自分の中には様々な要素があり、全てがこんがらがって、掛け替えのない人格になっている。自分[デブ、アホ、ダサ、臭い、アイドルが好き、鶏の照焼を作るのが上手、小学校の頃の思い出etc]と無限である。「おい、デブ」と言われて傷つくのは、人格として認められていない感じがするからでもあろう。
「私=デブ」ではないんだ。私は「無限の要素、機能、属性を抱えた掛け替えのない人格」で、デブなだけではない。「優しく育ててもらった可愛い我が子」でもある。それを「おい、デブ」とレッテルを貼られた日には「ただのデブ」になってしまうではないか。
逆に肯定的なレッテルを貼られた日には、他の全ても祝福されているかのようで、嬉しく思うかも知れない。何にせよ、あらゆる存在は神秘であり、神を畏敬するように、人も畏敬するべきですな。
民主主義と言っても、直接民主制・間接民主制、議会制民主主義など色々あり、司令官が鉄砲を撃てと言っているのに「次の日曜の投票で決めます」と言ったり言わなかったり、事前の合意とは言え基本的人権を踏み躙っているのではないかと言う話があったりなかったり。
民主主義と言っても、その形態は様々であり、その形態を統一しろと言ってみたり、別に様々でも良いよと言ってみたり、色々である。
ドラゴンテイル(ホーム、得意慣れ親しみ)「陶器の肌、陰影、レトロ調加工、感覚、感想の羅列、三島の仮面の告白、母性的包まれ、広隆寺半跏思惟像の反対側にあった仏像、俺が生来的にニュアンス芸術が得意であること、素材そのもの(あまり調理しない)」
ドラゴンヘッド(修行、理性)「日本画的大胆な構図、世界観、奥行き、三島の金閣寺、人間と言う複合存在、写真らしさ、現実存在、広隆寺半跏思惟像、九成宮醴泉銘、俺が占い師であり写真家であること、俺がリハビリとして写真を始めたこと、手を加えた素材(一見合わないような物でも調理の末に掛け替えのない一員となる⇒そうして世界を広げていく)」
※俺にとっての神学はその融合であるようにも思える。
※広隆寺半跏思惟像も融合的か。三木成夫の人間に於ける植物性の例えにも出てきた。
「魔法使い生まれ」だが「魔法戦士」を目指せる。
魔法アビリティは簡単に覚えられるが、戦士アビリティはコスパが非常に悪い。先ずは魔法使いである自分を固めるのが先決だろう。しかし自分の基盤が出来上がったら、戦士アビリティも覚えていく。
一人前の魔法使いなだけでも大したものだが、魔法レベルを落とさず戦士のアビリティも身に付ければ、行動範囲・仲間が激変する。自分の戦闘スタイルがスタイリッシュになっていく。
子供の頃から得意なものだけで自分を構成すると、どうしても世界が広がらない。傲慢にもなる。難しくても自分に必要なものはある。
私が写真を撮り始めたのは、リハビリのためで、何のリハビリかと言うと、現代嫌いである。街並が醜すぎるて外出できない。しかし「廃墟をモノクロで撮影しに行く」と思えば、何とか外出できるだろうと。
元来、陶器や油絵の肌は大好きで、ああ言ったモヤモヤしたニュアンスは得意だった。さらに気性の激しさ?からハイコントラストが好きだった。現代の街並が大嫌いなので、リアルに撮るより「ハイコントラストで陶器的な肌の平面的な画像」にしていた。
ただそうなると「これは現実世界で、写っている画面だけでなく、その周囲に世界が広がっている」と言った「いわゆる写真らしさ、リアルさ、奥行き、世界感覚」の無い写真ばかりになって行った。それでも自分の性格を抉り出す装置として、現実を受容するフィルターとして、考える切っ掛けとして、カメラは機能していた。ただそれだけではどうしても「写真らしい写真」にならなかった。「それが俺だった」のだが。 俺にとって、文学は「理想」を追求するが、どうしても「現実」を蔑ろにする傾向がある。(何が理想で何が現実かは置く)
人間は複合的な存在であり「理性・感情・感覚、体壁・内臓、天使・悪魔、理想・現実」などを「兼ね備えてしまっている」。それが人間の宿命で、神は人間をそのように作ったらしい。人間存在がそのようなものであるならば、人間に与えられた要素をフル活用しないと、一人前になれない気がする。
ここで言う一人前とは「元気に生きる」と言い換えて良い。写真は俺の得意も活かしつつ「学ぶべき、取り入れるべき、逃げざるべき≒活かさねばならぬもの」を突き付けて来る。当面はニュアンスとハイコントラストを出しつつも、「リアルで写真っぽさ」を出すようにすれば、何か得るものがあろう。
ちなみにこれは「現状肯定論」などではない。そもそも「現状、今ここ、社会、常識」などと言っても、無限の種類あるはずだ。日本の東京の現状も、北極のホッキョクグマの現状も、現状である。そして一人一人事情が違う。
それぞれ事情は違っても「今ここを寿げ」でもない。今ここを寿いでも良いが、それだけでは「今ここを否定して、未来を寿ぐ」ことが出来ない。現状に文句を言うこともまた人間に与えられた機能である。それも受け止め寿ぎたい。
そもそも何を肯定、何を否定とするかなど分からないもので、文句を言いながら深く愛し、賛美しながら心は空白など幾らでもあろう。
モテる女
3位 一途 (刺しても良いか)
2位 可愛い(刺してえ)
1位 スポンジ(もう刺さってる)
渡辺直美はモテるだろw 1位から3位総なめだからかw
結局アゲマンなんだよね。モテるのは。福の神は近くに置きたいからね。
動物は群れを生かすために生きる。その種を存続させることが最大の目的である。ところが人間は個人として神に向き合うために生きる。生きるためには群れが必要で、群れ=社会を大事にしなくてはならないが、社会の維持が「生きる目的」なのではない。
何を以て自然と言うか?マッチョは不自然か?古武術的動きは不自然か?平均を算出し、それ以外を不自然と言うなら、平均を超出しているマッチョも古武術も不自然と言える。必要最低限と言うなら、何が必要か無限の種類あるし、「自然」を定義したとして、不自然を「あるべきよう」とする考えもある。
西洋はギリシャ彫刻であり、東洋はヒョロガリかブヨブヨしている。ギリシャ彫刻を不自然とする向きもあるが、人気でもあり、世界の女に聞きました「クリスティアーノ・ロナウドと甲野善紀、抱かれたいのはどっち?」では前者が勝つだろう。
どうしょもねえ村社会に赴き、「おめえら俺に従わねえとぶっ〇すぞ」と信者を増やし、それを繰り返し、大宗教団体に成り上るマンガ、誰か描いて。
さて、その「ウンパイロウうどん」であるが、なんで思い付いたと思う?ウンパイロウの「ウ」と、うどんの「う」で、「う繋がり」だからだよ!人間の連想力舐めんな!
中国の醤油は「つける用、肉煮込み用、野菜煮込み用、魚煮込み用、炒める用etc」と多種多様であり、完成度からすると日本の醤油は天晴れと言う感じで、まるで刀の如しであり、「中国の醤油は見世物用の面白武器に過ぎない」と言う見方も出来るが、それぞれが刀レベルの完成度になった時どうする?
日本の場合、「それに対して漫画アニメゲームなどに出てくる武器があるじゃないか」とは言っておきたい。
ただ何にせよ、外国の文化を「日本化」する場合、ワビサビだけでは対処できない。バサラがワビサビかと言ったら、そういう部分もあるが、それだけではない。外国の文化を生々しく見る目も必要だし、それを消化昇華するための日本と言う方法も無限にあることを思い知るべきだ。
「日本美と言っても結果としてそう言われるだけであって、もっと無意識や全体的な感覚から出てくるものだと思うんです」
「そうですね。調整参考刺激、でもやっぱり学習修行でもありますよね」
偶然や無意識から出てきたものを自覚化してさらに深めていく。それを全体に馴染ませて、また偶然や無意識から出てきたものを、と繰り返す。 文化や伝統など偶然の誕生と自覚の繰り返しで成り立っているのかもしれない。
(「先人の手すさびを継承して文化にしてきた」保田與重郎)
俺からすると全世界が東洋に見え、「俺はこんなに西にいるのに、お前等と来たら、何故そんなに東にいるのか?」と言うことで、世界中の誰相手にも「俺は西洋人である」と言って憚らないが、それにしても森鴎外など明治以降の日本人は、今こそ参考になる。
PS 週刊少年ジャンプ
基本ボケーっとしてろ。それだと抜け目ない奴にやられる心配がある。なので「シャキッとしてしまう奴」を防衛軍に任命する?
