「生活主義、24時間主義、日本主義、マンガ絵」などの合わなさ | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

そもそも言葉とは抽出されて存在に至る。花という言葉が現実に存在しているわけではなく、あるのは人間が「花」として認識する物質である。
一度言葉が出来ると、五感的に蝕知するだけではなく、その言葉に応じた認識が出来上がる。生の現実と言うより、言語的概念を操作するようになる。
この流れで「言語=生の現実(っぽいもの)」だったのが「言語=マンガ絵・記号」的なものに変わっていく。一方でこれを元に戻そうとする動きも生まれる。さらに元に戻そうとするどころか「言葉=非現実、創作」的なものにまで至る。「ペガサス」などの神話もそうして生まれる。
あるいは言語以前に人間の脳には「ペガサス」的なものを創作する力があり、その力が言語を引き寄せたのかも知れないけれど。

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解剖学者の三木成夫が「内臓系最強が心臓であり、体壁系最強が脳である」と言っているが、男女差の象徴としては先ず性器が大きかろう。私はそれに加えて「脳梁の太さ」に目を付けている。男女で脳梁の太さに違いがあるか、それが本当に科学的事実かは分からないが、そう仮定することで思い当たる節が多々あるのだ。

脳梁が右脳と左脳を結ぶ橋だとして、女はその橋が広い。イメージや感覚を担当する右脳、論理や言語を担当する左脳(色々と一概に言えないのは分かる)。脳梁が太いと「この橋渡れ」とばかりに、感覚を言語化する割合や勢いが凄いのではないか?日本は女性的であり、漫画がお家芸なのも、それであろう。

橋が狭ければ=脳梁が細ければどうか。「どうせ渋滞になるから止めておこう」と、所与の感覚が右脳に揺蕩うままに置かれる割合が大きくなる。男は女に比べて「あまり言語化しない」のである。感覚のまま放置しておく。

そもそも言葉とは抽出されて存在に至る。花という言葉が現実に存在しているわけではなく、あるのは人間が「花」として認識する物質である。一度言葉が出来ると、五感的に蝕知するだけではなく、その言葉に応じた認識が出来上がる。生の現実と言うより、言語的概念を操作するようになる。この流れで「言語=生の現実(っぽいもの)」だったのが「言語=マンガ絵・記号」的なものに変わっていく。一方でこれを元に戻そうとする動きも生まれる。さらに元に戻そうとするどころか「言葉=非現実、創作」的なものにまで至る。「ペガサス」などの神話もそうして生まれる。

PCでも映像や音楽のファイルは重いが、文字は軽い。女は男より多数の品数を認識する傾向があると言う。品数多く、一つ一つが重いと、やってられなくなる。だからパンパン文字化するために、脳梁が太くなったのではないか?(卵が先か何が先か知らぬけれど)

「生々しく得体の知れない現実的オブジェクト」では重過ぎる。「左脳化され無毒化されたマンガ絵」を好む。品数を増やしても処理速度が落ちない。女の連想能力の広さや素早さ、マルチタスクをこなせる力も、脳梁の太さを元にしているのではないか。

現代ホスト界の帝王たるローランドも「言葉の持つ力」を言っている。「女は感覚的、感情的生き物だ」と言うし、それはそれで事実でもあろうが、実は女は言葉に左右される割合が大きい。「行動や態度」とすら言っていないことにご注目いただきたい。「言葉」なのだ。

男は自らの性欲を元に、色気などハニートラップでよく騙されるが、女は言葉で騙される。ホストも言葉を大事にする。態度や行動を見ていれば、ホストのやっていることなど、酒を飲ませて女に大金を払わせるろくでなしである(?)。

感情的生き物と言うと「右脳が活発で、感性豊かで」と思いがちだが、女は左脳の方が活発で、実はガリ勉が陥りがちな錯覚や病に陥りやすい。「生の現実を観察し、フィードバックが強力」なのではなく、「机上の空論、脳内妄想、固定的定義でクルクルしている」傾向が強いはずだ。

卵子はどんな精子も受け入れ得るが、一度受精すると、その精子だけを元にして展開する。一度言語化されると、その定義をなかなか変えないことに似ている。帰納に乗り気で無い。頑固なのである。カオスからコスモスになり、一度花が咲くと、閉じる傾向が強過ぎる。途中でやっぱ他行くと言う卵子は無い。

日本に色々な「文化」が残っているのもその為である。「古典」的に統合される傾向は弱く、それはそれとして、卵子が閉じるように、そのものとして続く。 神仏習合と言っても合体して原型が無くなるのではなく、それぞれ元は元として続きながら、影響を与え合う。

 

女は脳梁が太い。男は脳梁が細い。

女は感覚を言語化しやすい。逆に「言語化してしまう」とも言え、女の芸術は「漫画絵っぽい、スーパーのチラシっぽい」とも言える。

男は感覚を右脳に置いたままにする度合が強いが、それを取り出す訓練をしておかないと、感覚を置き忘れてしまう。

女の場合「感覚と言う微妙さの塊を、言語化して切り落としてしまう。素材は多くても、一つ一つの扱いが雑」

男の場合「感覚を右脳に置いたまま忘れてしまう。一部だけを言語化し合理化してしまう。言語化する素材が少ない」

日本人の左脳傾向=女脳傾向を言った人がいたが、その人が「日本人は外国語とクラシック音楽をやると良い」と言っていたが、それを思い出す。
私は「男は油絵と料理とサバイバルをやると五感が研ぎ澄まされた挙句、それを言語化もしないとダメな状況に追い込まれる」と言う。

