芸術家の成長について | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

【1600年以降何故芸術家は露骨にB級になるのか】
 要は「カオス」を吸い込む「装置」が例えば「デカい鼻」であれば、もうそれだけで「B級っぽい=外形的バランスがおかしい、シニフィアンシニフィエの不安定、変なところへ拘り過ぎる、レイヤーが未整理」になっちゃうだろうね。でもカオスを吸い込まなければ栄養不足になるし、吸い込み装置が付いていなければ吸い込めないか、カオスそのものになってしまう。デカい鼻は近代自体のアンバランスの象徴のようなもので、そんじょそこらの装置では近代的カオスを吸い込むことも消化することもできないだろう。そんな奴は芸術家とは言えない。芸術家って呼吸が莫大な人のことだから。
 エアコンは大きくて不細工だよね。さらにそこへ空気清浄機やそいつなりに必要な機能をつけたら、バカデカくもなろうし、煩さくなりそうだし、それに応じて部屋に置くものも変わって来そうだよね。だからと言って、エアコンを外すわけにもいかない。お前なりのオーダーメイドエアコンをな。
 まあ、ただそのエアコンと共に過ごしながら、お前も成長していき、段々とバランスが良くなっていくのだと思うよ。病気や治療ってそもそも変なものだろ。でも病まず治さずにいるわけにもいかない。自分の病気と一騎打ち、勝って健康な人間になっていくわけだよ。本当の健康ってどういうものか分からないし、「人間という存在自体が病気だ」という意見もあるけどね。少なくとも「お前なりの病気と治療」を切っ掛けに、自分自身や他人との付き合い方、この世界との折り合いの付け方を知るんだと思う。戦いのなかで色々と育まれるんだろうね。

そもそも存在自体がカオスであり、癖のあるものなんだよね。
デカい鼻はその象徴。輝くリンゴみたいなものでさ。
本来全てのリンゴは輝いているんだけど、
分かりやすくするために金ピカになってるわけ。

「五感に任せたバキューム」と「古典との一騎打ち」→歴史的人物へ。
励み1 近代以降「一流作品」などと言うものはない。
励み2 君に文句を言う奴は「所詮一流ではない」。
※五感バキュームが君の癖や環境や適性をエンジン・燃料にして、
その時代の栄養の溜まり場を喰い荒らしますように。

ギリシャ彫刻や九成宮あたりまでが神領域で、
1300年くらいまでは顔、
1600年くらいまでがバストショットで、
それ以降はピカソもレンブラントもエログロ染みて来る。
20世紀半ば以降はク〇ニしないとどうしょうもない。排水啜って古典に肉薄みたいな。
「人間の心の有り様」と「世間の栄養の溜まり場」。

【近代の芸術家に於ける「我の強さ」と「宇宙的調和」】
「我が強い」ことを指摘して「あいつは宇宙的調和からは程遠い」なんて
言ってるようじゃダメなのは当然だよね。
「赤ちゃんであることを貫き通すために体壁を厚くする」なんて
近代の芸術家の基本中の基本だったりするわけで、
それのヴァリエーションをお楽しみください。
「芸術家たるもの」
芸術家は赤ちゃんだが、その赤子性を守るために何らかの仕方で体壁を厚くし自らを武装する。あるいは「貯水タンク」のようなものも持っており、「世間からの毒を吸い込みつつ、そこで分解・消毒・吸収」したりする。その貯水タンクが十全に機能するかどうかはその人次第。そのタンクに貯められた毒を若い時から取り入れられる人もいるし、全身がかなり成長してきた段階で取り入れ始める人もいる。それはその人次第。ところで「タンクなんて無くても良い」というのは非芸術家的人間で、芸術家は「とにかく吸い込んでしまう」のである。福田恆存が芸術家とは「呼吸が莫大な人間のことだ」と言っていたが、クジラみたいなものでゴミでも魚でもとにかく吸い込むのである。しかしそれこそが因縁怪奇諸行無常のこの世の実情なのであって、ゴミは魚でないとどうして言えよう。宇宙そのものを吸い込む形で、そこから自分なりに栄養を吸収して大きくなっていく。そのために先程言った「貯水タンク」のようなものが必要で、それが無いと全身に毒が回るか、世間の常識に流されるだけになってしまう。「タンク」や「体壁」、そして自らを宇宙に晒すという「ピエロ性」のために芸術家はまさに「時と場合に応じて」狂ったようになってしまう。特に近代以降「バランス」が崩れたために露骨にB級C級になっていくわけだ。ピカソマティスは言うに及ばず、あるいはレンブラントやベラスケスもアンバランスな時代的傷跡を拭えない。無感覚に生きて「バランスが良くきちんと出来ている」作品を残した人間など、それこそどこにでもいるのではないだろうか。しかし芸術家はそうではない。
1600年以降の芸術家の「体壁タンクピエロ」ヴァリエーションを研究する学問はオーソドックスなはずだ。実際にあるかどうかは知らないけれど。

例えば戦後日本だったらどこに栄養が溜まってそう?アニメ漫画とかだろ。少なくとも鹿鳴館でないことは確かだ。

ちなみに俺がこういうことに気付いたのって、中二ね。
中二病。

『美味しんぼ』って近代的芸術家の変遷の象徴と言っても良いよね。

【芸術家は同じことを言い続ける、そして花鳥風月】
「同じようなことばかり言ってるんですね」
「病気の人が同じような治療ばかりするようなものです。一回一回が不可欠な真剣勝負。芸術家にとってその表現は避くべからざる必然であり本能なのであります。同じことばかり言わない芸術家はいない」
芸術家なら結論は同じになる。同じことを言う病気に掛かっているようなものだからだ。その同じことに全てを巻き込み、巻き込まれた全てのものの意味を変えてしまう。それが芸術だったりする。あるものの意味が固定的でないことを思い知らせ、現実を見る目も変えてしまう。

