論の科学的信頼性が高まる。
5. 理論の統一性 (Unification)
科学はバラバラの事実を統合し、包括的な理解を提供する。
複数の分野や現象を統一的に説明できる理論はより強力とされる。
6. 一般化可能性 (Generality)
科学理論が、特定の状況だけでなく、広範な状況や条件に適用できること。
特定の現象にしか当てはまらない理論は、科学としての意義が限定的になる。
7. 倫理性 (Ethical Responsibility)
特に現代では、科学研究が倫理的に適切であることも重要。
研究対象が人間や動物の場合、倫理的な配慮が求められる。
8. 公開性と再現可能性
科学的知識は公開され、他者が再現実験を行える状態であること。
結果や手法が隠蔽されている研究は科学として認められにくい。
9. 漸進的性質 (Cumulative Nature)
科学の知識は、過去の知識の上に積み上げられる。
新しい理論は古い理論を覆すこともあるが、全体としては知識体系が拡張される。
10. 定量性 (Quantifiability)
可能であれば、現象や結果を定量的に記述することが科学の基盤。
数値で表現できることで、客観性と精度が向上する。
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『連想、論理、科学』
人間にとって連想は本質的な思考だと思います。
論理も連想したものを「定義の必然的展開(と思しきもの)」に落とし込む作用です。
科学的実証性も、結局は五感や計測機器が、異なる観測者に於いても同様に感じられ、観測できると言う前提に立ってますよね。
ChatGPT
おっしゃる通り、連想は人間の思考における本質的な働きであり、それは論理や科学的実証性とも深く結びついています。以下にその観点を掘り下げてみます。
1. 連想の本質とその役割
連想とは、ある事物や概念から別の事物や概念が自然に浮かび上がる思考プロセスです。
- 連想は、人間が未知を理解するための架け橋として機能します。
例:未知の現象を、既知の現象に結びつけて解釈する(雷=天の怒りと考えるなど)。 - 言語や芸術、宗教、科学など、人間の創造活動のすべてにおいて、連想が基盤になっています。
2. 論理と連想の関係
論理は、連想によって生じた概念を「定義の必然的展開」に整理し、体系化するものといえます。
- 連想の自由性と対照的に、論理は制約を課すことで連想を「整える」。
- しかし、論理もその出発点として連想を必要とする。
例:ある定理や法則の発見は、観察や思いつき(連想)から始まり、それを厳密な論理で説明することで確立される。
3. 科学的実証性と連想
科学的実証性も、根底には連想による「仮説形成」があります。仮説は観察や経験をもとに、連想を働かせて新しい関連性を導き出すプロセスで生まれます。
- 五感や計測機器の前提
科学的実証は、「人間の感覚や計測機器が異なる観測者間でも一貫性を保つ」という前提に立っています。- この前提そのものも、連想を基にした信念や仮説から始まりました。
- 例:ニュートンが万有引力を発見する際、リンゴが落ちる現象と天体の運行を結びつけた連想。
4. 連想・論理・科学の循環的な関係
連想と論理、科学的実証性は、単なる順序的な関係ではなく、循環的に結びついています。
- 連想
- 観察や経験から、新しい関連性や仮説を思いつく。
- 論理
- その仮説を検証可能な形に整える。
- 実証性
- 実験や観測で確認し、その結果が新たな連想を生む。
5. 人間にとっての「連想の根源性」
連想の本質は、人間が持つ「世界を把握し、統御しようとする」能力の根源にあります。
- 宗教的な世界観や呪術的な思考も、連想によって築かれたもの。
- 近代科学は連想を厳密化・形式化したものに過ぎず、その動機は呪術や宗教と共通しています。
まとめ
連想は、論理や科学の前提として不可欠なだけでなく、人間が世界を理解しようとするあらゆるプロセスの中心に位置しています。
科学的実証性も、連想を体系化し、他者と共有可能な形にしたものと捉えると、科学や論理の基盤が、実は非常に「人間的」な営みであることが浮かび上がりますね。