女の場合「油絵と料理を、漫画絵と家庭料理で済ませてしまう」傾向が強いので、どうすれば良いか。濃厚な〇〇Xか。分からぬ。しかもそれだと相手がいないと出来ない。


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「バランスを取るにもマンガ絵か油絵か」
絵描き的キチガイ状態から平静を保つにも「マンガ絵化」するか「エイム化」するかという道があって、私は後者である。FPSである。
マンガ絵のメリットは「品数の確保」だろうか。多数のレトルト食品が並んでいる状態。
「エイム=FPS=ボヤキュッキュ」は「視力が悪い状態で大体を眺め、気になる所だけ眼鏡をかける」ことに似ている。顕微鏡で悉く眺めていたら疲れるが、必要(と判断されたもの)以外をボヤボヤ状態でスルーすることで、無駄な認識エネルギーをカットできる。
マンガ絵は品数を確保できるが「輪郭線で書いている」のと「ボヤボヤが無い」ので、帰納する力が弱い(=周囲にモヤモヤが無いので一度輪郭線が決まると固定してしまう傾向が強い)。俺はそれをとても嫌う。
では油絵を描いている西洋がそれ程柔軟な頭をしているかと言うと「その画面に無い物≒この世界には夥しい品数がある」への配慮が常日頃から低くなるため、それはそれで頑固になる。それは「望遠レンズでボヤケを入れた写真を撮っても、その一枚の完成度が高過ぎて、その画面外への広がりを感じられない」ことに似ている。
そこはそれぞれ、短所をカバーするなり突っ切るなりしてください。俺はとにかく「Xの固定化」への嫌悪が強過ぎる。
俺のカット能力はFPSで得られた面も非常に大きい。画面外への配慮は「相対性大好き」で自然と補っているのかも知れない。なんだかんだで日本生まれの日本育ちで、子供の頃からマンガアニメゲーム漬けだし。


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日本の場合「言語化せず、姿形なりふりそのものを後世に伝える」と言われる。言語化できるものは一部分になろうから、全部を伝えると言う意味では効果的かも知れないが、全体的に劣化するのが、私からすると、嫌過ぎる。

「一部そのまま・深め」vs「劣化全体」だったら、両方を伝えておいて、「最高レベルの部分」に跪き、「他は参考にする」程度が良い。「劣化全体をお前も継承しろ」などと迷惑甚だしい。

時代状況や個人の持ち味も違うので、最高記録を提示しておいて「お前なりにそこに到達しなさい、越えなさい」と言うべきだ。

ただ「とにかく生活としてこういうことをやっていました。作品だけではなく、日々の生活なども重要だと思うので」と全体を伝えようとするのは有難い。

日本のHIPHOPなら、先ずZeebraが出てきたわけだが、「俺の全体を真似ろ。完コピしろ」とは言わない。後輩達は、要は勝手に影響を受けるわけだが、それで良いわけだ。ただ、Zeebraとしては「全体としてこういうことをやっていたし、こういう生活をしていたよ」と伝えておくと、後輩達も便利。

それにしても時代や個人の才能によって、どう生きるかは変わって来る。「1+1=2」や「栄養バランスに気を付けて」などは時空を超えた普遍性が高いが、それ以上は「そのまま継承しなさい」なんて無理があり過ぎますね。

「普遍性が高い要素だけで成り立っているもの(例えば受験勉強と受験生活)」は全体を真似てしまった方が強さが増すが、それにしても時代状況や個人の才能はある。

なので有職故実や伝統継承者など有難がるものではない。あくまで参考に過ぎない。参考としてはとても良い。生活全体のバランス、取り組み方などの参考になるし。

ただそれを時代状況や個人の才能を前提として、お前レベルに落とし込まなければならない。お前用にカスタマイズしなければならない。

「全部を真似ても、時代状況や個人の才能が違うので、ダメですよ=全体を参考にするのは良いがお前用にカスタマイズしろ」

「日本の継承の仕方=生活全体を真似ろは劣化版になっているので真に受ける必要は無い(漫画絵で多品目を並べているだけで一つ一つのレベルは高くない)」

と言うお話でした。

それに対して「文化などそんなものでしょう」という意見はある。文化とは芸術的最高記録を目指すものではなく、広くあまねく行き渡らせるものであり、冷凍食品の例えである。それは有難いです。銀閣寺流が日本人の住居の基本形になっている。

 

過去のマイナーな奴を穿り返し「ほら、こんな先輩もいるよ!」と言ったところで、「それは文化でも伝統でも無い」と言われてしまうわけで、ならば文化や伝統などクソ喰らえであります。

「文化や伝統を受け継ぐとは、メロディアスな行為であり、いきなり調が変わったり、バラードがいきなりヘビメタになったりはしない。先人の意志を汲み取り、なだらかに変化させるもの」という意見もある(⇔急激な変化でもどんな連なりでもメロディだが)。

だがそもそも人間の数も価値観も増えて、川の流れも多種多様で、それが交錯するのだから、もはやスクランブル交差点であり、結局カオスである。カオスのままでは心許ないから、整ったものを参考にして、自分を調整すれば良いが、自分の整いを他者に強制すべきではない。街はカオス、都市の自由。