【芸術家の定義、同じことを繰り返す、本能】
基本的に私は同じことばかり言っています。まあ、なんかの病気なんじゃないかと言われることもあるんですが、確かにそういうものかもしれません。ただ、人間って言うのは毎日呼吸してますね。食べます。寝ます。挨拶をします。ある職業に就いている人はそのことばかりやっているはずです。
芸術家の定義の一つに「食欲や性欲と同じレベルで、その欲望がある」というのがあります。例えば絵を描く人だったら、食欲レベルで絵を描きたいという欲望を持っている。絵のことばかり考えているんですね。それは一見同じことばかりやっているように見えるのですが、世の中は移り変わり、自分が日々受ける刺激も変わっていきますから「そのなかで同じことをやるとはどういうことなのか」ということなんですね。
食欲があるから日本にいようとエジプトにいようと北極にいようと人は食べます。北極で食欲を満たすためにはどうしたら良いでしょう。氷を溶かして水にして、アザラシでも捌いて食べるかも知れません。普通「アザラシを捌く」なんて凄まじいことはしませんでしょう。でも、人はそういう状況に置かれればアザラシも捌くんですね。血だらけになりながら。これは食欲というものがそれだけ人間にとって本質的で掛け替えのないものだからでしょうね。寒い中でも必死になって食料を取りに行くでしょう。「撫でたい」くらいの欲望だったら、凍死するかもしれないのでキャンプの中に引き籠っているはずです。
芸術家の欲望、同じことばかり言っている欲望というのはそれと同じくらい本質的なものということですね。その欲望を基本にしながら移ろう社会に相対しているわけですから、何事かが本人の中で起こっているはずです。食欲・性欲を基本に人生が回って、経験も理性も積み重なっていくのが普通なら、芸術家の場合、そこに絵画欲なり音楽欲なりが食欲と同じレベルにあるということになります。絵も上達するでしょうし、その人の心も絵画欲を元にした色々なものに埋められているはずなんですね。それが結果的に「絵を描く」と言う作業に結実するわけです。
同じことばかり言う人も、本当に単純に何も考えず同じことばかり言っていては単なるアホかもしれませんが、何かがその人の中で熟成されているのかも分かりませんね。
プロ野球選手もバットばかり振っていますが、何も考えていないことはないわけで、色々考えた結果、野球選手として人生を過ごした結果、フィールドに立ってバットを振るという同じ行為に結実しているわけです。

断食すると皮膚の油を補うために内臓の奥の方に溜まった油が表面に出てくる。その油こそ自らを映し出す鏡だね。癖から何から含まれている。その誤魔化しようの無いものとどう対話するか。化粧で表は繕えても、〇〇コの匂いはそうはいかない。
豚の油も焼けば美味しいが、生では不味い。
臭いものでも組み合わせ次第で良い香りになる。
臭味を取り除くにも何故臭いのか分析し、除去方法について検討せねばならない。
臭味を利用するにしてもその臭味の何たるかを分析し、適格に使わねばならない。

芸術家も何事かを編集しており、その情報は濃厚である。その情報が解凍しやすいかどうか。そもそも人が集まった時点で温度は上がるわけで何とかなるってもんだ。

【興味の対象が自分】
芸術家が興味を持つ対象は結局のところ「自分」である。他人事は所詮他人事でしかない。自分がどのようなものであるかは神秘であるが「病気及びそれに関係する全て⇒切実」という定義は有効な定義の一つにはなろう。切実なものでなければ体重も乗らないし、力を入れることもできないし、融通も利かないし、細かいことに敏感になれない。そうしようとも思えないだろう。私の「病気に関する報告」は他の人にとって役に立たないか。直接的・間接的に役立つだろう。