南国で民のほとんどがトロピカルに生きている一方、そのトロピカリズムを守るために氷帝がいるみたいな塩梅?
ヘルシングのアンデルセンじゃないけれど、孤児院の優しい先生が夜な夜なヴァンパイア狩りみたいな感じ。
「勉強すんなと言っても勉強しちゃう奴、生まれながら頭脳明晰な奴」を官僚にするくらいで、他は適当である。勉強したければすれば良いが、頑張れ頑張れとは言わない。「無理すんな」とは言う。
しかもそのくらい緩い方が、天才が適度に分散して良い。官僚組織だけが天才を独占して良いものではない。
チャットGPTに、森鴎外が娘の森茉莉を育てる育児漫画の原作を書いてと言ったら、内容はどうでも良かったが、タイトルが素晴らしく、
【森の中の茉莉】
アイスランド人がいて、その友達に日系ブラジル人がいた。ブラジルは言った「俺は日本語なんて全然話せないんだけど心は日本人なんだよ」。アイスランド人は「君がそう思うならそうだよ」。
日本人か否かは先ず法的に決まるのだろう。しかしそこを飛び出た瞬間どうだろうか。
結局は各々の愛である。人を思い遣る人心(ひとごころ)である。福祉制度だの何だのの前に、これが絶対である。
「俺はイタリア人だ」と言ったらどうだろうか。たまにいるよねw 肯定してやりたい。イタリアが好きで「イタリア人だったら良いな」と言う思いがあるのならば。国籍的にも血統的にも縁もゆかりもないけれど、それを超越したい時があります。
「私の前世は~~」とか言う人もいるものな。それも「俺はイタリア人だ!」という雄叫びの一種よ。
その者にとって「イタリア人」がどういうものであるかは知らぬ。イタリア=エックス、イタリア国籍=エックス、イタリア血統=エックスで良い。とにかく「俺はイタリア人だ」と言っているのだから、それはそうなのだろう。その者がイタリアにどんな意味を込めようとお気に召すまま。
「私は西暦200年にフランス人だったの」と。「西暦200年にフランスはねえよ」と突っ込むか?そいつの言わんとすることを肯(うべな)えよ。
古典と言うのは昔から続いているので、勉強方法も色々あるし、先輩も多種多様で「なんで私が東大に!?」「ラーメン屋をやっていたらエジプトのファラオになってしまった激レアさん」的な奇人変人のオンパレードである。
しかもその上、素晴らしいのは、それだけの勉強方法や先輩が用意されていても、誰も古典と同レベルになった人などいない(?)のである。成功例が無い以上(?)「絶対にこうしろ」なんて誰にも言えない。当たり前に登れる山なら、一般的な登山ルートから外れた者を馬鹿にできるが、登頂者ゼロの山なら、変なルートを行っている者を見ても「なんだあれ?新ルートか!?もしやあそこで一旦川に流されることでパワーを得るのでは?」とか謙虚な気持ちになれるし、新ルートが結局ダメでも「お互い様だよね。人生試行錯誤だよ」と寛容な気持ちで居られるわけだ。
【漫画絵多品目・油絵一極集中、「子供・大人・老人」、「何でもキャッキャ・慣れ・ニヒル」】
「生活全体の芸術化」と言うなら完璧にしないとイヤで、完璧は無理なので、生活全体の芸術化は無理である。そもそも「完璧にした」と思っても、限度が無いし、現実は儘ならぬので、無理である。
本来、貴族や王様が食べているものをイミテーションして、現代食文化があるわけで、ハリボテの御蔭で我々は食べ物に恵まれている。冷凍ピラフ一つ取っても美味しい。
ところで、自分が興味のある物以外どうでも良い。当然のことかもしれないが。漫画絵で多品目の人生ではなく、エイム対象以外はボヤボヤしている。
文化とは「イミテーションを広げること」と言う定義は、言い過ぎでもあろうが、そう外れてもいないはずだ。広がったイミテーションの御蔭で、本物への興味が触発されたり、色々と多様に刺激されたりして有難いことではあるが、まあ、それにしても「生活全体、平均化」などに興味が無い。
逆に、一極集中させて、それ以外は素っ裸で良い。「フニャ〇ンとギンギン」でバランスを取りたい。「子供・大人・老人」「何でもキャッキャ・慣れ・ニヒル」。
「慣れた大人」がカッコいいのだろうが、俺はカッコよさにも興味が無い。子供のようにキャッキャしていたい。一々疲れるね?ニヒルだから大丈夫。「うるせえガキ と 無感動な老人」でバランスを取っている。男だからね。
平均化の単純な欠点は、「じゃあいつフニャ〇〇になるの?」と言うことで、恋する人間はチンパンジーと言うが、性欲に目を眩まされている人間など、それ以下である。フニャっている時に、人は冷静になるのだ。ずっとHOTではいられない。まともな作戦も練れない。動きも単調になる。
そう。男が冷静なのは射〇するからである。射〇してフニャ〇〇になるからである。全ての文化芸術哲学は、フニャ〇〇から生まれました。価値あるものだと思っていた女の肉体が、射〇した後はどうでも良くなる。その達観が冷静さ、思い遣り、逆に実は色々な物に価値があるよね、という心に結び付くわけだ。フニャ〇〇が無い男など、ずっとキャットファイトして現実にへばり付いている女のようだ。
(女は生まれてから死ぬまでずっとS〇〇しているが、男は○○Xする時だけ、〇〇Xしている)
日本人は女であり、子宮主義なので、仲間内ではルールに雁字搦めでも、「仲間以外は皆風景」になりがちである。全ての人に「十戒以外はご自由に=十戒は守る」と言う道徳訓を根付かせないといけない。近代化できない。福田恆存も戦時中の日本人のモラルの無さを言っていた。ある民族も珍しかろうが。
国によって違うし地域によって違うし個人によって違うし同じ個人でも気分によって違う。
しかし欧米に一貫したものは西洋文明的展開である。
・「場や空気を大事にする」で、「今ここと思えない価値観」の「今ここへの流入」を本能的に本能的に拒絶する。それは子宮主義に見える。「形成しようとしているのに邪魔しないで」「ある形を乱さないで」「シニフィアンシニフィエの固定」「漫画絵化、文字化したい本能」「一度定義が決まったら、それを乱さないで」と言う本能が窺える。
・「相対化されることへの不安感、自分が絶対と感じている場が揺らぐ感じ」。女は変化ではなく現状がいつまでも続くことを好む傾向がある。
・想像力に肉感が無い。「女の場合、宇宙的一体感と言う意味で、常識的な物理法則を越える感覚を持っている」が、「男の子のようにかめはめ波を撃たない、マクロス的な動きをリアルに感じ取れない」と言う意味で、常識を超えない。
・男情報から遮断されている女系家族みたいなもので、男特有の悩みに疎く、男が悩んでも「は?なにそれ?そんなの無いよ」と言われる。(「なんとなく病気っぽいんですけど」と言うと、婦人科に回される。原因不明なら男が行くべき所はとりあえずチンチン化ですから!) 意味不明なので、撃退される。逆に言うと、現実的には女には月経があるが、世界中の人間が男ばかりで、女と言う概念が無いところに女が生まれて月経があれば、「おまえ絶対病気だぞ」と言われるのと同じである。
一事が万事、二進も三進も「日本は女である」と言うのが俺の認識だが、それにしても週刊少年ジャンプなどが流行り、世界を席巻しているのは何故であろうか?日本にも男心があるからである。日本人の平均体重は低くとも、お相撲さんがいるのと同じである。
日本にはカルトが多いが、キリスト教まがいのカルトが流行るのは「女用に薄められた少女漫画に出てくる男っぽいキャラ」が人気を得るのと似ている。
男は「今ここ」でないもの、理想、未来のイヴを追い求める生き物だが、女はそうではない。
「いくらでも成り上がるといいわ。でも女の子の世界は守って」ではなく、徹底した男社会にする。「フェミニストが言う男社会」と言うのは女社会であり、男は「鵜飼いの鵜」の役割をさせられている。それは鵜を飼えなかった女の愚痴であり、私の理想は本当に男性的原理で動く世界の到来である。
日本人は虐殺をほぼしてこなかった民族だし、礼儀正しい民族でもあるが、他の民族も虐殺を辞めたり、礼儀正しくなった場合は、それらを以て他の民族に威張れなくなる。 私はよく日本人ロボットを店員や係員にしたらどうかと提案する。
日本の場合「言語化せず、姿形なりふりそのものを後世に伝える」と言われる。言語化できるものは一部分になろうから、全部を伝えると言う意味では効果的かも知れないが、全体的に劣化するのが、私からすると、嫌過ぎる。