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輪郭と言うのものは自分で設定するものであり、例えば「ナイフとフォーク」である。

東洋思想は「全ての存在は繋がっている」と主張するが、「与えられた輪郭に従順」という側面が強い。強過ぎるから、その薬として「繋がり」を言うのだろうが。

・「ボヤボヤ前提」からの「形の浮かび上がり」
・「線的輪郭前提」からの「繋がり」
油絵と漫画絵であり、paintとdrawである。

 

中華街に行って、いつも感じるのは歴史である。歴史と言うより「堆積、体積?」である。「色々な人がいたんだなあ」と中国の物量に圧倒され、恍惚となる。まあ、中華街で恍惚となっているわけでもないがw

日本は歴史と言っても「伝統的な日本料理屋の俎板がいつも綺麗なように出来立て」である。活花の打ち水のようだ。保田與重郎が「我が朝は常に新しき青春である」と言っていたが、初々しい。物事には何事にも両面があり、それが日本人の綺麗好きにもなるが、堆積・体積的豊かさが感じられない。神経質である。

枯山水は美しいが、文字通り枯れており、そこに物質的豊穣は無い。「イメージしなさい」と言うだろうか?イメージできりゃ良いけどねw 「まずそこにある物質を教師にしなさい。そしてその豊かさに埋もれなさい」と言った方が安パイ?

大河と清流の差を感じることは多々ある。それぞれそれだけではないけれど。

 

そもそも貴族や王族のイミテーションを広めて、現代生活がある。それは「漫画絵的な真似っ子」に過ぎないとも言える。24時間体制で完璧に真似られているなら、それはもはや貴族や王族である。

ところでそもそも「貴族や王族になれ」と言うのではなく、「週刊少年ジャンプになれ」というスローガンである。

そもそも「文化的に生きる」「日本の伝統を継承する」と言うが、文化的にも日本的にも生きていると思えませんから!!

 

ヒトラーが「フランスは国家の黒人化を行っている」と言っていたが、確かにそれはそうなのだ。遺伝子には「生物学的遺伝子」と「文化的遺伝子」があり、前者より後者を重視し、血統より理念で人を集めるならば、実力主義になり、血統は無視される。

そして俺はそれで良いと思っている。

フランス料理が世界に広まったのはフランス料理の内実に寄る面もあるが、それだけではない。フランスの文化的特質も本質的に関係している。「誰でも参加可能」なら当然誰でも参加できる。継承者が決められ、昔の人と同じことをしなさいだと広がらない。

三島由紀夫が「古典主義はフランスの特権」と言っていたが、それを踏まえると含蓄が増す。「NYには自由の女神があり、フランス的旗を掲げて、人種の坩堝である」こともだ。古典とは「WHAT」を問うものであり、文化とは「WHOとHOW」を問うものであろうか。

第二次世界大戦とは「文明vs文化」の戦いであり、「理念vs血統」の戦いであり、「何を?vs誰が?」の戦いでもある。男なら前者を支持しないものがあろうか?

 

「シニフィアン・シニフィエの関係は無限」

犬の定義に対して「だったら脚が3本だったら?顔が無かったら?」「犬と猫を合体させたものが犬だと本気で信じている奴がいるとしたら?」と詰めたら、究極的には犬の定義は不定になるが、不定が答えなので、別に構わない。

ところでそれでは「ゲームは作れない」。と言うのはゲームに出てくる犬を「どんな犬に設定するかが問題」なのであって、究極的にはエックスなのは分かったけど「じゃあ、このゲームではどうすんの?」と。キャラ設定、世界観の設定が上手いのが欧州大陸的才能であり、欧州大陸の神髄はやはり音楽にある

非現実を現実レベルのリアルさで顕現させる力。

西洋文明が繰り出すものって大体そうだね。リアルリアルうるさいが、あれはまさに創造力も想像力も貧困なのである。

ところで妄想のくせにグロテスクなまでに生々しく想像できるものと言えば、男からすると女体とS〇〇である。

西洋文明は男性的原理が基になっており、芸術の対象として女が描かれるのも、そういうことである。美輪明宏が「私がモテるのは男が妄想する女を演じているから」と言っているが、そう言うことだ。「そんなのは想像上の生き物なの。グリフォンと同じ」なのではあるが。

「生々しき妄想」

永井荷風も三島由紀夫も福田恆存も「日本人は淡白で想像力に乏しい」「妄想によって歴史を動かしたことのない民族なのです」と言っていたが、そう言うことである。

「妄想に生々しさがある」のが西洋の特徴。

 

ところで私はマナーとか常識とかが大嫌いである。付き合っても良い場合もあるが、基本的に付き合ってられない。24時間束縛されているようで嫌なのである。

カルチャーは農業で「自然環境=自分より上にある、特定の価値や影響をもたらすもの」に24時間拘束されている。

文明とはシヴィリゼイションで、都会には色々なものがあるので、特定の価値だけに24時間拘束されることがない。自分より上にあるものと言えば「不特定のエックス」である。

それでは耐えられない場合は都会で「神なき個人主義」を貫くことになるが、それではひ弱過ぎる。

 

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古典の欠点は「目的に向けて皆で磨き抜き過ぎる」のでMMA的に「結局似て来る」と言う意見もある。実際にMMAは蟷螂拳でも弓道でもない。遊んだ動きは瞬殺される。

だがMMAがあるからと言って、蟷螂拳や弓道もあるのであって、昔よりそちらも盛んなのでは?