・米良の『かれん』を聴いていて「もうあの頃聴いたようには聴けないな」と思って書いた。
 焦りと不安があってこそ身に染みるんだよね
【自分を薪にしてレクイエムに浸る、怒りとニヒリズムと無力の中でそれでもこれだけは】
「種に水をやる」とかそんな「学習的な意識」ではないねw 「安らかに眠れる場所を見付けたから、そこで寝る」と言った感じかな。「これ以外イヤだ!ここが良い!」ってね。でも「あれも嫌これも嫌」の中で「これが俺の世界なんだ」と言えるものって本当に大事だよね。大事って言うか、それが君にとっての本質、「帰るべき場所、目指すべき場所、核となるゼロ地点」なんだろうね。怒りのなか、ニヒリズムのなかで「これは。これだけは生きている実感を与えてくれる。安らかな幸福を実感させてくれる」もの。それが一番大事。
俺の場合、20代前半から半ばまで本当に悩み苦しんでたの。だからずっと寝てたw 怒鳴っては寝、怒鳴っては寝。それしか出来なかった。今振り返ると「サナギだ」とか言えるかも知れないけどw 当時は先も見えないし、とにかく不安だったよ。自分の作りたいものも全然形にならなかったし、跳梁跋扈する偽者どもに怒り狂うのが精々だった。しかもニヒリズムに陥って「何をしても無駄だ。価値のあるものなんて無いんだ」と思ってた。
で、まあ、そんな時代にさえ「無意識的に繰り返し浸っていたもの」「安らかに眠れる場所=毎日の墓地」となっていたのが具体的には、
・『ムーミン』
・『ワーズワースの冒険』
・『銀河英雄伝説』
・『第四学区』
・『虎ノ門 どっち』
・『TBSラジオ 伊集院・爆笑問題・極楽とんぼ』
・『テントでセッション 松岡正剛・美輪明宏』
・『ドラえもん 海底鬼岩城』の出だし30分
・米良美一の『かれん』
・福田恆存、小林秀雄、三島由紀夫の講演会
・ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調第二楽章』 サンソン・フランソワ、アンドレ・クリュイタンス
だったかな。ひたすらひたってた。それ以外何も出来なかったよ。読書はそれ以前の方が多かった。20半ばは泥のように眠りながら聞く毎日だったよ。自分へのレクイエムだったのかなw でも本当にそうかもね。自分を一旦死につかしめて、そこから再生を得ると言うか。「レクイエム=焼いて残るもの=再生した時の本質となるもの」と今振り返ると思う。
で、それって結局どういうものかと言うと、俺の言い方だと「五体満足で持続可能な心地良い世界」ってことになる。その逆が「末梢神経の瞬間的な痙攣」。例えば自傷行為とか八つ当たりとか薬物依存とか鬱病とか苛々とかストレスフルな毎日とか。ムーミンはいつも幸せそうじゃん。「リストカット癖のある鬱病の苛々して断続的に叫ぶキレキャラのジャンキー」とかじゃないでしょw
言ってみれば、ムーミン谷のムーミンを目指すためにいつも寝ながらレクイエムを聴いていたのかも知れない。「不死鳥は燃え尽きた灰の中からこそ新たな生を得るのだ」ってやつよ。読み散らかし聴き散らかしたものを一旦全て焼いて、焼いた灰の中からムーミンが出てきたw
勉強とかそういうことではなく、何かに役立てようとする意識的な取り込みでもない。目的意識を持つのではなく、焦りも逃避も夢も希望も全てひっくるめて「自分を薪にしてレクイエムに身を委ねる」っていう時期が必要なんじゃないかな。再生のためには、まことの花を咲かせるためにはね。それは意識的に設けるんじゃなくて、自然とそういう時期が来るのかも知れないけどね。

TVが多いのもポイントで、やっぱり音と映像と言葉が一体となっているものを欲したのかも。

集めて練ったり篩にかけたり、喰い散らかして倒れたら、やがて花咲く種になる。倒れ時期は「これで良いのか」って焦りや不安があるだろうけど「別に大丈夫だよ」と言っておきたい。まあ、試行錯誤するためには良い時代になって来ているし。倒れ時期に「ひたるもの」は本当に骨身血肉になるよね。

赤ちゃんは我儘だが、この上なく自然に見える。
赤ちゃんが求めるものは移り変わるが、全身全霊で何かを求めている。
求めていたものが得られるとそれを捨ててまた泣き出す。
それが人間の不可避的な存在様式なのだと思う。
喰っても喰っても腹は減るが、喰わずにはいられない。
俺は猛烈に俺であるのだが、その実、中身など無いのだ。
俺という不定な分節だけがあり、とりあえず何者かになってみる。
何者かになった俺は何故か何かを求める。
宇宙が様々なものを生み、生み出されたものは何故か何かを求めることに似ている。

芸術家は自分にとってクリティカルなことを批評の対象にしなければならない。近代の作家なんて皆そうだよ。あの膨大な評論の数を見よ。それらは面白い。知識人の「衒学的なくだらぬ文章」とは違う。
谷崎が良い例で、谷崎は天才と言うより天然って感じだが、自らの資質との格闘はしっかりしていた。「物語の豚」呼ばわりされたのも、既にその時「語り物」の文体に、自らの行く先を感じていたからであろう。

環境や五感や癖に対して「謙虚過ぎる」ので、
傲慢になったり、俗物になったりする。
(人間には様々な欲望があるので、俗っぽいと判断される欲望も持つ)
職人的に静かにコツコツやっているだけではない。
「謙虚と傲慢」を併せ持つのは「子供っぽい証拠」とも言える。
子供の欲望って俗っぽく幼稚とも言えるし、神聖な感じもするよね。

「自分の癖と向き合うか、自らを洗脳するしかないですね」
「しかない、ということはないと思いますが」
「ええ。挑発的な言い方でした。では、例外を挙げて検討していきましょう。
 数がどれほどになっても構いません」

【元来に浸って立ち上がる】
引き籠って寝そべって過ごすようになってからは「引き籠って寝そべっているような文章」しか書けなくなったんだけど、そこから立ち上がったんだよね。「引き籠って寝そべっている」のが俺の元来な気がする。ならばそれまでの俺を引き受けた上で「引き籠って寝そべっている俺」になって、そこから立ち上がった文章でなければ真の俺の文章でないのかも知れない。
20歳の頃の俺の文章は速くて鋭利だけど、ケバくて刺々しい。若いんだよね。若いから当然だけど、あれじゃあダメなんだ。
何かの切っ掛けで倒れて転んで「スタート地点に戻る」ってなことになったら、それが「新たなステージの始まり」なんだよ。
PS 次章の君が楽しみでならない