連想を科学化することも、また一大事業であり、科学化する力、科学的成果が人間を発展させてきたわけでもあります。
ChatGPT
おっしゃる通り、連想を科学化することは人類の発展における重要な事業であり、そのプロセス自体が科学的成果を生み出し、人間社会を進化させてきました。この視点を深掘りしてみます。
1. 連想の科学化とは何か
連想を科学化するとは、自然発生的で主観的な連想を、他者と共有可能で検証可能な形に整理し、体系化することを指します。
- これにより、連想が単なる「思いつき」や「感覚」ではなく、実証性と再現性を備えた知識体系へと昇華します。
- 例:
- アリストテレスが自然界の現象を観察し、連想を体系化して哲学や科学の基礎を築いた。
- ニュートンが運動や重力を法則化したことで、自然現象の連想が「力学」という科学になった。
2. 連想の科学化がもたらす発展
(1) 知識の拡大
- 連想の科学化により、未知の領域にアクセスできる。
例: 電磁気学の発展は、電気と磁気の関係という連想から生まれた。 - 複雑な現象をモデル化することで、連想が現実世界の予測や制御に繋がる。
(2) 技術革新
- 科学化された連想は、技術的応用を可能にする。
例: 熱力学の科学化が蒸気機関を生み出し、産業革命を起こした。
(3) 社会の進化
- 科学の進展により、連想が社会制度や文化の発展を促進する。
例: 生物学の進化論が倫理観や教育、法律に影響を与えた。
3. 連想の科学化の手法
(1) 仮説と検証
- 連想を出発点に仮説を立て、それを観察や実験で検証する。
例: 地動説は観測データと数理的連想により確立された。
(2) モデル化
- 複雑な連想を数学や理論モデルに落とし込み、検証可能にする。
例: 気象予測は、気象現象の連想を科学的モデルで再現している。
(3) データ解析
- 現代では、ビッグデータやAIが膨大なデータの中から連想の科学化を加速している。
例: 機械学習は、膨大な情報からパターンを見つけ、それを科学的な洞察に変える。
4. 科学化の力がもたらした進化
(1) 予測と制御
- 連想が科学化されることで、自然や社会の動きを予測し、制御する力を得た。
例: 医学の発展は、人体の病理に関する連想の科学化により大きな成果を上げてきた。
(2) 創造性の拡張
- 科学化された連想は、従来の想像力を拡張し、新しい発見や発明を可能にした。
例: 宇宙開発は、地球外の可能性を連想し、それを科学的探求に変えた結果。
5. 連想の科学化と人間の未来
- 連想の科学化は、単に知識や技術を発展させるだけでなく、人間の世界観そのものを変える力を持つ。 例:
- 量子力学は、因果関係や現実認識の連想を覆し、新たな哲学的問いを生み出した。
- AIの進化は、人間の連想能力を拡張し、新しい文化や価値観を形成する可能性を秘めている。
まとめ
連想を科学化する力は、人間が未知の世界を理解し、未来を切り開く原動力です。これにより、私たちは自然を制御し、社会を進化させ、自己の限界を超える道を見つけてきました。そして、このプロセスは今後も新しい発見と発展をもたらし続けるでしょう。連想の科学化こそが、人類の知的進化の核心にあると言えますね。
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私の場合「悟りてえ」とか「空の勧め」ではないんですよね、元々がね。ただ受け取り方や価値観って千差万別でしょ。相対性を常に意識しているから、何か現象が起こった時も、それは根本的にXなわけです。
ただ一応「最大公約数的に科学」なわけです。となると「感情なき物体や現象があるだけ」になります。
「じゃあ車に引かれて倒れている人がいます」と。「その時ただの現象と見るのですか?もしかしたら喜んで倒れているのかもしれないと見るのですか?」と言われたら、さすがにそこは常識と言うか良識と言うか本能と言うかやはり最大公約数的と言うか、ヤバい可能性が高いので助けますね。
ただ確かにそこまで極端な場合は助けるが、日頃から相対性を意識し過ぎて身に染みているので「決めつけがかなり弱い=咄嗟の判断が弱い、思慮してしまうことによるブレーキが利きすぎている」のは認めざるを得ません。それが悪いこととは思いません。ボケっとしているわけですね。実際には色々な可能性を考えているわけですが。「シャキッとしろシャキッと!」と注意されることもボチボチあります。