世界の人口が多く、興味も人それぞれで、アクセス環境も良いからだ。そりゃ滅びるものもあるだろうが、それは昔からそうだ。逆に現代の方が滅びにくい。

しかもMMAと言う可能な限りルールを少なくしたものを見ると、人は興奮する。「一番強い奴は誰だ?」と言う本能をくすぐるからだ。一旦そのくすぐりを受けると、格闘技全般に興味を持つ人も増える。結果的に蟷螂拳や弓道にも人が流れる?

 

実際にネットの時代になって、全国各地・世界各地の小規模生産者の品質良きものが世界の裏側にまで知られるようになった。個人の好みで直接選べるから最高である。クソみてえな審査員の選抜を受けずに済むことがどれだけ有難いか。選んで紹介したい奴はそれを前提にやれば良く、実際に「DJ」は多い。

 

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私は有職故実が「あんまり」である。「東常縁の古今伝授」よろしく、大したことない伝統を折り紙重箱に収めて有難がるのである。「古今伝授」など本居宣長の批判するところであり、福田恆存も「抽象的思考能力が無いことの表れ」と言っている。

有職故実さえ「あんまり」であるのは「日本人は言挙げを避け、型そのものを継承させる」と言うが、その型自体が「言挙げ的=言語的=非右脳的」なのだ。言葉で伝授するのでなく、動きで伝授するにしても、その動き自体が既に形骸化している。「~~流」などを見れば明らかだ。

「天才の動き+科学的分析」を後続が参考にするなら良いが、「天才の動きを見た凡人が天才の動きを形骸化させたもの」を継承しても、右肩下がりになるだけであり、あまつさえ「形骸を有難がれ」と来たら、才能ある後続は「先輩ぶっ〇す!」となって当然だろう。

 

日本の場合「道になる」と言われる。「基本を伝えて、お前なりの個性を伸ばせ、最高記録を更新しろ」ではなく、あたかも「俺の24時間を完コピしろ」と言っているように聞こえる。(cf俺がよく貶すお土産物の伝統工芸)

確かに24時間を参考にすることで得るものも多いだろうが、劣化コピーの繰り返しになってしまうのは、同じ物を学んでも十人十色になるからで、十人十色なのは遺伝子が違うし、環境全体を真似ることは出来ないからだろう。

日本の「~~流」というのは、もはや「作品としての良さを放棄している」かに見える。ただあれも文化維持の仕組で、24時間365日をテキストにしてもらう方が後世の人の参考になると言う面はある。

「データで残せば良いじゃん」と。

ただ例えば「華道家が24時間365日を、この現実でどう生きるか」ということを残したいと言う文化意志の表れかもしれないと私は予想している。日本人は「作品」より「生活」が好きなので。

「それだけ・データ・作品」より「全体・現実・生活」を伝えたいと言う文化意志かも知れぬ。作品のレベルを上げるには「24時間365日の生活全体」も参考になるが、あくまでそれも含めて「一時的なテキスト」なのであって、自分の個性に密着させたものにしないと、作品レベルは更新されない。

さらに「24時間の生活」を伝えると言っても、日本の有職故実を見れば分かるように、劣化全体に過ぎないので、本当にデータ程度にしておかねえと汚染される恐れの方が高い。遠巻きに「昔の人達は大体こんな暮らしをしていたのだな」と眺めるくらいが良い。
日本の伝統には古典的レベルの高さは無い。

昔、東大の教授は端的に「日本には古典が無いのではないか」と言っていた。「古典とは何か」もその時言っていた。俺も付け足して書いたので、もうここには書かぬが、なんだったら「有職故実の本願は突き抜けを許さぬ(作品だけで後はダルダル)女性的文化意志」の表れなのかも知れない。

徳川家康は素材の良さを意識的に切り落としている。男が育たぬように。良い素材はドラッグ的に社会なんてどうでも良いと思わせる怪しい魔力を持っている(cf≠宮大工の西岡常一)。そんなものに触れたが最後、現実なんてどうでも良いと好き放題に暴れる奴が増えてしまう。詩人追放論みたいなものである。

徳川家康のやったことがそれ以前の日本史に無いわけもなく、その元祖が有職故実とも言えそうだ。高レベルに行くための参考として「低レベル全体を用意しました。ご自由にお使いください」ではなく、「低レベル全体を完コピさせること自体」が狙いなのだ。社会を安定させるために。女性的文化意志である。

 

肉食や飲酒の禁止と同じで、精力を付けさせたり酩酊させたりするようなものは全て排除すると。

良い素材や作品というのは魔性的な魅力があるので酒以上に危ない、それはドラッグである。

古典は鎬を削り合って生活を犠牲にしても良いワインを作ることを奨励する。

 

男は一点豪華主義で、

女は平均主義。過ぎたるは及ばざるが如しで行き過ぎもダメなのだ。

突出は社会を通り越えて、世界や宇宙に通じてしまう。それは剣だ、カオスを受信するアンテナだ。

女性的文化意志からすれば、そんなものは是非とも切り落とさねばならぬものなのだろう。

 

ウサインボルトが最高記録を更新するためにも24時間365日の生活は大切だが、それはあくまで最高記録を更新するためのものなのであって、24時間365日平穏無事に過ごすためではない。

 