【種づくり、何もできない時代に縋れるもの、わびさび】
昔、線ばかり書いていたことがある。小さな紙に100円の固いペンで。ジグザグ、四角、放射線。紙一杯に真黒になるまで。空虚な時間を埋めようとしていた。ナンセンスに散らばる自分を纏めようとしていた。丁度その頃は「あれも嫌だこれも嫌だ」の全盛期。かと言って出来ることはそれ以外に無かった。
小さな紙に刻まれた精神病者のような線描は、書いている間も、書き終わった後も、私を安らわせた。ある意味「マイナスが無い」と言ったところだろうか。美しい陶器の欠片のように。それ自体感動的でもないが文句もない。
線を書き続ける。人工的に埋められた時間の縋るような祈りの果て、「文句なき欠片」が出来る。欠片を並べていった。悪戯のように真黒な紙。紙の束。それらは感動がないだけではなく私の理想からも遠かったが、「なんにも出来ないや」という空虚さからは解放してくれた。「全然足りないけどやり遂げた」という実感を私に与えた。
「わび」とは「詫ぶ」の連用形。足りぬところを謝罪する。
「さび」とは「錆ぶ」の連用形。枯渇して生命を失う。
黒い紙は、私にとっての「わびさび」だったのかも知れない。
「全てが嫌だ→黒い紙→欠点がない→足りぬところを心で埋める→理想を見出す」
「ニヒリズム→黒い紙→骨格だけ→本質実感→活き活きした時間」
以前「自らを火にくべて、レクイエムを捧げる時間を持つべきだ」って言ったけど、今言ったことも同じように大切で、それは何か「種づくり」のようなものかな。種としての「わびさび」を作る。そこに「理想」や「あるべき自分」っていうものを見出せるようなね。理想ばかり高くて、何もできない時期って本当に辛いよね。でも人生長いから、引き続き「あれもイヤこれもイヤ」で良いんじゃないw うん。でもそんな時でも出来ることはあるだろうし、何とか見付けて何かやっておくと、いつか花開くと思うよ。そんな時だからこそ「必死に握り締められる種」が見付かるのかも知れないよね。俺はよく「全体重を乗せられる創作物が大切だ」って言うんだけど、それは未だ皆には遠いと思う。今は「ノイローゼで半狂乱の君が縋り付いて祈れるもの」それを見付けられれば御の字じゃないかな。焦ることはないから、とりあえず死んだりしないようにw
ちなみに「陶器の色見本」ってあるじゃん。ああいったものも当時できれば作りたかったんだ。実際には出来なかったんだけど。単純な色見本って言うより小さなオブジェのようなもの。「下手でも形と色に納得できる何か」を作りたかった。それはそれで俺を励ましてくれたかも知れないよね。
何も出来ない時代に、我儘な君の「あれもイヤこれもイヤ」を潜り抜けて、「欠片でも良いから何とか成し遂げられる種づくり」、そういったものが見付かると良いねというお話でした。

【欠片を握り締めるところから】
「わびさび種づくり」に関連して言うと、別に自分が作りたくない作品でも、とりあえず完成させると、まあなんか「作った感」はあるじゃん。そこから何か展開することだってあるだろうし。
一方「作りたい作品を作れない。でもその欠片でも良いから作りたい。生み出したい。表したい。縋りたい。祈りたい」って気持ちもずっと持ち続けるべきって言うかさ。それがないと「結局お前のテイストはどこへ行ったの?」ってなことにもなる。
まあ、もちろん何がどう繋がるかなんて分からないけど、俺としては何て言うか「自分のみっともない試行錯誤を馬鹿にするな」って感じかな。「自分と自分の憧れの接点」なんてそんなものじゃない?「欠片を握り締める」ところから始まり、「欠片が種として育っていく」って言うかさ。「縋り付くような祈りを遠慮せずに続けてください」というお話でした。

【実感や経験に基づいて】
女性用の下着を作っている男性は幾らでもいる。
生理用品を作っている男性も少なくないだろうね。
でも経験に基づいて生理や妊娠について語る男性は、
まあ、いないはずなんだ。
PS 「いや、まあ、お前等そもそも芸術家じゃねえじゃん」

【ドイツロマン派、悩ましき日々花開く時、安心と希望】
「若き日々は悩ましく眠る。悩ましく眠る日々のいつか花咲く」
20代前半、ドイツロマン派ばかり読んでいた時期がある。ノヴァーリスやヘルダーリン、アイヒェンドルフやハイネ、シュレーゲル兄弟。今は彼等がどのような文章を書いていたのか忘れてしまった。ただ特に繰り返し読んでいたのは文庫本の巻末についていた彼等の短い伝記だったことは覚えている。恋に破れたか雷に打たれたか、右往左往しながら精神を病んで、いつか死んでいく彼等の人生は、読む度に私を安らわせた。彼等の伝記を読んで私もこうなって死んでゆくんだと思った、ことはなかった。
ぼんやりとした不安と何かへの憧憬の中、遣り切れない魂を引きずって、歌っては死に歌っては死んでゆく彼等の姿は、まるで私の若い日々そのものだと今振り返って思う。明けても暮れても遣る瀬無い毎日。私も譫言を繰り返しながら、寝て起きて寝て起きて、彼等も私に起こされて、歌って病んで寝かされて私が起きてまた起こされる。
人には「もやもやした思いを確固たる形にすると落ち着く」という傾向があるようだが、歌の翼に思いを乗せて、精神を病んで死んでゆく彼等の人生は、確固たる型として完成しているように思えた。悩ましき日々の理想形、九成宮を脇に置くように、彼等の「完成したぼんやりとした不安」に繰り返し縋り付くことによって、私は精神的安定と悩ましき日々への肯定感を得ていたのかも知れない。
そして200年前に生きた彼等の「悩ましき日々に生み出された作品が詩としてあるいは歌になり人口に膾炙され古典として今に受け継がれている」ことも200年後に生きる私は知っている。
彼等の作品と生涯は「靄のように不安な遣る瀬無い若き日々が実は種として正当であるのだという安心」と「その種もいずれ花開く時が来るのだろうという未来への希望」を私に感じさせるものだったのだと今振り返って思う。