「一部そのまま・深め」vs「劣化全体」だったら、両方を伝えておいて、「最高レベルの部分」に跪き、「他は参考にする」程度が良い。「劣化全体をお前も継承しろ」などと迷惑甚だしい。
時代状況や個人の持ち味も違うので、最高記録を提示しておいて「お前なりにそこに到達しなさい、越えなさい」と言うべきだ。
ただ「とにかく生活としてこういうことをやっていました。作品だけではなく、日々の生活なども重要だと思うので」と全体を伝えようとするのは有難い。
日本のHIPHOPなら、先ずZeebraが出てきたわけだが、「俺の全体を真似ろ。完コピしろ」とは言わない。後輩達は、要は勝手に影響を受けるわけだが、それで良いわけだ。ただ、Zeebraとしては「全体としてこういうことをやっていたし、こういう生活をしていたよ」と伝えておくと、後輩達も便利。
それにしても時代や個人の才能によって、どう生きるかは変わって来る。「1+1=2」や「栄養バランスに気を付けて」などは時空を超えた普遍性が高いが、それ以上は「そのまま継承しなさい」なんて無理があり過ぎますね。
「普遍性が高い要素だけで成り立っているもの(例えば受験勉強と受験生活)」は全体を真似てしまった方が強さが増すが、それにしても時代状況や個人の才能はある。
なので有職故実や伝統継承者など有難がるものではない。あくまで参考に過ぎない。参考としてはとても良い。生活全体のバランス、取り組み方などの参考になるし。
ただそれを時代状況や個人の才能を前提として、お前レベルに落とし込まなければならない。お前用にカスタマイズしなければならない。
「全部を真似ても、時代状況や個人の才能が違うので、ダメですよ=全体を参考にするのは良いがお前用にカスタマイズしろ」
「日本の継承の仕方=生活全体を真似ろは劣化版になっているので真に受ける必要は無い(漫画絵で多品目を並べているだけで一つ一つのレベルは高くない)」
と言うお話でした。
それに対して「文化などそんなものでしょう」という意見はある。文化とは芸術的最高記録を目指すものではなく、広くあまねく行き渡らせるものであり、冷凍食品の例えである。それは有難いです。銀閣寺流が日本人の住居の基本形になっている。
「日本人女性の醜さ」と言うことでいうと、私は昔から「スチュワーデス理論」ということを言っている。あんな逞しい環境にいたらどうかと思うし、気圧の関係で子宮にも負担が掛かる。ホルモンバランス乱れまくりなのである。「飛行機内=近代」としたらどうだろうか?
近代は女性に不向きであり、その反動としていよいよヒステリックにならざるを得ない。男が求める女らしさからドンドン遠ざかっていくのである。外国人は骨格も筋肉も脂肪もあるので、飛行機内でも子宮が守られ、女性ホルモンへのダメージが少なく、女らしさを維持できるのである。
「獣道を常道にする系の神」は地母神系に先ず狙われる。「こいつからやっておかないと、既存のコースを相対化される。偶然できた道を当然のものとされれば、そちらに人が流れる。ヤバいな」と。
日本の神話でも「道踏み固め系の神」は所謂マッチョっぽいが、三島由紀夫が言っている通り「日本でボディビルなんてしてたら殺されるんですよ」ってなもんだ。
「神の思し召しを、何故お前等が特定できんの?」と免罪符を否定したまでは良いが、否定した側も現実的な道徳訓を説かねばならぬ時が来る。その時「伝統の分厚い知恵vs個人の道徳観」になるわけで、「個人だけを貫く」ならば後者も良いだろうが、社会規模で考えると前者のバランス感覚に勝てない。
しかも個人の道徳を練り上げる際も、伝統の分厚い知恵に牽引牽制されたものでないと、所詮薄っぺらくなる。
自分の欲求を遠回しに伝え、察してもらおうとする男は先ず以てクズである。
そしてそのように察してもてなそうとする側も彼を貶めることになる。
彼を自分の欲求をストレートに伝えられないクズと扱うことになるからだ。
「感想を垂れ流して、学問的根拠や歴史は後から加えれば良い」という方法はチャットGPTなどと相性が良く、逆に感想を垂れ流すことで、学問的根拠や歴史を知る切っ掛けにもなる。強まれ。
理想人間像は両津勘吉であり、文化とは取り出したい時に取り出せば良いものであって、我が身に染み込ませる必要はない。
そんなことをしていたら堅苦しくて仕方がない。ワイルドに行け。
その者は朝から働きたかったが働けぬ不安の中にいた。その不安の重さは朝から働いていた者の労働の重さと同様、それ以上である。ゆえに朝から働いていた者と同等の対価を与えた。
自分と同じ苦しみを味わった者だけが苦しいのではない。自分と同じ道を歩んだ者だけが正しいのではない。
「怠けろ」と言っているのではない。怠けて良いけどw 怠けてるけどw そのように考えることで自分の思い遣りの幅を広げることが大事なのだ。筋トレと同じで、精神に負荷をかけて、マッチョになれ。
文化とは色眼鏡であり、偏見である。偏見あればこそ文化が維持されるのであり、「ピストルに撃ち抜かれたけど、あいつ嫌いだから撃ち抜かれてないよ」と言えるのが平和であり、「撃ち抜かれたから撃ち抜かれたなんて、ただの戦争。戦争反対」という意見があるが、醜い。
頭から離れない絵と言うのがあって、
1「山口薫 わが竹の庭」
2「松田正平 おひょう」
3「カンディンスキー ムルナウの鉄道」
である。
日本の洋画家史上最も才能のある人間は誰か?長谷川利行の名を挙げる人は多い。私もそう思うが同時に文化的様式がないことの汚さも思う。
「乱暴でもそこに才能も時代の刻印も濃厚に溢れている」というのも分かるが、長谷川利行を見る度に、でもやっぱりとも思う。
佐伯祐三はパリの壁ばかり描いているわけだが、何をどう描くかはその芸術家にとってクリティカルである。モチーフというのは自分の魂の移し身なのだ。
そのものが自分だから描き続ける。「壁ばっか描いてんな」という批判は批判にはならない。「お前はお前である」と認めていることになる。本望なのだ。
それはDNA。
「絵は右脳で描こう」で、日本人はどうしても左脳を使って絵も描いてしまう傾向がある。文字や漫画絵には良いのだが、油絵のようなタッチの芸術には不向きである。
ところで尾形光琳は生の現実を見てスケッチをしていた。当時の日本人画家としては非常に珍しい。文字を習うように描き方を習って、それをレイアウトするのが通例であった。 光琳の生々しくも洗練されたフォルムは右脳的ガン見と、左脳的工夫の融合かも知れない。
問1「文化とは何か?」
問2「伝統とは何か?」
問3「文化的に生きる人の具体例」
問4「伝統的に生きる人の具体例」
問5「文化的に生きていない人の具体例」
問6「伝統的に生きていない人の具体例」
問7「あなたは本当に文化的に生きていると言えますか?」
「伝統とは死者の民主主義だ」と言う意見もある。ところが死者の思惑を推し測るのは生者だろうから、死者の思惑も生者次第。生者の時代状況や、個人個人の心で、死者の様相も変わっていく。
「伝統=過去の全て」では無い。過去に氷ばかり食べていた奴もいたろうが、「氷ばかり食べるのが日本の伝統です」とはならない。ところが俺はそれでも良いと思っている。カオス好きっす。
過去のマイナーな奴を穿り返し「ほら、こんな先輩もいるよ!」と言ったところで、「それは文化でも伝統でも無い」と言われてしまうわけで、ならば文化や伝統などクソ喰らえであります。
「文化や伝統を受け継ぐとは、メロディアスな行為であり、いきなり調が変わったり、バラードがいきなりヘビメタになったりはしない。先人の意志を汲み取り、なだらかに変化させるもの」という意見もある(⇔急激な変化でもどんな連なりでもメロディだが)。
だがそもそも人間の数も価値観も増えて、川の流れも多種多様で、それが交錯するのだから、もはやスクランブル交差点であり、結局カオスである。カオスのままでは心許ないから、整ったものを参考にして、自分を調整すれば良いが、自分の整いを他者に強制すべきではない。街はカオス、都市の自由。
チェスタトンが言っている通り、「仏教というのは凄い集中力で自分を見詰めている」「キリスト教というのはアホになって世界を見詰めている」。後者の方が幸せだろうと思う。そもそも俺はナルシストではないので仏教は昔から合わない。