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女は生き物が好きなので、死んだものに興味を示さない。

女は左脳が活発なので、伝統は形骸化する。

女は周りに合わせるので、遠いものに合わせない。

(組み合わせをズラしても良い)

三島由紀夫が「女の特徴は直接経験したもの以外信じないこと」と言っていたが、まさにそうなると100年前のものは「もう生きてはいない」ので、60年前程度が限界になる。それ以前のものは死んだものとして「物質化・文字化」している。

男の特徴は「遠い憧れ」で、「1000年前のテキストにも生命を吹き込む」。即ち「復活」である。西洋文明の特徴は「復活」にある。イエスキリストも復活した。一度なくなったものに命を吹き込む。生命体としてこの現実に蘇る。

 

日本は歴史伝統と言うより「向こう三軒両隣」的民族で、要は「世間様」である。想像力に肉感がなく「今ここに無いもの=感動を与えてくれないもの=忌まわしいもの=死者」という感覚が強くなる。

一方子宮主義で、有職故実的に、形骸化したものを身を挺して受け継ぐ変わり者が少しいる。

芸術を見れば明らかで、日本にクラシック音楽は無く(?)、伝統と言っている奴等も60年前程度が限度である。1世代30年だから「0歳、30歳、60歳」で丁度3世代だね。

「女の経験主義は、生の熱いチ〇〇で私の子〇を突いてくれた人は、存在として認める」が、それ以外は存在しないのだ。

と言うことで「生き物3世代主義+形骸化されたお土産物の伝統工芸」が日本の特徴というお話でした?

でもこれはかなり本気で言っており、伝統伝統言うなら、1000年前のものに現実的肉感を感じなきゃダメだろ?イマジネーションが淡白すぎるわw

「五感的触知を経由せず、頭で考えることに肉感を覚える(粘土を触っていないのに粘土的感触を覚える)」

「遠い憧れを実現したい」

「一点特化主義(24時間365日平均主義だと、どうしても形骸化する)」

これらが男の特徴だが、これらが無いと、どうしても向こう三軒両隣になると思うんだよな。

 

日本の強さ。 

完成度が高くその完成度に寄与するものを本来自由に連想できる(ガールズトーク的繋がり)

神代的感覚(マンガアニメなど例に事欠かない)

意味に囚われずモダン

ワビサビ

連綿

造形力(オノマトペ、マンガアニメ、運中供養菩薩)

天皇的な血統

受胎する(マニアック、オタク、その定義の組み合わせ徹底探求⇔定義替えに弱い)

「茶室のコギャル。掛け軸は宇宙で、そこから天の川が部屋に流れ込んでくる」

 

日本の弱さ

神経質、不安症臆病、フィードバック苦手、向こう三軒両隣、自閉症、鬱、

適所最適化で目的を忘れる、形而上的なものに肉感が湧かない、

キリスト教は神の国が本拠地(現実をゲーム的に眺められる)、

ユーモアセンスは非常に高いとも低いとも言える

細かい所に気付くからサムライもウォシュレットも生まれる

 

これを踏まえた上で、私がロシア好きなのは、

「倉庫がありゃ、後は俺がやります」と言う感覚が強いからだ。

ロシアって「捨てられない、ゴミカスチリ=雪のように全ては美しいからの逆上」⇒ネット

無論、参考になる人や物、授業は欲しいが、それはまさに「古典」だろう。

日本人は「反古典主義」で「所詮60年前まで感が強い」のと「フィードバックが弱い」のが嫌。

左脳が強過ぎて文字文字して輪郭がダセえ。

「向こう三軒両隣で数や技術を前提にif,then思考が出来ない=近代的でない」

即ち女っぽくて気持ち悪い。

 

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保守主義は「時間軸を大切にする」と言っても、「何をどう大切にするかに国柄が出る」と言うか。

日本の場合はいつも私が言っているように形骸化しやすいが、卵子主義で品目は確保される。神仏混交と言っても完全に混ざるわけでは無く(混ざりもするが)「漫画化・アニメ化・言語化・左脳化されたソレが林立している」ような状況になる。

福田恆存も「日本の歴史を見れば、能にしても歌舞伎にしても浮世絵にしても、結晶体のように各時代で完成されている」と言っている。もうアレンジしようがないのだ。もちろんそれらを学び、何をどう受け取ろうが各人の自由であるが、それ自体としてはもう完成されている。

そこから方法論を抽出して、色々なものに使えるかどうか。

短歌や俳句ならいける。西洋ならクラシックや料理は分かりやすい。

即ち伝統とか歴史と言った時、ヨーロッパのクラシック音楽的な伝統と違い、生々しくないのだ。

「お土産物の伝統工芸をなぞっているだけ」となる。

・「言霊の幸う国」で「漫画化・アニメ化・言語化・左脳化」されて伝統になる。

・文字化される≒容量を食わないが、妊婦的24時間365日主義なのでやっぱり身重になる。男のようにやる時だけやってさようならとはならない。

・子宮的受胎主義で、これはこれで正しい。ヒステリズム。八百万で目出度いが。

 

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冷凍で丸のまま保存。死んでるから生き返らせる必要がある。本当に死んでいるのかと言う問題

常温で加工して保存。生きているがテコでも動かない。本当に生きているのかと言う問題

 