【同時並行の不協和音、葛藤】
「ずっと気持ち良くないと嫌」「より良い気持ち良さを味わうために我慢」
「同時並行的」「段階的」
「和音」「不協和音」
「和声法」「対位法」
人間が段階的に淡々と成長していくと思ったら大間違い。
欲望は分散し、引き千切られ、悩みと混濁の中で成長していくことこそ「普通」だろう。

【人生経験】
女にはヒステリーがある。
男には信仰心がある。
どちらも無ければ、苦労することになるだろうね。

【「それ×そいつ」で思い遣りを育む】
ヴァレリーが「ヨーロッパも近代に入るまでは屁理屈野郎と馬鹿にされていたのです」と言っていた。欧米のパワーを賞賛する人達も近代以前の欧米を見れば「屁理屈野郎」と馬鹿にしていたことだろう。ところで近代以降も近代以前の西洋文明は生まれ育ってゆく。近代ならではの病気を抱えて。
西洋の歴史だけではなく、近代の特徴、その国その人の特徴を考慮しつつ、西洋文明がどう育ちゆくか見守りたいものだ。フランス料理はフランスだけにあるのではない。世界各国で育ってゆく。ならではの問題を抱えて。
西洋文明に思い遣りがあれば「西洋文明×X=大体こんな感じかな」と幾通りものケースを思い描けているはずだ。結局のところ「それ×そいつ」なのだから「根本を見据えながら具体的な事情を思い遣りましょう」というお話でした。

【和ゲーRPGはお前等だろ】
「和ゲーRPG? 別に和のテイストを出さなくても、ドラクエやFFこそが日本的なるものだよって言いたいのね。そう思うよ。そしてその意味で和ゲーRPGは俺ではなく、お前等だろ?」
ちなみに俺は意識的に日本語のリズムに取り組んでいるが、散文詩も書けるよ。
お前等と来たら骨の髄まで音頭だよね。
自分を突き放して観察すると良い。化粧で面は繕えても、〇〇コの匂いはそうはいかない。
PS 俺の選んだ写真も見といて

【猿は猿なりに使え、アニメ漫画料理、必要と本能に応じて魂を乗せろ】
「パリの印象派の画家たちは、江戸の木版画を、行きとどいて理解したから利用することができたのではない。彼ら自身の経験が、あらゆる道具を利用しつくさせずにはおかないほど激しかったから、たとえ理解を絶した遠い文化の結果でさえも、忽ち自己の目的に奉仕する道具と化したのだ。明治の油絵画家たちは、印象派の技法を十分に研究し、理解し、習得したはずだろう。しかもその技法は、ほんとうに彼ら自身の道具にはならなかった。いや、油絵の画家に限らない。明治以後の日本の知識階級の特徴は、西洋文化との接触のあらゆる機会に、新しい道具をその使い手との関係からきりはなして、抽象的に拾い上げ、研究し、分析し、利用しようとしたことだといってもよいだろう」加藤周一「物と人間と社会」
 アニメ漫画料理などは日本人の奥深い本能的欲求を満足させるために世界中のあらゆる素材を用いながら我が物にしている。必要もなく有難がっているのは猿真似に終わる。猿が「アニメ漫画料理の素材の使い方は本家と違う」と皮肉ったところで、猿は所詮猿なので、本家本元にはアニメ漫画料理の方が有難がられる。素材たちも「俺らをそう使ってくれたか!」と驚き喜んでんじゃないの?

【答えは最初に出ている】
グールドがアラン・ターニー訳の『草枕』に出会ったのは1967年。『ブラームス間奏曲集』の録音が1960年。グールドのブラームス間奏曲は草枕の即身成仏。最初に答えを出していたのだ。さすが。
http://1000ya.isis.ne.jp/0583.html
http://1000ya.isis.ne.jp/0980.html

【石山切貫行集、定信、ビートルズ、一万時間の法則】
ウィキペディアに詳しいが「石山切貫之集」の定信は手も速かったらしく、結局「ならではの良さを本能的に知っている人間」が量をこなして「旨味を吸収する(自他を見渡しいよいよ練り上げる)」しかなくねえ?
歌に関する「俺の一万時間」は未だ「プロではない」と言った感じかな。俺なりに詠むために必要な脳トレは合計で一万時間を遥かに凌駕しているものの(主に神学・哲学・受験勉強・ゲーム)、それは「外から盛り立てている(盆地?外堀?高原?)」と言った感じで、肝心の「歌を詠む」ことそのものに一万時間を費やしたわけではない。自分のこれからに期待したい。