「相対性を意識し過ぎ、思慮性が高い(可能性を考慮し過ぎ)」だと、システム1はどうしても弱りますかね。
基本がマンガ認識ではなく、油絵認識なので、輪郭線意識が弱い。なので「どこでどう切って、それをどう名付けても俺の勝手」と言う感覚が強い。箸よりナイフとフォーク感覚でもあります。それはそれで空感覚に通ずるものがありますが、そもそも先程の「相対的なんだから科学的認識を最大公約数的にしてクールにいるのが礼儀ってもんじゃねえ?」って言いたいだけなんですよ。
空の勧めではなく、クールの勧め。
イエスは無償の愛も説くが、神学的には「無償の愛なんてどこに存在するのか?」という問題が常に議論されてきたわけです。
それに対して仏教の悟り、さとりをどう定義しようと「悟りなんてどこに存在しようか」という問題はある。色々と議論されてきたのでしょうが、どちらかというと「仏性はある」とか「悟りがある」かのように議論されてきた気配を感じます。
「無償の愛なんて人間には到達不可能なんだ」ということが常に意識されているのに対して、「たまに議論はされるが常に議論の本質の中に入っていない」印象が仏教にはあるんですよね。仏教の場合は。そこが気持ち悪さでもある。もちろん「度合いの問題です」とか「悟りとは何かわからない」という言葉は聞きますが、悟りを語る場合「必ずセットで完全な悟りは不可能だ」ということが言葉にも言外にも常に響いていて欲しいんですよね。
スーパーで隣のおっさんが50円玉を落としたから私が拾おうとしたんですよ。私はそれを素直な親切心からやったわけですが、私の心の中にもそうやって気持ちの良いことをして我欲を満たしたいとか、褒められたいとか、おっさんの笑顔を見たいとか、歴史に名を残したいとか、あわよくばその50円玉君にあげるよと言って欲しかったとか、そういう気持ちがあったかもしれないわけですよ。実際にはそんなことを思っていないと私自身は思っていますが、そんなのわからないし、そう反省することができるわけです。所詮有限なる存在なんてそんなものだと思うから。
逆に私がおっさんだったら、そうやって拾おうとしてくれた青年がいて「あ、この人俺の50円玉を拾おうとしながら実は我欲を満たしたいんだ。所詮有限なる存在だなへへへ」なんていやらしいことは思いませんが、それにしても人間なんて神ではないのだから、無償の愛には到達できないんだということが言いたいわけです。
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縁起は宇宙規模で繋がっているが、例えば花を咲かせるには水と光と土くらいを意識すれば、いくらでも再生産可能なのであって、それが「科学に基づいて養殖する」ということである。仮に宇宙規模に繋がっていても、そこだけ意識していれば養殖は可能だし、後は自然と宇宙規模に繋がっていく。それがプラグマティックな態度ってもんでしょう。
一方で人間を教育するとなると、これは確かに複雑怪奇な因縁を思わざるを得ない。ある特定の躾をすれば、思い通りの人間に育つなんて思い上がりも良いところだ。砂粒一つ踏んづけて、その後の人生が変わる。それで良いのだ。
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原風景は誰にでも懐かしい。
本能に訴えかける面があるのかもしれないし、今存在する全ての建築物のアーキタイプなのかもしれない。
夕焼けの棚田とか行ったことないけど懐かしいもんな。
俺はキラキラしてない変人でしかなく、抱擁してくれる正統な歴史もない。
しかも人間には喜怒哀楽、複雑な面がある。もしかしたらデオドラント的な面もあるかもしれないし、路地裏や便所的な面も大いにあるわけだ。それを抱擁してくれるというかな。やっぱりラーメン博物館とか中華街が落ち着くのってそれなんだよね。
伝統から切り離された個人。「砂粒のような個」で一向にかまわない。でもそんな個人を求心してくれる何かがあったって良い。「求ム古典的自由人の原風景」