マンガ絵的軽さにすることでアニメーションすることが出来る。油絵を動かすのは大変だし、理想的でもないだろう。

さらに品数も確保できる。王侯貴族でもないのに色々と美味しいものが食べられるのは、研究心だけでなく、マンガ絵的品数確保精神が基となっていることだろう。

「そのお陰でお前なんぞも色々食べられて有難いと思え」と言われれば、その通りなのだが、そっちに対する有難がりを、俺は本当に多く持っているのか甚だ疑問なのである。

本居宣長も言っているように「社会資本の安定は有難い」のだが、品数を多く求める方では無いからだ。間接的な好影響はあるだろうし、それこそ複雑怪奇な国際情勢で、でも悪影響や、やっぱり文化的傾向ってのもありますからね。

要は近代的大衆国家がもたらす好影響は、私からすると「社会資本の安定」と「そこそこの平等」で、後は「引き籠っていたい⇔色々動かなくて良い」と言う感じなのだ。「これだけ品数を用意してやって、多品目を楽しめて有難いと思え」と言われても、「そこは直接的な感謝とは違うんですよね」となる。

 

「日本は死者と生者を峻別する。その割にはお前は死臭がする」と言う意見。陰陽師。日本にも生死のはざまを生きて来た人達がいるのですよ。死の香りを芬々と香らせるような。

でも伝統と言っておきながら、その辺本当に60年主義であるところに日本の安っぽさが見て取れますな。

 

女は大人っぽいが、男の大人っぽさとは
善悪の相対性
空間的には「今この瞬間に色々な価値観を持った人がいる」です。
時間的には「善と思ったことが悪に転換していく(または逆)」です。
即ち「情報と交通が圧倒的になった」ため、「多様性が突き付けられてしまう」。
それは「数」です。
「フィードバック能力の違い」です。
女は子宮主義で、一度受精したら、その精子を徹底的に展開することに命を懸ける。「途中で他の精子にします」と言う卵子は無い。
男の場合、色々なものからフィードバックを受けて、軌道修正する。それが浮薄にもなり、柔軟な姿勢にもなる。

 

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日本と言うとワビサビを思う人も多いが、神話もドラゴンボールも日本であり、戦国時代もそうである。そしてそこには日本がある。「金バック=中国」くらいの認識しかない外国人もいるが、全然違うw 人間一人一人の顔つきを見て、日中韓の区別をつけることは日中韓人にとっても難しいが。

現実を飛び越えた動きとかドラゴンボールとか、ああいうのって中国には無いしな。中国も韓国も、日本と違って、人間と他の存在が同レベルで「意匠化」されているわけでもない。

言語には概念的な側面とイメージ的な側面があり、前者は極端に言うと数学である。後者はボヤっとしたイメージで良い。さらに日本文化は「本質=それが無いとそれで無くなるもの」以外の要素を削ぎ落す傾向があるから、渋好みには評判がいい。

ところが日本のイメージの連想は縦横無尽である。どこの国でも「ガールズトークは話が飛ぶ」と言われる。しかも日本人は色々なものを造形化する力も強い。要は渋好みからすれば「話は飛ぶは、変な形が出て来るわ」で耐えられないのだ。 さらに、ここに「油絵的輪郭線の無さ」を加えるともう大変だ。

話が飛ぶ(ガールズトーク)

変な形(運中供養菩薩、オノマトペ、深海生物)

輪郭線が無い(油絵)

もうここで渋好みは拒絶反応も良いところである。

さらに「シニフィアンシニフィエの無限」 原始人100人に聞きました。「花を何と呼ぶ」 粘土をどこで切ってどう名付ける?

【話が飛ぶ、変な形、輪郭線が無い、シニフィアンシニフィエが無限】

孔子の正言の真逆(?)であり、苦手な人は極めて苦手だろう。だがイメージ、イマジネーションと言うのはそのくらい不定形で流動的である。

「日本好きだがワビサビだけの渋好み」と言う人はそっち系を根源的に嫌う。

「話が飛ぶ、変な形、輪郭線が無い、シニフィアンシニフィエが無限」なんて「非現実的だ」と言うだろうか?ところがイメージなんてそんなもんだろう?そうだろ?

そして人間にはイマジネーションがあるのだ。嫌だろうか?仕方ないね。それを嫌がるなら人間の脳にメスを入れるしかない。

 

ちなみに日本は女だから、「話が飛ぶと変な形」は常とするが、「輪郭線が無いとシニフィアンシニフィエ無限」は受け入れがたい。逆に前者を縦横無尽に炸裂させるために、後者を拒絶する本能があるとも見える。

日本語や英語など島国言語の強い傾向は「レディメイド・シニフィアンシニフィエの画一性」である。例えば抽象画が無い。チェスタトンも「花を描くなら花を描くべきである」と意味不明(?)なことを言っていた。

仏教でも「原理も輪郭も名付けも受け取りも」決まっていないとよく言うだろ?