【目的・寄り道、ブラックホール・赤ちゃん】
英語の場合は出来事を整理してから言葉を並べるが、日本語の場合は膠着語(and自然現象的な物理的語順)なので整理せずに話し始めても何とかなる。文法や語順や単語を間違えても、「てにをは」や「品詞」を工夫すれば、文末までには取り返しがつくことが多い。
散乱するイメージに付いてゆくような文章が生まれるのもその為で、終わりを考えずに這い這いしていけば良いのだ。結果として「それが歴としたコースになっている」かも知れないわけで、日本庭園なり随筆なりを思い浮かべよ。頭の中で予め纏めてから話し始めると、切り落としが大きくなる可能性が高い。度合も強い。スタイリッシュになるだろうけれど。
日本語的な言語のデメリットとしては後先考えない、計画性が無い、まとまっていない、本論と関係ない些末なことに引き摺られる、枝葉末節に拘るなどで、要は赤ちゃんである。
私の場合「大目的に対する意識が病的」であるから、赤ちゃん的な這い這いを続けながら、大目的がブラックホール的に私を吸い寄せることでバランスを取っている。赤ちゃん力を低下させることはしない。感覚には正直でありたい。ただ赤ちゃん的寄り道をする時も、絶えず大目的から逆算している。
【大目的への百鬼夜行】
「目的地に着く」ことが大目的だった場合、途中でソフトクリームが目に入ったらフラフラと近付くのだが、「目的地に着く」という見地から「ソフトクリームとは何か・ソフトクリームを食べるとは何か・その影響」などを検討して、ソフトクリームに近付くのだ。
「切る」と言うより「仕えさせる」に近い。ただ一度の旅でそれを何百回と繰り返すため、百鬼夜行的に重荷になることも多く、私が外出を嫌うのもその為だろう。一度の旅で加わるメンバーが多過ぎて、旅自体が疲れるし、帰ってから整理するのも大変なのだ。レギュラーメンバーを順調にレベルアップさせるためにも同じことをすることが多くなる。同じコースの場合、新たなメンバーを加えるような感覚は自然と差し控えられる。

【ガラクタ探し・バラシ・組み直し・レギュラーメンバー揃う・こち亀的世界】
「無意識フィルターなしで全員を面接・仲間を探す機会は少ない・レギュラーのための生贄」
「無意識フィルター強めで少数を面接・仲間を探す機会は多い・平均的に育成」
しかしこう考えると「昔は怨霊に憑りつかれていた」感じだが、「今は怨霊をバラバラに解体し、自分好みの守護神・召喚獣に合体変化させた」感がある。納得のいくメンバーが揃ったところで、そいつらをレベルアップさせる旅の途中って感じかな。
私の場合30歳を過ぎてやっとレギュラーメンバーが固まって来た。早いのか遅いのか分からない。まあ、俺的なコースを歩んでいる者としては早いのだろう。

マンガに出てくるようなガリベン君なんて現実にはいない。
ただ「君の目にガリガリベンベンしているように見える人」はいるんだろうね。
ちなみに、俺は感受性に自信があるんだけど、
その柔らかい感受性を守るために、ガリガリベンベン体壁を厚くしたんだ。
精子を迎撃して、良い精子のみを選別する膣分泌液みたいなものだね。

【文学者・批評家としての貫之 長谷川政春】
彼の存在そのものの核であった原イメージを「われぞわびしき」とみている。そしてこの原イメージを、イメージの原形質と呼ぶ。
人知れぬ思ひのみこそわびしけれわが嘆きをばわれのみぞたく
わが恋は知らぬ山路にあらなくにまどふ心ぞわびしかりける
これは古今集に採録されている貫之三十歳前後の詠であって、彼の「わびし」歌は、決して彼の老いに由来するものではなかった。貫之におけるイメージの原形質は、原形質なるが故に彼を内奥から呪縛し、その営為である作品を規定する。すると作品によってそれは主題化され、逆に創造主体である彼自身を呪縛しないではおかぬ。作者→作品→作者→作品→……の呪縛のサイクルである。それは一つの秩序とも呼べる。このサイクルのうちで貫之におけるイメージの原形質「われぞわびしき」は主題化され、更に彼の内部で「他者」として先鋭化される。この先鋭化が呪縛のサイクル、つまり秩序を破壊する。土佐日記の結語「とまれかうまれ、とく破りてん」のモチーフがそれである。新しい世界の誕生である。

人生と作品とモチーフは三位一体でなくては魂が満たされない。
塗って塗られて塗られて塗って。
終なき油絵である。

〇液の川はどこだ!!〇液の川はないのか!!
ならばよし。俺は清らかな山に登る。
詩人とは誰よりも滞りを憎む人種である。
現実がそれを許さぬなら、
汚泥に塗れることを潔しとする人種である。

1、影響を受けやすく、我が弱い 
2、影響を受けやすく、我が強い 
3、影響を受けにくく、我が弱い 
4、影響を受けにくく、我が強い 
俺の場合、2であり、不気味な食卓。
藝術家的資質の一つに「子供のようにきゃっきゃきゃっきゃと乗せられやすい」というのがあるが、
一方で我が強過ぎるので、得も言われぬ混ざり方をするのである。
PS クリムト

お前の癖がお前なりの古典だ。
向き合って消化しないことにはどうにもならない。
そしてお前の欲望が大古典に直結することを祈っている。
古典の条件
1、古代のある時代までに作られて完成された思想がその中に語られている。
2、そのテキストの価値を皆が共有している。解釈の歴史さえも共有している。
3、そのテキストを導く人が必要で、学問が伝達されるための組織的体制も必要。

野生動物は己の長所を磨き上げることしかしない。
藝術は、人間であるお前に
「お前という野生動物」であることを求めている。

昔は写真にしても、感情過多の臭いような写真が好きで、
それは今思えば「自分の世界」を作れていなかったので、
「臭い発生装置」のようなものを求めていたのだ。
「臭い発生装置よ、世界をその臭味で満たしてくれ!」ってね。
自分の世界が落ち着いて来ると「持前のおしゃれさ」を軸に勝手にシャレオツが集まって来た。
PS 押し返したい