アングロサクソンと言うのは基本的な方向性として「戦士」で固めており、相手が魔法使いだろうと僧侶だろうと遊び人だろうと、脳筋で殴り〇せる。しかも魔法使いや僧侶と来たら、客観的認識に基づいて相手を攻撃できるなら未だしも、自分勝手な妄想の中で、譫言を言っているだけだ。鉄砲を持った相手の前で、訳の分からぬ踊りを踊り、撃ち殺されては「なんで自分は負けたのだろう」と首を捻っているキチガイに過ぎない。 ただ中には、ヤバい魔法使いや僧侶もいて、そいつ等には手こずる。そしてレベル99の客観的認識が出来る魔法僧侶戦士みたいなのが現れた日にはズタズタにやられる。
アングロサクソンは、その時引き抜きを行う。「近代に於いてアングロサクソンに戦争を仕掛けたものは必ず敗れる。そのアングロサクソンの近代史はウィリアム1世に負けた所から始まる(福田恆存)」
イギリスにはアイルランドがある。「男性的な民族であるアングロサクソンは、女性的特質を補うために、アイルランドを抱えている」と見ることも出来る。私は「レベル40程度の戦士では、魔法使い的『複雑系』を理解できない」と言う。実際その時アングロサクソンに「任せりゃいい」が本能的に働くのである。
全ての戦士が複雑系を理解すべきであろうか?そんな複雑なものを理解するより、シンプルに脳筋で殴り勝つ方が合理的であろう。中途半端に学び、メチャクチャになるのが一番良くない。レベル40の戦士を集団運用できれば先ず間違いない。
ところで、レベル40の戦士達も黙っちゃいない。複雑系を深く理解することは難しくても、戦士教育に少しナチュラルに取り入れることは可能である。ドラクエで言うと「戦士がベホイミ・スクルト・バイキルト」辺りを使えれば、もはや敵無しだろう。
「異質を取り入れるにしても、自分の特質を活かすものをサッと取り入れれば良いのであって、本格的に学んで自分を壊すことは、多くの人にとって得策ではない(多くの人はアホだから)」と言うお話でした。ただハイレベルを目指すなら、何度も自分を崩して、立て直しての連続で、何週もしてください。
ただ「そんな奴が現実的にいるのか」と言う話でもある。ウィリアム一世とて、そこまで凄まじい人間ではないだろう。ゲームで言うと、精々2週くらいが限界であり、あらゆるジョブを極めた最強キャラになれる人間なんていないわけさ。
油絵具は瞬間的に深みを出せる、 自由自在に描ける画材として西洋絵画だけではなく西洋文明を代表する物質だと思う。ではその油絵具を使いこなせる人間がどれだけいるだろうか?極端に言うとフランス人画家以外使いこなせていないのではないかとすら思う。
どうしても重くなってしまう。
結局ここではないどこかを今ここのように当然に描けるか?理想の世界でもまた、現実世界と同じように人間性の複雑を受け入れられるかどうかではないかと思っています。天国がカオスでもいいじゃないか、と。
理想の世界では何でもできるが理想の世界でも修業している。悩み苦しんでいる。それが人間にとっての理想的な姿なのだ。喜怒哀楽があり八つ裂きになっている姿が美しい。それを当然に引き受けて美を描くところに複雑な深みが現れ、それが我々の心を打つのではないか?
青木繁の初期の作品と晩年の作品は何故だかとても美しい。
両津勘吉を理想人間像としたところで現実に生きる人間は両津勘吉のように上品ではない。だがそれで良いのだ。
人間には「天使的、動物的、植物的、鉱物的」側面があり、その混合物こそが人間であると言う意見がある。ところで女を亀甲縛りにする。人間を亀甲縛りにして喜ぶことはあっても、動物を亀甲縛りにして喜ぶ人間は少ない。植物だともっと少ない。鉱物だと奇人変人も度が過ぎている。
意志が無いからである。恥ずかしさがないからである。意志に反して縛り上げ、羞恥させることに面白味があるからである。
ところで石には意志が無いだろうか?八百万の神様、水木しげる先生なら「石にも意志がある」と言うだろう。ならば石の意志に反して縛り上げることも、羞恥させることも可能である。
ところで女はお姫様願望が強い。姫って石じゃん。動かねえくせに色々献上されて、男に言い寄られて。生きてるだけで丸儲けってなもんよ。
ところで人間には「天使的、動物的、植物的、鉱物的」側面があり、その混合物こそが人間であると言う意見がある。女は鉱物と言っては言い過ぎだが、植物的な面が強い。次に鉱物的な面が強い(?)。動物的、天使的になると順位がずっと低い。
即ち亀甲縛りにするなら、植物や鉱物を縛って「ほら動けないね、恥ずかしいね」と言える程でないと「女を本当には縛れない=女の意志を汲み取ることができない=真の快楽を味合わせることができない」と言える。
石に性的興奮を覚える奴はいない。だが女の大部分は植物と鉱物である。「積極的に動かないが快楽は得たい、風に揺られて存在するだけで気持ち良くありたい、刻一刻〇を吹いていたい、生まれてから死ぬまで〇〇Xしていたい」と言う感覚である。
ならばやはり植物や鉱物に「人間的意志を認め、辱め、性的興奮を覚える」ことこそ理に適っているのだ。その方が女の意志に沿う。「石に興奮する=マグロでいれば良い=お姫様で良い」と言うことである。
教育とは強制的な面も強いので、どうせ強制するなら「強制されて良かった」と思えるものを強制すべきだ。九九はどうだろう?子供心に「これは必要だろう」と思うような気もする。源氏物語は要らんだろう。要らんだろうが、源氏物語を学ぶことで、1000年2000年の歴史に瞬時にアクセスできる。源氏物語など強制されでもしなければ、余程の変人以外興味を持たぬだろう。だが教育はそれを強制できる。
いや、別にそこまで「教育によって色々強制しろ」と言う意見ではない。真逆であるけれど。ただ幼児教育に九九も古典文法も組み込めるからね。
20代の頃から唐長には注目(?)しており、偉大だと思っていた。例えば「料紙は陶器レベルに発達し続けるべきだった」と思っている。
マナーというのは基本的にクズである。免疫を弱める。
マナーというのは方法や順番という意味で、目的意識に欠ける。
両津勘吉がマナー好きであろうか?
お前の価値観を尊重されないことに慣れろ。そして捻くれるな。
1感想を羅列する。
2歴史的学問的根拠をAIに持って来させる。
3何らかの根拠は見付かる。
4どんな感想も歴史と学問からの太鼓判を押される。
「変な先輩なんて認めない」と言われるが、AIによって変な先輩と同時代人を増殖させる(?)w
cf(伝統とは死者の多数決、でも質問によって結果も変わる)
サイコパスってサイコパスのくせに、いやサイコパスだからこそ、現実によく絡む。老人や仙人のようにユーモラスに生きたい。サイコパスと来たら躍起だ!現実にへばりついてキャットファイトしている。
日本だけでも4000万人以上のババアがいる。ならばババアがババア党を作れば無敵に思えるが、そうは行かないらしい。
人間には「礼儀正しく接したい欲望」だけでなく「無礼に接したい欲望」があり、「無礼に接したい欲望の捌け口」として、どうでも良い人間が役に立つ。どうでも良い人間は「無礼に接したい欲望」の捌け口となることで存在を認められる。でなければ「存在しない」ことになる。
と言うのだが「礼儀正しく接する」か「ぼんやり眺めているか」で良いはずだ。そしてどうでも良い人間として扱われていた人間も、気の合う仲間と礼儀正しく接し合い、認め合えば良いだろう。戦後、パワハラセクハラの捌け口として末席を得ていた連中も自主自立すべきと言うことだ。
「無礼に接したい欲望」を「ぼんやり眺めるor無視する」に置き換えろ、と私は言っている。それが嫌なのではないか?「ぼんやり眺めるor無視する」と言うことは「対象を未知のままに置け」と言うことであり、「未知恐怖症=輪郭を与えねば気が済まない」人間からすれば「認めてやる代わりに無礼に接せさせて!」と言う条件の方が都合が良い。「眼鏡を取ったようにぼんやり認識してろ。表面的で良いから通り一遍の礼儀を弁えろ」と言うのは、そもそも苦役なのだ。
歴史上、原始古代からテロリズムの研究と言うのはあるだろうし、それがテロリストの意図を汲むこととも密接不可分なのだろうし、それは政治的意図によるものでもあろうが、当時からテロの意図を汲むことに反対意見もあったのだろうね。そして残っているのが歴史!?