ちなみに仏教徒がそのことを鬼の首を取ったように言うのは「島国的・女性的な一度受胎したらテコでも動かない性質」があるからだと思う。それは仏教徒が馬鹿にする「西洋の画一性」と、俺からすれば似ている。 どちらも世界が「カオス=原理も輪郭も名付けも受け取りも無限」であることを忘れがちなのである。

私から言わせれば、「仏教=東洋に広まった」は空を説くが、「あんまり空っぽくない」のである。いや「空を常に意識しよう」と言う姿勢は強く感じる。だが元が「空でない=ヒステリー=定義が画一的」だからこそ、逆に「そこ強く意識して少しは楽になろうぜ!」と言う塩梅である。

仏教と言うのは「我に執着する人への処方箋」と宮崎哲弥氏も以前に言っていたような(勘違いなら申し訳ないが)。俺もそう思う。

それは「硬くなってしまった子宮へのマッサージ」のようなものだ。だが俺には元から子宮が無いのだ。男だからである。

 

仏教はナルシストへの処方箋

キリスト教はニヒリストへの処方箋

 

子宮型「時代の空気を総合的に吸って膨らむ」

陰茎型「ある観点から時代を越えて貫く」

子宮型は時代を越えないが丸のまま保存される。無論、丸のままと言っても言語化・左脳化はされる。「型の伝承」と言うが、それほど生ではない。

 

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結局「誰がどの程度威張るか」と言う問題なんですよ。

「グローバル個人主義を推し進めると、国柄が変わるから怖い」と言う意見も、それです。

伝統を言う奴等が常に疑わしいのは、伝統じゃねえんだからw 「100年前の手紙にも共感できぬ民族になってしまった」と保田與重郎も嘆いていた。

それにしても伝統や古典を大切にしてきたのは、カトリックである。「外から来る」人達は平等に全部見るからね。

「常識に埋もれて、自覚的に過去を学ばない、周りに合わせることこそ国柄を維持することなのだ」と言う意見もあるが、クソだろ。それは古典主義でも、伝統主義でもなかろう。

 

「全ての物を軽くするメリットとはインストールして、身籠りながら実践することにあるのでは?」と思いたくもなる。

「マンガ絵と油絵」の関係から「日本とロシア」の関係に思いを馳せる。

日本の場合、有職故実的に24時間365日の生活的実践をするために文字化マンガ絵化して一つ一つの容量を軽くする。

ロシアの場合、倉庫主義で何でもかんでも丸のまま倉庫に放り込む。放り込んで使いたい時に引き摺り出す。Googleなどネットがそうだ。

俺の場合、「マンガ絵24時間主義」ではなく、「やる時だけやる原始人」なんだよね。こち亀の両津勘吉が理想人間像だからなw

 

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「ロシア大陸・朝鮮半島・日本列島」とあって、「生」の扱い方についてである。日本と韓国の比較で、日本の場合「素っぽく見えても加工されまくっている」という話は多く、私もそう思うことが多い。「万物が意匠化されている」というか全てがフラットな地平に並んでいる。

 

仏画などが象徴的で、高麗仏画に描かれている仏様は人である。植物や周りの装飾と調和しながらも、日本の仏画のように「人まで意匠化されている」というニュアンスではない。

一方でこの世には「XをXのまま置いておく優しさ=決め付けない=近代画家の始祖であるレンブラントの絵は闇に埋もれている(福田恆存)」という傾向もある。

 

別に「意匠化=決め付け」というわけでもなく、それは作品に寄るし、「色や形や間などが色々思わせてくれる」し、「全ての言葉は花鳥風月であるから、どんなものもフワッとさせてくれる」のではあるが、それにしても、まあ、ただ、少なくとも日本の場合は「浮世絵、マンガ絵、絵は右脳で描こう的なガン見ではなくレディメイドのレイアウト傾向は強い」わけで、日本のものは感覚的ニュアンスを切り捨てて、「言葉・概念・マンガ絵」になっているものが多い。

 

「低容量・多品目」を扱うには都合が良いわけだが(動画より文字の方が超低容量)、どうにも「文字ばっか」見せつけられているようで、元気がなくなる。

 

ところで恋愛に於いても「男は一点豪華主義、女は平均主義」と言われ、女はチェックポイントが多過ぎて、活力を奪う。

「そんなことどうでも良い」ってやつで、女と付き合うことは「どうでも良いことに囚われよ!」と説教されているかのようだ。

 

ロシアの場合「捨てられない文化、倉庫好き」と聞く。

寒いから冷凍保存だ。

日本の場合レトルトにする。

チンすれば良いから便利に色々楽しめて非常に有難いが、全てがレトルトだと気が滅入って来る。実際に日本はレトルト天国であり、保存料天国であり、鬱病が多い。

冷凍保存は冷凍とは言え天然であり、そこから料理するのが面倒だが、まあ、上手く料理できればやっぱり素晴らしいし、ネットで素材を漁って、自分なりに調理すれば、「俺のスペシャリテ」になるわけで、そんなん素敵やん。

 

日本が保存料天国なのも、「日本人の生好きと言いながら、実は生でなく加工されているものが基本」と符合している。生卵とかも薬漬けでヤバいらしいじゃん。一方で生魚を食べるために交通網が整備された。日本の社会資本が安定的なのは日本人が刺身好きなためです?それは有難いこと。

 

ちなみに中国とロシアで言うと、中国人は現実的物質的で、ロシアは可能性的精神的で、中国人にSFチックなことを言うと激怒してくることも多い。ありゃやっぱり東洋なんだね。でもSFが現実的になった現代では、中国人もSFチックに現実を生き始めた。SFも現実だと中国大陸の腑に落ちたのだろう。

 

ロシア人は%お構いなしで可能性をフラットに並べて来るために陰謀論好きで共産主義になりました。ただ現代は「数や技術や可能性で誰が何を仕出かすか分からない」時代で、やっぱりロシアの影響力は多大である。実際にロシアの言う通り、「万物は雪の欠片」でしかないのだろう。