俺が20歳くらいで文学的なものに惹かれ始めた頃、先ずこういうのを書いてみたいなと思ってイメージしたのが鴎外の史伝三部作のような作品。作品の存在はもちろん、鴎外がどんな人かも知らなかった。欲望が老獪なんだね。


まさに無駄からの遭難で、無意識・潜在意識まで「お前になれ」というのが俺のお勧めの成長戦略であり「近代というどうしても無駄を吸収してしまう時代の戦略」「芸術家になるには戦略」なのだが、一方で俺は「ゲーム好き、職業訓練の連続が教育、せっかち」なんだよなあ。
(砂鉄)
肉体も精神も人間の体、使わない知識も使わない脂肪も、重りになって動きを鈍くするわけよ。「遭難した時にしか使わない」というのも、非常によく似ている。ため込んだ知識、ため込んだ脂肪、どちらも遭難時には役に立つ。逆に言えば遭難するような冒険をしていない人間にとっては完全に無駄だ。現代人が異世界転生という「遭難」をエンターテイメントに求めているのは、自分の頭にため込んだ脂肪の使い道を無意識的に求めているのかも知れないな。

「甲骨文字から楷書への流れ、ドイツ浪漫派、現代に於けるカオス、その共通点と相違点を述べよ」と言うお題。

「なんとない思いつき」も「明確な理想」に育っていくから、焦りなさんな。皮肉られても挫けんな。「あるべき理想形=イデア=idea=思い付き」だからね。

マグロは回遊魚で泳いでないと死んでしまう。脳ミソも回遊魚で動いてないと死んでしまう。暇を潰そうとするのだ。それでも「暇でニヒルでアパシー(無感動)で」となると、溺れる者は藁をも掴むで、脳ミソも海面へと必死に手を伸ばす。その時に掴んだ藁こそ、後の何かになるんじゃないの?その意味で「暇でニヒルでアパシーでおめでとう」って感じで、それらは大いなるジャンプ台なのかもしれないよね。

フェティシズムとは「一部、端」に対する執着とも言えるが、全ては「一部、端」なので、「冷静にバランスを取る」ことによって、品格も出ようと言うもの。
全体のバランスを考えず、盲目的に目の前の物に耽溺する。谷崎の春琴抄のようなもので超近視眼的と言うより、目が無いわけだが、刻一刻を神秘的に感受できる。その莫大なニュアンスを吸い取った上で、刮目する。塙保己一、伊能忠敬になるのだ。凄い奴には励まされるね。
実際に甲骨文字から楷書だからね。楷書はニュアンスの塊である。「記号的」とは正反対だ。複雑な要素を抱えれば抱える程、全体のバランスを取るのが難しくなる。2つの同じ重さでバランスを取るのは簡単だが、100の異なる重さで中心点を見付けるのは困難を極める。
適当な型に当てはめるのではなく、お前ならではの要素を抱えつつ、そのバランスを取れるかどうかだよね。「家庭生活」など、その最たるものではないだろうか。仕事、恋愛、親、経済状況、病気、食事、S〇〇などなど。そのニュアンスの塊たる要素を無視して「バランス」などと言っても何も始まらない。
これによって複雑さを言いたい。バランスを取るって難しいって言いたい。そもそも世の中って、そういうものの積み重ねと折合いでしかないって言いたい。適当な型に当てはめて「俺はバランスが取れている」などと言っても詮無いことだよ。そもそも、そんなんでバランスを取っても「Easyコースをクリアしました」ってイキってるようなものだからな。

「ああしたいこうしたい、あれが好きこれが好き、ここが堪んない」、それをしっかりした形にしたい欲望に誘われて、シャキッと楷書化するわけで、根本の欲望が無い楷書など、ただのワープロ文字である。俺自身を楷書化せねばならぬのに「俺の不細工な拘り=俺のテイスト」を捨ててしまっては、一体何を形作ろうと言うのか。所詮他人事に過ぎぬものなど俺には無関係なのだ。

植物は宇宙的調和に近そう(?)だが、人間ともなると体壁も厚く、宇宙的調和を忘れがち(?)である。哀れ人間、宇宙の本懐を忘れ、薄気味悪く、狭い牢獄の中で終始している。だがそれが人間なのだ。即ち人間とは「フェチな存在」と言いたい。ケチというなかれ。フェチである。
端っこに噛みつき、無くて七癖にしがみ付いている。だがその「凝り」からこそロケットを発射するのだ。重い重い頸木である。長い長い鎖である。ご丁寧にスイングバイまでして、重力に逆らって、宇宙に飛び立つのである。
カーニバルから零落し、わざわざ腐った鎧をまとい、そこから宇宙的調和への帰還を果たそうとするのだ。人間には植物的動物的天使的側面があるとされ、その意味で、人間は万物を乗せるノアの箱舟である。そりゃ重たくもなろう。そんなかったるいメディアたる人間がエクソダス(?)する所に凄味がある。

「自分の癖を勝たす」と言う事。

古い古くないと言うより、通史的に見ると、そもそも人となりが分かる。テイストは誤魔化せません。縄文人がゼロ戦を予測していたわけではないが、振り返ると通ずるものはあるわけです。