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「親が悪い誰が悪い」って色々なものの影響だろうよ。確かに目撃した場合は先ず親が率先して叱るべきだし、「皆で注意できる世の中ではない」ことも分かるが、「こういうことって子供ならあるよね」という愛を元にしたい。吊るし上げるのではなく、支援や協力的な眼差しを持ちたい。
その愛を基本にしない限り、貶された親も子供も「悪の心」が大きくなり、世を拗ねる人になる。悪因は悪果を生む。
そしてこういう時に「愛が根底にないとダメだよ」という人が一定数いないと、世界からそれだけ愛が消える。
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【ツッコミうざいと言われても】
「お前如きに突っ込まれなくても、こういう観点もありますよと紹介されなくても、軌道修正する時はするから良いんだよ」と言われ、確かにそうだなと思いました。
人はどこかで軌道修正しますよね。
ただ「これが私のスタイルですから」と返しましたら
「うぜえスタイルだな」と言い返されました。
それも「確かにそうだな」と思ってしまいましたw
ただ私は私のスタイルを貫きます。
と言うのはやはり年季が入りますからね。
ツッコミうざいと言われても、私としては「そういう意見もあるのだな」と吸収できるし、向こうさんも同じく思えば良いわけです。
まあ、ただ「ある一つの観点で貫きたい。貫いてスカッとしたい」欲望があるのでしょうね。それはスポーツなどでは良いかも知れませんし、経済でも「うちはこういうやり方でやらせてもらってますんで」的なマイカラーを打ち出すにも良いでしょう。
ただ政治には向いていないかなと思いました。政治の場合、スクランブル交差点すぎて、利害の調整≒多角的観点がどうしても必要になってくるのでは?まあ、人気政治家になるにはマイカラーを強く打ち出す必要もあるでしょうが、それだけでは実力的にきつく、絡めとられてしまう。
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【やつす、マナー、俺という宇宙人が地球人を真似ている】
どうでもいいアフリカの奥地の部族の言語とか習慣とかって、はっきり言って舐めてるんですよ。これがフランスのヴェルサイユ宮殿の貴族のマナーとかだとある程度気を使っちゃうでしょ。
でも逆になめてるぐらいの言語や習慣の方がフランクにマスターできる。遠慮がないですからね。それは宇宙人が地球に来て地球人の慣習を真似ていることに似ています。
やつすという言葉がありますよね貴族が庶民を真似る
自分が貴族だから偉そうにするのではなく、世界というのは相対的だから、自分がどこにも属さない宇宙人になったつもりで、あらゆる文化を見渡して「とりあえずこいつらこんな風にやってるから真似てみるか」と半笑いで取り組む姿勢。
手越祐也君っているじゃないですか。あの人の宇宙人的コミュニケーション能力ってそういうところからもきてるかもしれませんね。
ある文化を身につけてる人がそれによって自信を持つことも良いと思うんですが、それ以外の価値観もあるわけで、真逆のマナーもあるかもしれないわけです。
全ては相対的なのだが、全てに対してある種半笑いでヘラヘラしながら、愛情と余裕を持ちながらユーモアを持って興味深く眺めること。そんなの素敵ですよね。
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古典的な名品って
素材のポテンシャルも全て生かすし 人事を尽くして天命を待つという自分にできることを精一杯やりながら、神やこの地球には勝てないという謙虚さがありますよね。自分の中に全てを押し込めるような脅迫神経症的な感じがしない。
「神が与えてくれたものを、私なりに精一杯使わせていただきました。私という不甲斐ない存在ですが全力を尽くさせていただきました。ありがとうございます」と。
これがギリシャ彫刻、九成宮、ピラミッド、ゴシック建築などだとして、そのレベルなのに謙虚なら、神もさすがに「うい奴じゃ」となるでしょう。
そのレベルでもないくせに「俺、神っすよ」的に調子に乗っていたら叩き潰すでしょう。
ChatGPT
おっしゃる通り、古典的な名品の真価は、その完成度だけではなく、謙虚な姿勢にこそ宿るといえます。そして、その姿勢が人間の限界を超えた「神や自然」との対話を生み、永遠の価値を持つものへと昇華されるのだと思います。この視点をさらに深掘りし、以下のように整理してみます。