自分の価値観・世界観を否定されたくらいでガタガタ言うな。世界は多様に満ちている。
文化とはヒステリックであることと密接不可分であろうが、「ユーモアセンスを持て=相対性を自覚しつつにこやかであれ」。
ユーモラスであることが、そんなに苦しいことなのだろうか?
「自分とは何だろうか?」と言う話として響く。「自分=デブ」ではない。 色々な特徴を持った複合体であり、「おい、デブ」と言われて悲しいのは、本当はそれだけでは無いからだ。自分[チビ、デブ、ハゲ、鶏の照り焼きが好き、思い出色々、友達、失恋]などの複合体であり、それは「掛け替えが無い」
「ヒステリックであることが文化的成熟をもたらす」と言うのなら、文化的成熟など要らぬが、そもそも俺はそうは思わない。「悪い意味でお土産の伝統工芸」みたいになるだけで、芸術的感動に足りない。
「合の子」が差別用語として問題になったが、あらゆる単語について、負の言い方を集め、比べてみたい。
「キュウリ=賤の脇」、無いけどそんな言い方w
「パイナップル=賤の鎮め」
それでサラダなどを作る。
やはり「銀だこ」は大阪人に受けが良くないらしいな。不味くないけど高過ぎるし、なにか可愛げが感じられなかった。「たこ焼きで、そこまで商売せんでも」と。しかもあれは揚げている。「たこ揚げやわ」と。「にしても高いわ」と。
これはパン屋にも言える。オシャレパンな。300、400当たり前で、500円600円する。何という野蛮であろう!安売りスーパーなどが安い中で、馴染んでないもん。世に。オシャレパンだけ突出して高い。パンも泣いとるよ。祭り上げる方が悪いわ。
仏教が伝来した当時、寺だけが異質な建物だった時代を思い出す。アフリカの砂漠に、高層ビルが出来ても、かえって晒し者になるのと同じだ。それは文化的脈絡が無い。調和していない。暴力的だ。まさしく野蛮さの象徴である。
銀だこやオシャレパンの問題は文的未成熟と言うか、鹿鳴館的猿踊りと言うか、そう言った野蛮さを感じて、心がうずくまってしまう。泣きそうになるんだよね。
寿司にしても高級寿司は高過ぎる。江戸時代はおにぎり的ファーストフードだよ。あんなもんは、そこまで馴染んでこそだろう。焼鳥もな。
その中で敢えて「高級の極み」のようなものも出せる、と言うなら分かるが、基本ではない。それは蛮族がブランドを有難がっているようなものだ。醜い。
人類の99%が貧乏人であるわけだが、「貧乏人は麦を喰え」方式で、99%に文化が無ければ、それは人の世とは言えない。99%が「何故だか美味くて安いものにありつける」「楽しく過ごせる」「学ばずとも歴史や伝統に包まれている」からこそ文化ある世界なわけだ。
「強い男と弱い女はいない。あれは想像上の生き物なの。ドラゴンやグリフォンと同じ」
「女の子が男に求めるものって結局自信なんで」
「女はイケメンよりサイコパスに惹かれる」
「東洋は男が女に合わせている。西洋は女が男に合わせている」
「結局男は男が好きなのだなあ、女は女が好きなのだなあ」
「少年漫画の女性キャラは男の妄想であり、少女漫画の男性キャラは女の妄想である」
「女男と男女はモテるわよ」
「男は戦いの中で磨かれ、女は自分を愛して磨かれる」
男が有利な点は「主観と客観を区別できる」ことだ。エロ本もAVも現実ではない。少年漫画も現実ではない。これを分かっている。
ところが女はTVドラマが現実だと思ってしまう。現実にへばり付いてキャットファイトする。
ところが自らを女性化して女尊男卑の世の中を招いているバカ男も多い。
男はユーモアセンスを基本に、現実など冗談か何かだと思う余裕が無いとダメだね。女と同次元で引掻き合いしていても、ヒステリーの本家本元たる女に負ける。目の前のものなど軽蔑せよ。現実など侮蔑せよ。芸人がなんであんなにモテるんだい?
俺は合理的だから「目的のために手段がある」と言われれば、「そうですよね」と返答あっけないが、「古典を学ぶということはそういうことじゃないの。学ぶは真似ぶなの」と言う。所作から浸りたい。目的意識も働くであろうが、人間に手段も目的も割り切れない。
巨大なエックスをぶらつかせて「決めつけんな」とボヤボヤ眺めている。それが俺の基本。だからシャキッとしない。眼鏡を外した状態で生きている感じだ。
それに対して「決めつけてシャキシャキ動いて、根本的に認識を変えざるを得ない時に変えれば良いじゃん」と言う意見。「そのことで普段はシャキッと出来て、変わる時は試行錯誤するけど、思考錯誤の後に、またシャキッとできるでしょう」と。「あんたみたいにずっとボヤっとしている人生は真っ平」と。
先ずボヤっとすることが好きで、シャキッとと言うのは俺には無慈悲に感じられる。
ただそんな俺にもシャキッと動く時があって、それは料理とゲームである。「合理的にシャキシャキ決めつけて動く」が変わる時は変わる。「決めつけがほどけて、新たな決めつけに向かう」。料理とゲーム以外では、大体ボヤっとしています。
チェスタトンがイギリス貴族の素晴らしい所は「馬鹿々々しく貴族的で、誰も馬鹿々々しくて相手にしていないのである」と言っていたが、俺はイギリス王室に全く関心が無い。イギリスはイギリスで好きだが、王室に心が動かない。「余りにも普通」だからか?「王室が超平凡に見える凄味」とも言えそうだ。
ペルソナ5で誰が好きって。 川上だよな!
俺は漫画やアニメのキャラに惚れることはないが、ペルソナ5の川上には参ったね。そもそもペルソナ5が良い。川上のテーマソングSweetが良い。全部良い。
「メイドのことがバレた時はどうしようと思ったけど、君に救われたね。君に会うためにそんなことしてたのかなって思える。本当に感謝してるよ。生徒で、ご主人様で、今は恋人なのかな?」って、川上!!川上!!
川上「ご主人様から恋人になった君はさ、何かしてほしいことある?」
A「甘えたい」
B「膝枕してほしい」
この2つの回答の如何に関わらず、やっぱり俺から強く抱きしめる。
「甘えたい」「膝枕してほしい」と言っておきながらな!