 

「マンガ絵・油絵」

「レトルト・冷凍」

「ナマって言うけど、どんなナマ?」

「SFも現実に」

「%はフラットに」

 

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日本は言語優位、左脳優位、「日本主義=60歳30歳0歳の子宮的団子三兄弟+形骸化した伝統」の世界で、

対して、感覚優位、右脳優位、通時的クラウド主義(ルネサンス、西洋音楽、数学、などが良い例だ)

 

時代を超越したクラウドを糧にして、自分を作り上げることがない。

そもそも過去のものを今生きているもののように扱う精神に欠ける。

伝統伝統言うが「有職故実、浮世絵も含めてマンガ絵的輪郭線として死物として保存されている」。

 

日本人を見ていると、ホシュだの何だの言っているが、「自分が子供の頃にインストールされた癖」を維持したい人達にしか見えない。それぞれの癖をホシュするために絶叫している。

自分の癖も含めて、全ての癖を相対化して眺める精神の作法に欠けている。それはインテリではない。日本に成熟したインテリはいない?これは昔から言われていることなんだけどね。

 

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女性は生物に惹かれる。

男は機械に惹かれる。

と言われるが、理想に関しては男も生きているものに惹かれるのではないかと俺は思っている。

生気の無い漫画絵では拍子抜けだ。ドラゴンボールはどうか?あれは生きているのだ W

 

機械に惹かれる男も、女に惹かれるわけで、その女と来たらやはり生き物で、2次元の女が好きでも、生き物のように扱っている。

 

ルネサンスも一度なくなったものを生き物として復活させている。そもそもロマネスクもゴシック建築も、宗教的理想をいわば強引に顕現させたわけである。

メイフラワー号に乗った人たちは、なんとアメリカを作ってしまった。

 

男にはどうやら「未来のイヴ=生きている過去=神の国=理想の女=決して存在しないもの」を実現したい欲求があるらしい。

 

妄想を形にして、そこに息を吹き込み、自律的に動く存在を作りたいのだ。

神様もそんな欲求から人間を生み出したのかもしれない。

 

ところで永井荷風は「日本人は妄想から歴史を突き動かしたことがない情けない民族なのです」と言っていた。

 

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お前がどんな奴か一瞬で理解したいから、

分かりやすいキャラを演じろ

ありがちな行動を取れ

皆と違うことするな

「型にハマっとけ」ってね。

「型にハマりたくない」と俺も含めて皆叫ぶが、意外に皆、型にハマって、その恩恵も受けている。

言葉なんて特にそうだし、信号も守る。

「いや、そこは十戒的なルールだから守って当然なんですが、それ以上に手取り足取り束縛してくるのが嫌なんですよ」と。

「私にも個性がありまして、そんなに型にハメられるのは苦しい思いんですよね」と。

私はそもそも「認識のコスパ問題」を言うなら、認識する側が基本ボケっとすることを要求する。

「誰が何を仕出かすか分からないことに慣れろ」と言うことだ。

テロなどは怖いので銃規制などには酷しい。これも十戒は徹底するが、他はダルダルと言う路線だ。

「軍隊とダルダル」の組み合わせで、中間が無い。それが良い。 日本人の漫画絵認識を改める必要がある。

油絵認識で、基本ボケッとできるようになれ。

 

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異質性前提でコミュニケーションしてきた歴史があるか。

近代になり他者性が突き付けられると異質性前提でどう話すか振る舞うかの蓄積された模範がないし、

日本人は臆病遺伝子があるので向こう三軒両隣りに縮こまってしまう。

 

「同質性前提だからそこまで言わんでも分かり合える」と言うが、同質性前提が崩れると、ただの「不愛想、ぶっきらぼう」になる。
異質性前提で積み上げられてきたコミュニケーションの歴史が無いんだよね。
Boys,be American!

 

マナーマナーうるせえ奴はコミュニケーションする機会を減らす。

どこにどんなマナーがあるか分からないからだ。

「そのマナーを学ぶまで俺と喋れないよ」などと言うつもりか?

何様か?

「万人に通用する十戒的マナーを徹底的に教え、それ以上を要求するのは無礼」と弁えることこそマナーだ。

そして私から言わせれば、マナーも言葉遣いも態度も動きも、「芸術的でなければ意味がない。受胎したくない」のだ。

 

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「型が多い」と、自分がどこかの型にハマると思いがちだが、お前はお前である。その型と自分が似ているからだ。

「型が少ない」と、仕方なく合わせる時手ち狭、結局「俺は俺だし」と忌憚なく思える。その型と自分が似ていないからだ。

日本は前者であり、ある程度納得のいくグループを形成するには便利だが、オーダーメイドからは遠ざかる。

「近似値集合文化」である。

「ジャストフィット文化」ではない。

「集合できれば集合知も糧にできる」と言うメリットはあるが、自分は成仏し切れない。

オーダーメイドを徹底的に意識しながら、集合知も活かせれば良い。それは不可能であろうか?そんなことは無いように思える。

 

「社会問題が多い外国に比べ、日本はまだ安定している」という論は、私は実際に国内国外の現実を知らないものの、「そうなのだろうな」とは思う。

だが「日本人が左脳優位で、型にハマりやすく、保存料天国であること」と「日本人に鬱病が多いこと」はどうにも関係がありそうで仕方がない。

 

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