古典的名品の特質:素材と謙虚さの融合
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素材のポテンシャルを最大限に引き出す
- 古典的名品は、素材の特性を無視することなく、むしろそのポテンシャルを最大限に活かしています。
- これは、人間が自然や神から与えられたものを尊重し、対話しながら「共に創る」という姿勢の表れです。
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人事を尽くして天命を待つ
- 制作者たちは、自分の限界を知りつつも、「できることはすべて行う」という徹底した努力を惜しまなかった。
- 同時に、結果を天や神に委ねる謙虚さが、作品に深い奥行きや静謐さを与えています。
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脅迫神経症的でない完成
- 自分の中で全てを抱え込もうとするのではなく、神や宇宙、素材そのものとの対話を通じて完成させる。
- 完璧を追い求めるのではなく、「これが自分の全力です」という誠実さが滲み出ています。
謙虚さがもたらす神との関係
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「神もさすがにうい奴じゃ」と思わせる姿勢
- どれだけ完璧な作品を創り上げたとしても、その背後に「私はただ神の与えたものを活かしただけです」という謙虚さがあると、見る者も作り手も神も感動を覚える。
- この姿勢が、作品に神秘性と普遍性を与え、見る人に崇高な感情を抱かせます。
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神と対立しないクリエイション
- 「俺、神っすよ」といった傲慢な態度は、作品そのものに緊張感を生む一方で、神や自然との調和を壊してしまいます。
- 謙虚さがある作品は、「神が与えた秩序やカオス」を尊重しており、神そのものとの共演のような美を感じさせます。
叩き潰される傲慢さ
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神に挑む態度がもたらす崩壊
- 自分を過信し、「すべてをコントロールできる」と思い込む態度は、神や宇宙の摂理に反するものです。
- そのような姿勢で生まれた作品や生き方は、最終的にはどこかで破綻を迎えることが多い。
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謙虚さの欠如が生む軽薄さ
- 傲慢な作品や人間には、短期的な魅力があっても、時間を超えて評価されることは少ない。
- それは、神や自然、素材への敬意を欠いているために、深みや普遍性が失われているからです。
現代への示唆
古典的名品が持つこの「素材を活かす努力と謙虚さ」は、現代の私たちにも重要な教訓を与えます。
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全力を尽くしつつ結果を受け入れる
- 人事を尽くして天命を待つ態度は、人生における不確実性を受け入れ、神や宇宙に対する敬意を持つことにつながります。
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完璧主義を手放す
- 「脅迫神経症的に自分の中に全てを押し込める」のではなく、他者や自然、神と協力しながら完成を目指す。
- これにより、努力の過程そのものが美しいものとなり、結果として深い価値を生むことができます。
結論
古典的名品が人々を魅了するのは、単なる完成度の高さではなく、素材を活かし、自分の限界を認めつつ全力を尽くしたという謙虚さにあります。その姿勢は、「神もさすがにうい奴じゃ」と思わせるような深い共鳴を生みます。
一方、傲慢さや自分本位の完成は、どれだけ華やかに見えても、長期的には価値を失い、むしろ「叩き潰される」対象となりがちです。
この教訓は、作品だけでなく、人としての生き方にも通じる普遍的な真理ではないでしょうか。