受精卵が他の精子を受け付けないように、外部を遮断して「その内部の可能性を徹底的に引き出す」。
「敵と戦う=外と深く関わる」ことによって「自分でも気付かなかった自分の可能性を引き出す」。
アンドレ・マルロー言う所の「内的改悟の文明と外的啓示の文明」
「閉じなければ自分の可能性に気付けない」と言うのは傲慢で、「戦うことによって自分を知る」人種もいるのだ。それが男。
「女は自分を愛することによって成長し、男は戦うことで成長する」ってやつよ。東洋文明は敵と戦うことを許さない=男が成長することを許さない。
御飯が「お父さんをいじめるな~っ!」と言って、「頭突きできた=自分の内なる力に気付けた」のはラディッツの御蔭だろ。
「自分=宇宙」として、「宇宙には色々あるのだから、自分を肯定できるように色々な存在を肯定できるよね」と言う見方。
「自分=最小限の点」として、「自分以外の存在を感嘆の目で眺められるよね」と言う見方。
前者は「肯定できないものもあると癌細胞を排除する=宇宙になり切れていない」
後者は「感嘆できないものもあるとニヒリズムに陥る=点になり切れていない」
私は圧倒的に後者。キリスト教は自分を重要視する人間を悪魔と蔑んできた。
チェスタトンは「天使が天に昇るのは、自分を何とも思っていない程軽いので天に昇るのだ。悪魔は自分を重く考え過ぎて、重いから地獄に落ちるのだ」と言っていた。
東洋の聖者と言われる人達は自分を重く考え過ぎている。そこが俺には合わない。
中世はギルド的時代でもあったが、一方で「反中世」を多分に宿している時代でもあった(いつの時代でもそうだろうが)。アクィナスの神学大全はカトリック全盛期に書かれたものではなく(1485年)、マキャベリの君主論も1532年に刊行された。
新航路の発見・ルネサンス・宗教改革という3つの激流がヨーロッパの歴史を彩った「近代」の出発点とされるのが15〜16世紀のヨーロッパなのである。日本では戦国時代に当たる。
ところが動乱の時代が過ぎ、中央集権や世襲制が見直されると、神学大全や君主論が再び脚光を浴びる。
しかし江戸時代には「統治側の教えである朱子学」が、反発も含めて陽明学や国学の苗床となり、17世紀ヨーロッパでは科学革命が展開し、18世紀の産業革命と市民革命に繋がるのである。
交通が発達すれば自分で歩かなくなり足腰が弱くなる人が増える。交通機関を利用しない者もいるだろうが、交通機関を利用する人間は多いので、その人々の影響を受ける。
AIでも何でも良いが「これからは~~の時代」というケチ臭い考えが嫌いで、「これからは全ての時代」とならなければいけない。そうならないなら、それは未だ技術の発達が足りないのだ。
時代がどうあれ「君はどう生きるか」だ。
「AIが発達するから、これからは創造力や想像力の時代だ」と言っていた奴等よ。
結局「真善美」「何をどう定義するか」は、そいつ次第なのではあるが。
ただ自分で考えているように思えて、AIに操られているのかも知れない。俺は「導きAI大合戦」と言ったが。
人それぞれだ。多様だ。何を仕出かすか分からぬ存在だ。神秘だ。なので「決めつけるのではなく対象をエックスとせよ」。
福田恆存が「相手を理解することの危険性」を言っている。「お前はこういう奴だ」と理解した風に見えて、実は「決めつけている=相手を認識の牢獄の中に入れている=自分の認識の範囲内に閉じ込めてしまう」。その牢獄から出た途端「お前はそう言う奴じゃない。お前は変わった」と言うが、お前の認識から外れただけで、「そいつ=お前の定義」ではない。そもそもそいつも自分自身のことなど分からぬだろう。存在とは神秘的なものであり、半分、いや9割以上靄の中に埋まっているようなものなのだ。
人間の認識力を過大評価してはならぬ。その者の可能性を否定してはならぬ。「ヴェールに包まれた存在」こそが「存在」なのであって、剥ぎ取って「これが本当のお前」と言っても、それは違う。
「ボヤボヤしているだけでは生きられない」のかもしれないが、そんなにシャキッとしなくても生きられる。逆にエックスが付いていると困るものをシャキッとさせて、後はボヤボヤしているくらいがジェントルでエレガントで良い。
買物する時に「100エックス円です」とやられたら確かに困りますけどねw
「決めつけず、ボヤっとすることは相手の可能性を尊重することであり、礼儀正しいことなんだ」という言い分が俺の根底にはある。
俺の価値観・世界観の多くに「ボケっとしろ」という通奏低音が流れている。
「女はサイコパスに惹かれる」と言う。女が男に求めるものとして「自信」が挙げられるが、それだけでなく「勢い」と言いたい。自信と勢いは重なっている面もあるだろうし。
俺は自信はあっても、勢いが無い。「シャキッとしろシャキッと」と言うが、俺は「ボケっとしろボケっと」である。クタクタに似た白菜のようである。全ての歯応えを捨てて、旨味に全振りのようなものである(?)。
おかゆ野郎?ボケ老人?眼鏡をかけろ?
でも「政治は一寸先は闇」と言う。真夜中にサーフィンするのは怖いだろう?
でも初めから抜き足差し足で生きる奴からすれば夜の世界こそまこと。盲目のサーファーに昼も夜も関係ない。
女はカタワな精子を受け付けたくない。
ところでキリスト教は「人類全てに人権がある」と教える。神の創造物であるから。
女からすると危険な思想である。全ての精子に価値を見出せねばならぬから。
以前、岡田斗司夫氏に「日本人らしさを加速させてくれる道具が出てくれば、日本人は喜んでそれを使い、より日本人らしくなる」と言う旨のコメントをツイッターでしたが、「フラタニティ」も当然SNSの発達による所が大きい。「資源問題」なども脳裡に過ぎりはしようけれど。
私から言わせれば「日本人は女で、田舎者」なので、「向こう三軒両隣」的世界は得意だが、「グローバル的規模で物事を考えるのが苦手」なのだ。
「グローバル、近代、市民」が本能的でない。ないが、近代に於いては、世界がある程度近代的になったので、ある程度「近代的価値観」に付き合わねばならなった(それは日本人だけでなく、近代とはアングロサクソン的時代であり、アングロサクソン以外の民族が渋々付き合っていた時代とも言えると思う)
SNSは私から見ると「中間層の排除、天下一武道会」的な側面を加速させてくれる(ゲーム的だから)が、そもそもSNSなのだから「向こう三軒両隣」で繋がれる道具であり、SNSは世界的に広まっているから、「世界は向こう三軒両隣」的に落ち着く傾向も出てくる。
即ちインターネットは事の始まりからして、「世界競争的な面」と「向こう三軒両隣的な面」があり、最初は前者が強調されたが、諸々のSNSの発達によって、後者が強くなって来たと認識している。
だがテクノロジーは発達し続ける。AIの発達がフラタニティより一人自己完結的な世界を加速させる面は否定できまい。兄弟いらねえからなw
近代とは情報と交通の発達により「色々な人、色々な考えがあることが如実になった時代」だ。人口だけなら古代から地球の総人口は多いが、「情報と交通の発達により、多いことが分かっちゃった時代」である。それまでは「地球の反対側など地球の反対側に過ぎなかったのに」である。
ところが多様性多様性では「自分の考えの確立や仲間同士の落ち着き」が無くなる。ネットは天下一武道会も開催してくれたが、「仲間の検索」にも多大な貢献をしてくれたのだ。
日本人は女性的で、女はグローバル的な考えに向いていない。何故だろうか?「女は生命体が好きだから」だと私は思っている。幼稚園児に絵を描かせると、男は青を基本にしてロケットなどの無機的な機械を、女はピンクを基本にして人などの有機的な生命体を描く割合が多いと言う。(※)
「家族、親族、向こう三軒両隣、地域(大小)、国家、世界」と範囲は広がっていくが、「生命感を覚えるのは向こう三軒両隣レベルまで」であり、それ以上は無機的に感じるのだろう。そんなものを好めないし、好めないから大切に思うことも無いし、大切に思えないから命懸けになれない。
逆に無機的な抽象物である「国家」なんてものに、田舎者をして、命を捧げる対象と認識させるには「国家=向こう三軒両隣」的なものと納得させる必要があるのだろう。「国家というのは血の通った家族のようなものだよ」と。まさにそれが日本だろう。島国的一体感。天皇の子孫。
私は逆に現人神信仰をこの上なく嫌うので、抽象的概念、血の通わない無機的な超越物になる程、そこに痺れる憧れる、崇拝信仰の対象になるタチなので、ガチガチの神が良いのである。
「国民教育、市民教育、フラタニティ教育」と言うが、そもそも日本人は市民教育が十分になされたか疑問である。そもそも苦手なのだ。保田與重郎も「日本に市民は無かった」と言っている。あの保田が残念そうに言っている。
日本人は「国民=画一性」「フラタニティ=仲間」は得意でも、「我は我、人は人されど仲良き」という「個性を前提としながら、それでも博愛精神を持つ」と言うことが元来苦手な国民なのだろう。魯山人も「日本人は芸術家を許さぬ国民である。個性を許さぬ民族である」と言っている。皆言ってるけどw