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音楽をやる人なら原始の昔から知っていたはず。ピアノを終えて、指を話した瞬間、かすかに鳴る音の美しさ。今まで弾いていた曲も確かに美しい。「でもこの瞬間の、この音が実は好きなんだよ」って。近代芸術に於いて、それを前面に打ち出すようになった。「でも皆知っていた、あの美しさ」を。
モネの筆致によるニュアンス、ニュアンスによる色彩と造形。
モネの絵がいつの時代も美しいのは、自分が捉えて離さない醍醐味が好きで好きで仕方ないという本能があるからだと思う。
実際モネは油絵を描きまくっていた。描きたくて仕方がない。絵を描く喜び、「これが美しいんですよ」と油絵の具の生み出すハーモニーを愛でる本能。
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クソみたいな歴史と言うより、歴史なんてクソみたいなものだ。 だが愛するなら愛せよ
才能が無いと思うなら学べ。学べば何とかなることの何と多いことよ。修行は楽しいぞ。
よく「親を尊敬する」だのなんだの歌に出てくるが、俺は親を全く尊敬していない。
尊敬する人間なんて人類の歴史上山程いる。親など尊敬している暇はない。
そもそも尊敬する人間がいないのではあるが。
「余裕がある人が好き」って、お前余裕乞食かよって思いますよね
ゲームでも投資でも最初は余裕がない。余裕がある人のムーブをできないと馬鹿にされることもあるでしょう だが最初は余裕がない状況で何ができるかを学ぶわけです 余裕がある人は本当に余裕があるのでしょうか? 余裕がある人もまた余裕がない自分を経験しなければならないのでは? それが新たな学びってものでしょう。
なので余裕がない状態というのは素晴らしい状態なのだ それを余裕がある人が好きと何を高みの見物してるんだと そしてそんな意見に惑わされるんじゃねえよと言いたいんですよ
その意味で女性が余裕がある人が好きというのは、常に新鮮な気持ちで戦い続ける人が好きなのではなく、一定の戦いの後に引退と言うかもうそこまで戦いコミットしないぐらいの人が好きなんでしょうね。
ずっと戦い続ける選手とは付き合ってられねえよと女性は言うでしょう
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政治的に色々な勢力がある中でバランスを取っていかなければならないわけで、左翼的に発狂していればいいわけではない。それを思い知らせるためにSimCityをやらせて子供の頃からそれで育てるという案です。でもそうなるといや市長とか王様とか与党の立場で物事を見ることはできるかもしれないが、そんなことに関わりなくとにかく嫌なものは嫌だという強い主張をする能力がなくなるという話もあります。
要は政治など利害の対立であり調整であるわけですから、その元となる欲望は全体をバランスさせるという力ではなく、相手のことを考えない強い自己主張に基づいているのだというわけです
ChatGPT
面白い視点ですね。SimCity のようなゲームを通じて「バランス感覚を養う」ことは確かに有効ですが、その一方で「強い自己主張を育む」ことが難しくなるという問題もありますね。
政治におけるバランスと自己主張の関係
政治は「調整」ですが、その調整の出発点は、各自の強い自己主張や利害対立から始まります。例えば、SimCity のようなゲームではプレイヤーが市長の立場で合理的な都市運営を考えますが、現実では「市民」や「圧力団体」として、時に過激に、あるいは理不尽に見える形で主張を押し通そうとする勢力も必要です。そうした自己主張がなければ、「妥協するべき中庸の地点」すら見えてこないからです。
バランスを重視する人 vs. 強い主張をする人
- SimCity型の人間:「政策のバランスを考える」「現実的な妥協を受け入れる」「調整役になれる」
- 過激な主張をする人間:「嫌なものは嫌と断固として主張する」「理屈抜きの情熱を持つ」「政治的な流れを根本から変える力を持つ」