「自由平等友愛」の中で「平等と友愛」は得意でも、自由がお嫌い。「田舎者じゃねえか。女じゃねえか」と言う話であり、それは新しいと言うより、古来より変わらぬ民族性であり、その民族性を加速させてくれる装置が出てくれば、そちらに飛びついて当然なのである。
一方で世界は依然としてグローバルであり、チャットGPTであり、AIの進歩であり、一人に一つのヴァーチャル世界である。
そもそも「中世は向こう三軒両隣」的な時代と言うが、一方で「中世とはカトリック教皇庁が強かった」時代であり、EUを自由に往来する芸術家も多かった。各地域の個性が如実になった時代でもあり、後の宗教改革に繋がるのである。
抑圧が個性を産んだとも言え、日本の場合、グローバリズムがフラタニティを助長しているとも言えるだろうけれど。「無制限の多様性とか人っぽくねえし、仲間同士で集まりてえし」と言う。グローバリズムは仲間を越えていく。「仲間以外は皆風景」など気持ち悪くてやってられない。
「個性的=他者とかなり違う」からと言って、相手を深く理解して、交わることはできるし、そもそも人と人はそれくらい違うのだ。だからと言って、されど仲良きであり、認め合う素晴らしさをいつまでも説きたい。そもそもキリスト教の理念はそれである。国を越え、民族を超える。
日本ではキリスト教の人口は1%に過ぎないが、1%だろうがなんだろうが、影響を大きくすることはできる。AIの前線を押し上げている人間など根本的には0,1%にも満たないだろうが、それでもグローバルインパクトを与えているわけである。
(※)
法律は「例外≒犯罪者」を想定している。ルールを作る時にイメージするとして、現実をまざまざとイメージしていたのではカロリーが高過ぎて、「イメージし切れない≒色々な場面を想定する前に疲れてしまう」。
一方でプレイヤーが「仕出かせることを固定してしまうと=エックスを取り除く」と、そもそも「犯罪を為し得る」という可能性を除去してしまう。それでは立法もクソも無い。人間は犯罪を為し得る≒色々なことを為し得る。人間を前提にして動いているのが世界である以上、それでは世界に対してルールを仕掛けられない。
なので「ある程度抽象化された状態で≒様々な事態を想定できる状態」でイメージし、エックスを付けたままで思考する必要がある。
即ち「そのこと」と「世界的システムを作ったのは白人男性が多いこと」は重なるのではないか?「alphabet脳で、男性脳」ということ。
・大陸法
・人間をどう見るか。「大陸哲学も人間と言うキャラをどう設定するかの問題」と見ることも出来る。カント宜しく。
・ゲーム的セッティングに近い
・クラシック音楽は大陸
と言う観点も。
80年代90年代くらいなら「注目の人は誰?」となれば有名人だったろうし、Youtuberが出てきた頃はYoutuberだったのだろうが、最近はもうそのポジションが「友人」になっているし、俺でさえそう思う。
有名人は「賑やかしでしかない」んだよね。本気で「友達が注目の人」と言える世界と言うか。
A、「実力があれば人種なんて関係ない」と言いますが、実力も無いんですよ。人種差別と実力差別のダブルバインドで、もうどうしたら良いか。
B、そうなんだよな。まあ、慰め合える友達でも見付ければ良いんじゃねえの?実力主義で集まる人間も、人種差別で集まる人間も、結局は自分を慰めてえのよ。
B、ちなみに何を以て実力とするかは千差万別であり、「俺は俺力世界NO1だ!」と言われれば「なるほど」と思いますし、人種と言っても、肌の色や国籍だけでなく、「一人一種」と言い張れば、それもその通りと思います。
福田恆存も「我々は一人一人掛け替えのない人間であり、いかにたどたどしい足取りでも、その足取りは誰にも真似できない。僕はゲーテやナポレオンのような偉人では無い。だが彼等も僕ではない。そんじょそこらの石ころである僕だって、掛け替えのない人生を歩んでいるのだ」と言っていました。
優劣なんて少し考えれば幾らでも覆る。観点なんて無限にあるわけです。
皆が言っていた
周りが言っていた
友達が言っていた
親が言っていた
先生が言っていた
昔の人が言っていた
これらを全て「神」に置き換えると確かにヤバい奴なのだが、では他はヤバくないかと言うと、ヤバくないとは言い切れない。ヤバさはお互い様。
ドラクエにはドラクエの世界観があり、FFにはFFの世界観がある。ドラクエの街の人はああいう感じであり、FFはああいう感じである。コマンド、BGM、効果音、武器の種類etc、それぞれの世界観が出来上がっている。現実世界も同じで、日本ならこういう感じ、アメリカならこういう感じ、地域毎にもまた違う。
ある「コスモス=秩序=世界観」を維持するためには、「カオス=混沌=無限の多様性」の流入を防がねばならない。それでは世界が成り立たぬ。和歌の世界では「花=さくら」であり、ラフレシアでは決してない。
「人は色眼鏡を付けて現実を眺める=偏見がある」、そのことで生々しい現実から目を背け、精神の安定を図る。
一方でそれだけだと息苦しくなる。張り巡らされた世界観、価値観、他にも世界も価値もあるのに、雁字搦めにされてしまう。
そこで芸人や漫画の主人公が大暴れして、あるいはカウンセラーや宗教家が世界の広さや価値観の多様性を説き、ガス抜きをしてあげる。すると、凝り固まっていた世界観がほぐれる。ある特定の価値観に凝り固まって、ムキになっているのをリラックスさせる。
そのためには現実を相対化する価値観(それが混沌であれ、別のコスモスであれ)が必要なのだ。人をそれを求める。求めない時代も場所も無かった。女に「サイコパス、芸人、宗教家、役者」などがモテるのはそのためだ。「マレビト」である。
人は自らの「世界観=偏見」を守るために「色眼鏡=仮面」をつける。その仮面が肉に食い込むと、安定感は出るが、「ユーモアセンスは減る=凝り固まってしまう=芸人的ヘラヘラを失う」。「現実にへばり付いてキャットファイトすることになる=なんでそんなことに拘ってんの?」と。
肉ごと仮面を強引に剥ぐか?血みどろの眼差しでお前は睨まれるか?
芸人が笑わせて、宗教家が洗脳して、仮面を剥がすことはある。自分から外してくれる。強引に仮面を剥ぐのはレ〇〇だろうか?戦争だろうか?あるいはブラック労働?その者の世界観を強引に変えてしまう。
ギャルをナンパすると、顔を凄く赤らめる場合が多い。「拒絶しているのに」だ。こんな奴にこんな所でナンパされるなんて想定外すぎるのだ。ギャルの中では「こういうタイプにこう言う所でナンパされる」と言う世界観を持っており、それを一気に突き崩される。怖いのだ。
「なんでこんな奴が声を掛けて来るのだろう?私が女だからだ。こいつは私を女と認めて、私の体を使い、性欲を満たそうとしている。そうだ、これは男と女なのだ」、その剥き出しの現実が、意表を突かれることで、如実になってしまう。
その剥き出しの現実が恐怖にもなるし、恥ずかしさにもなる。なので震えながら、顔を赤らめるのだ。
ギャルの仮面の下はかなり古風である。仮面は「女の子を楽しみながらも、実は女であることに距離を置く」存在である。自分が女であること、あらゆる男から性的視線で見られることを拒否している。
そんな存在に「所詮この世は性的目線で溢れており、お前もそんな原始的な現実から逃れることはできない」ことを突きつけてやれ。それは「色眼鏡=偏見=仮面=自分の世界観維持」を剥ぐことだ。「お前の正体をお前に見せつけてやる!」
凹凸。これがもっと複雑にギザギザになる。ピッタリハマる相手しか受け入れない?まさに運命の相手だろう。ギャルは多種多様だろうか。実際にギャル(定義不明だがそれがミソか)と言う仮面をかぶれば、ギャルになれる。ギャルはギャル同士群れる。男を惹きつけるためだろうか?
そうではないはずだ。あれは女の子を楽しみながら、実際には男から距離を置くためである。ギャルは一途と言う。「ギャルは多種多様=色々な女がギャルのペルソナをつける」から、実際には一概には言えないが、ギャルは一途という理屈も分かる。ピッタリハマる凹凸を待っているのだ。
だが待ってばかりでは退屈で、女の子を楽しめない。そこでピタ待ちしながらも余計な男を牽制できて、その間女の子を楽しむ作法、それがギャルである(これは実際のギャルと言うより、一つのお話だと思ってください)。
しかし一途にハマる凹凸以外を受け入れないとは何と古風なことだろうか。そう、ギャルは古風である。それが安全策でもある。男に合わせて自らの凹を変形させて御覧!その男がヤバかったら取り返しが付かない。そんなにグニャグニャ変われない。自分を変えるということは本来リスキーなのだ。
逆に自分を徹底的に弁えた上で納得できる男となら、それなりの不幸も凌げる、耐えられる。「それ以外の男は自分を崩壊させてしまう」と言う防衛本能がギャルの一途さ、古風さである。(これは一つのお話なんで、適当に聞き流してください)
逆にギャルはそのペルソナを剥ぐと非常に弱い。弱いと言うか一途で古風な女である。一対一で男と女を突きつけると、怖がりながらも顔を非常に赤らめる。ショックを与えろ!
内向きでドメスティック。Youtubeもワイドショー的な吐き気がするようなものが多い。 たがそれを「国風文化」と呼べないことも無いw 国風文化の名が泣くけれど、源氏物語もワイドショーだったと見做すこともできる?
ただ「仲間との日常」を描くにもピンキリで、方向性ばかりで断罪は出来ない。仮名書も源氏物語もドメスティックだが、名作は名作である。Youtubeでも何気ない日常を切り取っているだけなのに気持ち良いものは気持ち良い。
ラスコーの壁画 先輩
ギリシャ彫刻 先輩
ピラミッド 先輩
九成宮醴泉銘 先輩
先輩を尊敬すると言うなら、この辺でよろしく。
A 化け物は出ますか?
B 出ても良い。本居宣長も「龍も折々は出る」と言っています。そんなことより驚くべきこと不思議なことは幾らでもあるんでね。今こうして生きていること、風が吹いて花が咲くことの方がもっと驚くべきことなのだと。
オルテガは「文明を持った野蛮人」とアメリカ人を貶すが、両津勘吉みたいで素晴らしいじゃないか。ただ私は「方向性の違い」で満足できない面はある。私に寄れば「イタリア→英仏独→アメリカ」と西漸するにつれ、大地から切り離され「男度」が増すのだが、「メイフラワー号に誰を乗せるか」と言う問題で「イギリスのピューリタンが多め」だったのが歴史的事実である。なのでアメリカはそっち系の人々が多くなる。
「メイフラワー号に誰を乗せますか?」となれば、俺だったら「フランス、カトリック、芸術重視」と「マッドサイエンティスト」が多くなる。「英語は簡単だからアメリカがあそこまで大きくなった」とも言えるが、まあ、夢物語としては、そういうことですな。アメリカレベルのフランス、ドイツ、イタリアなど、そういう国を作るゲームもあります。
原罪は原罪であり、他の解釈は「その下に付くもの」に過ぎないにしても、
・私の場合「無限の相対性とニヒリズム」と解釈することが多い。
・そして原罪からの救済を「相対的だからダメ→相対性自体を喜べ&お前はお前の立場を楽しめ」「インポ→勃起できる」と解釈することが多い。
私が東洋思想に科学的な面は感心しても、心術的な面ではピンと来ないのは、そもそも扱っている問題が違うのだ。あれは「女の悩みへの処方箋」である。俺は男なので「婦人科に連れて行かれても困る」。
相対性やニヒリズムからのEDに対して「筋トレ彫刻トラゴディア、オリンピックにカタルシス」などを処方していくのが西洋思想なのであって、「悩んでいるですけど」と漠然と言って来る男に対して「とりあえず筋トレしとけ」とアドバイスするのはとりあえず正しい。
「YoutubeやTwitterなどSNSが普及して変なのが威張り始めた」などと言う奴等がいるが、前時代はTVや雑誌などで、クズが「審査員」を務めていた為、クズしか取り沙汰されず、どうしょうもなかった。
「先輩の言うことを聞け」と言うなら、ギリシャ彫刻を彫り、ゴシック建築を建て、九成宮を刻み、源氏物語を書いてから物を言え。
でも、まあクラウド基本となり、AIもそこそこ出て来たし、これからも発達するだろうから、攻略基本の世界になる趨勢であり、「ほら出来たよ」が当然となるから、「黙る奴」が増えて嬉しい。
福田恆存のトルコ旅行記で「アメリカ人はバカだ。ぼったくられているのにお人好しにヘラヘラしている」と言うのがあったが、じゃあ何か?「相手の嫌味を目ざとく咎めて、嫌味の応酬をしろ」ってか?その時点で負けなんだよ。汚ねえものはスルーするか、綺麗に受け取ることがジェントルマン。
さらに「お人好しにヘラヘラしている」と言うが、本当は気付いてんの。気付いているが、さっきも言った通りヘラヘラしていることがジェントルマンだからヘラヘラしてんの。
じゃによって、この件に関してはアメリカのコールド勝ちだし、控えめに言っても以上の2点で、2対0で勝ちです。
「育ちが良いか悪いか」は貧富ではなく、色々な人や物に囲まれることで、思考行動態度仕草などが牽引牽制され、磨かれているかどうか。
さらに育ちの良さにも種類があって、貴族的な育ちの良さ、下町的な育ちの良さ、スラム的な育ちの良さなど色々である。
「育ちの良さにも色々な方向性」があるし、「何を以て育ちが良いとするかも無限の種類」あるので、結局「育ちが良い悪いなんて一概には言えない」のではあるが、「過剰ではない自然なデリカシー」や「バランスの良さから人生を長期的に楽しめる健全さ」に、私は育ちの良さを感じる。
両津勘吉は育ちが良いか?あれは良いのだ。下町的バランスが取れているし、漫画の主人公としてまさに長期連載である。健全極まりない。
ところで私は育ちの良さを称えているのではない。「育ちが悪くて良い」と言いたいのだ。変人が好きだからである。偏りが好きだからである。
ところで少なくとも、ワイルドに行け。世間様をぶち〇せ。人目を気にするな。
ウンコを投げつけられたからと言って、こちらもウンコを投げ返すことが果たして美しい行為だろうか。投げつけられたウンコさえ美しくキャッチして、「ありがとうございます」と言う姿こそ美しい?
「全ては相対的だ」と主張しながら、いざ決断すると「それはお前の考えだ」と相対化される。因果応報?w いや、決断する時にプレゼンを上手くすれば良いのか。結局俺には話し言葉は合わない。
ただそもそも人とコミュニケーションを取るなどという億劫なことは、全てAIに任せたい。AIが変な方向に導いてしまっても、俺よりはマシ。
俺も曲がりなりにも働いているわけだが、「今時働いている奴なんて、時代遅れなんじゃねえのか?」と言いたくなるw
週刊少年ジャンプの発行部数は多い。なので週刊少年ジャンプ的な価値観が幅を利かせて然るべきだ。それでも発行部数ほどには力がないのは、そっち系の人が一騎当千とはならないからかもしれないが、技術が発展すれば数×一騎当千で物凄い力になるはずだ。
もうなっていようが、さらにだ。
神は各個人を「その本質として神秘的存在」として産んだ。神を人間の有限なる認識で「こういう存在だ」と決め付けられないように、人間もまた本質的には神秘的だから「お前はこういう奴だ」と決め付けられない。
「おいデブ」と呼ばれて悲しいのは、何か記号的に扱われているような気がするのは、「俺=デブ」ではないからだ。俺[デブ、チビ、ハゲ、鶏の照焼が好き、ゲーム好きetc無限、そして最終的には神秘]と言う「本当は複雑で、神秘的な存在」だからだ。それを「俺=デブ」と決め付けられた日には、浮かばれない何かが蟠る。
福田恆存が言っていたが(言ってないけどw)、「数学ができるから君が好きだ」ならば、他にも数学ができる奴はいる。ところが「君はエロいから君が好きだ」ならば、エロさから幾らでも引き出せる。「数学ができるから君はエロい」もその中に入っている。
人間は「あなた」として全肯定された時に、記号ではない、「存在」として認められた気持ちがする。「数学ができるから」より「エロいから」の方が「あなた」に近い。人間の本源は「性的存在」だからである。〇起され射〇されれば、他に何と言われようと、女として認められているわけであり、そこが肯定されれば肉〇〇だろうが何だろうが、「他も随って肯定されたようなもの」だ。数学的能力も異性を惹きつけたい欲望を根底に伸びていくものだからである。
ホームグラウンドが壊れた存在の支えによって(俺のように)、風俗産業がいつの時代も栄えているのは、「人間として全肯定されたい」からである。記号的に扱われてしまう社会に対する、それは抗いである。DHロレンスかく語りき。
逆に何故人は「おいデブ、おいチビ、おいハゲ」などと人を傷つけたいのだろうか?自分が上に立ちたいからで、自分が全能感を味わいたいからで、全能と言えば神だけが持っている特質で、人は人ながら神になりたいのである。「神でありたい=存在したい⇒人間として扱われたい」からである。
幾らでも傷つきなさい。幾らでも遜りなさい。幾らでもなすがままになりなさい。その時の傷に自らの存在を感じなさい。ドM的処世術である。
「おいデブ」と貶すのは本当は「私=デブ」でないと分かっているからでしょ?そこを強引にデブと貶すなんて、「私のことをデブなだけでない存在と認識してくださっていること丸出しですやん!そんな見んといて!恥ずかしいわ!」ってなもんよ。なので貶された時は勃〇しなさい。濡れなさい。