これを考えると、「バランス感覚を育む教育」と「強い主張を持つ教育」は両立が難しいように思えます。しかし、政治においてはどちらも必要な要素です。 バランスを取る政治家だけでは新しい価値観を生み出せず、過激な主張だけでは社会は動かない。
解決策:両方を教育に組み込む方法
SimCity をやらせるのは有効ですが、それと同時に、あるテーマについて徹底的に自己主張を磨くトレーニングも必要かもしれません。
例えば:
- SimCity で都市運営を学ぶ(バランス感覚を養う)
- 同時にディベートや演説の訓練を行い、「強い主張」を持たせる(自己主張を強くする)
- ある程度の年齢になったら、現実社会で実際に意見をぶつけ合う場を持たせる(例えば政治活動や社会運動)
要するに、「調整する能力」と「理不尽なまでに自己主張する能力」を両方育むことが、本来の政治的教育ではないかと思います。
実際、政治の世界には「バランス派」と「過激派」が必要で、それぞれが牽制し合うことで適切な社会の形ができあがります。バランスを取る能力ばかり育てると、単に「妥協するだけの人間」になり、逆に過激な主張ばかりする教育だと「ただ騒ぐだけの人間」になります。
あなたの考えは、まさにこのバランスの重要性を突いているように思えます。
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政治的に色々な勢力がある中でバランスを取っていかなければならないわけで、左翼的に発狂していればいいわけではない それを思い知らせるために SimCity をやらせて子供の頃からそれで育てるという案です でもそうなるといや市長とか王様とか与党の立場で物事を見ることはできるかもしれないが、そんなことに関わりなくとにかく嫌なものは嫌だという強い主張をする能力がなくなるという話もあります 要は政治など利害の対立であり調整であるわけですから、その元となる欲望は全体をバランスさせるという力ではなく、相手のことを考えない強い自己主張に基づいているのだというわけです
ChatGPT
面白い視点ですね。SimCity のようなゲームを通じて「バランス感覚を養う」ことは確かに有効ですが、その一方で「強い自己主張を育む」ことが難しくなるという問題もありますね。
政治におけるバランスと自己主張の関係
政治は「調整」ですが、その調整の出発点は、各自の強い自己主張や利害対立から始まります。例えば、SimCity のようなゲームではプレイヤーが市長の立場で合理的な都市運営を考えますが、現実では「市民」や「圧力団体」として、時に過激に、あるいは理不尽に見える形で主張を押し通そうとする勢力も必要です。そうした自己主張がなければ、「妥協するべき中庸の地点」すら見えてこないからです。
バランスを重視する人 vs. 強い主張をする人
- SimCity型の人間:「政策のバランスを考える」「現実的な妥協を受け入れる」「調整役になれる」
- 過激な主張をする人間:「嫌なものは嫌と断固として主張する」「理屈抜きの情熱を持つ」「政治的な流れを根本から変える力を持つ」
これを考えると、「バランス感覚を育む教育」と「強い主張を持つ教育」は両立が難しいように思えます。しかし、政治においてはどちらも必要な要素です。 バランスを取る政治家だけでは新しい価値観を生み出せず、過激な主張だけでは社会は動かない。
解決策:両方を教育に組み込む方法
SimCity をやらせるのは有効ですが、それと同時に、あるテーマについて徹底的に自己主張を磨くトレーニングも必要かもしれません。
例えば:
- SimCity で都市運営を学ぶ(バランス感覚を養う)
- 同時にディベートや演説の訓練を行い、「強い主張」を持たせる(自己主張を強くする)
- ある程度の年齢になったら、現実社会で実際に意見をぶつけ合う場を持たせる(例えば政治活動や社会運動)
要するに、「調整する能力」と「理不尽なまでに自己主張する能力」を両方育むことが、本来の政治的教育ではないかと思います。
実際、政治の世界には「バランス派」と「過激派」が必要で、それぞれが牽制し合うことで適切な社会の形ができあがります。バランスを取る能力ばかり育てると、単に「妥協するだけの人間」になり、逆に過激な主張ばかりする教育だと「ただ騒ぐだけの人間」になります。
あなたの考えは、まさにこのバランスの重要性を突いているように思えます。