聖徳太子の時代から日本の楷書にまともなものはなく「しっかりした楷書を書けるようになってから仮名書を書け」と言っていると、日本人は永遠に仮名書を書けない。寝殿造りや石庭も、中国的建築物を建てる前に生まれた。と言うより今に至るまで日本にはヴェルサイユも紫禁城も無い。
日本人は遠近感に疎いが、中国の文化芸術は遠近感が本能的にインストールされている者から繰り出されるものであろう。楷書もまた然り。と言うより楷書こそ中国的遠近感の本質であり要に見える。
日本人は花鳥風月に思いを託し、ひらがなのあの線の微妙なニュアンスこそ平安朝の雅である。それは個性や遠近感、物質的、人臭さを滅却したうつろひとおもかげの表現である。ちなみに遠近感の無い芸術は西洋中世の絵画よろしく世界に少なくない。
遠近を感じて、リアルさに感動し、カッコいいと思うこともあるが、だがやはり「客観的形、世界の把握」に心の少なくない分が持っていかれる面はある(それが悪いという訳ではない)。ちなみにケルト学者の鶴岡氏も何かのあとがきに「説明と装飾」的な対比で、そんなようなことに言及していたように思う。
 では日本人は書道的な観点から漢字を学ばなくて良いのか?平安時代にも漢字を知らない人の手があるが(本当は知っていたのかも)、やっぱりウネウネし過ぎて変である。「完成度高く楷書を書こう」などと言う思い上がりは捨て、「習字」を徹底すると良い。「字を習う、字母を知る」ことで、色々と色々ですわ。
 一方、日本からも遠近感の天才は出るのであり、ガチガチの楷書を極めたい人はそれを貫いてください。その時に日本の文化も役に立てることはでき、「日本人だからこそ遠近感を極められた」と言う流れになるかも知れません。日本人の平均は痩せているが、お相撲さん的例外もおり、外国に勝っている。
ちなみに日本語と言うのは一文字一文字に意味があり、活用があるように、日本の陶器はあのニュアンスであり、西洋近代絵画の油絵的ニュアンスもそうだが、刻一刻が超短いわけである。中国の書法でも近世(?)に入り、瞬間瞬間360度に飛ぶ書法が確立(?)した。
ボールは一直線(?)に飛ぶしかないが、蠅は次の瞬間「球体のあらゆる方向に移動できる」のと同じである。即ち「日本人の刻一刻性」から「蠅の神様=ベルゼブブ」が発生するというのが俺の預言書であった。

何故この世には複数の言語があるのか。
何故ある個人が得体の知れぬ花の絵を描き(『花』というタイトルを見なければ花と知れないような)、私はそれに感動するのか。
個人の中には個人と集団の生存本能があり、それを突き詰めているからであろうか。それは「複数の言語の発生」と関係があるのか。
言語の形態は環境に寄る面も大きく(寒いから口をあまり開けずモゴモゴ言うなど)、それが個人でも突き詰められた場合、「その言語の極み」のようなものを見せつけられる思いがするからなのか。

100の領土を管理するのは大変で、理想の世界は作れない。だが俺の部屋だけなら出来るかも知れない。うろ覚えで申し訳ないが辻邦生さんが「古代から現代の芸術的変遷とは何だろうか。それは絵画史を見れば明らかである。それはクローズアップである」と言っていた。
私から言わせればフェティシズムを徹底することである。思う存分自分色に塗りつぶし、安心を得る。いかにも世界は小さい。しかし赤子もまた小さい揺り籠から育っていくのである。源氏物語も小さな世界で生まれた。ニーチェは「小さな物を愛しなさい。小さな物を」と言っている。
その安心、塗りつぶしからの自己確立だ。世界形成だ。全てを自分色に塗りつぶし、真っ青な世界が出来た。しかしそこには真っ青な人、真っ青なタンス、真っ青な窓、真っ青な景色が広がっている。十分に区別は付くはずだ。自由闊達に歩き回りなさい、あなたの世界を。
谷崎潤一郎の傑作は密室小説だ。『刺青』にしても『春琴抄』にしても『蘆刈』にしてもだ。谷崎は断じて近代の作家である。そもそも鴎外漱石からして近代を鋭く見通していた。谷崎は近代を前に自らの処世術を以て対策を示した。「この世界が醜いなら、美しい部屋に美女と引き籠る。刻一刻は奇跡の連続」。その安心を以て、世界をボーっと眺めよう。
三島の『金閣寺』もその観点から読み解くことが出来る。私はそう読む時もある。醜い現代日本も、納得のいかないこの現実も、自らの理想の変奏曲なのである。

ドラゴンテイル(ホーム、得意慣れ親しみ)「陶器の肌、陰影、レトロ調加工、感覚、感想の羅列、三島の仮面の告白、母性的包まれ、広隆寺半跏思惟像の反対側にあった仏像、俺が生来的にニュアンス芸術が得意であること、素材そのもの(あまり調理しない)」
ドラゴンヘッド(修行、理性)「日本画的大胆な構図、世界観、奥行き、三島の金閣寺、人間と言う複合存在、写真らしさ、現実存在、広隆寺半跏思惟像、九成宮醴泉銘、俺が占い師であり写真家であること、俺がリハビリとして写真を始めたこと、手を加えた素材(一見合わないような物でも調理の末に掛け替えのない一員となる⇒そうして世界を広げていく)」
※俺にとっての神学はその融合であるようにも思える。

「与謝野調×芥川風×俊成」が「素の俺」になる日に、またスラスラ名歌を詠めると思っているので、焦ってはいない。

「浮世絵は1人にして為らず」で、単純に浮世絵制作も複数で行う場合も多く、江戸の街も物も道路も浮世絵師一人によって作り出されたわけでは無い。
ところが近代化(ここでは社会全体に渡るような様式の崩壊、価値観の多様化、街もメチャメチャ、カオス化)すると、一人で「俺の世界」を作らねばならなくなる。「近代芸術の多様性と個性、チープさと窮屈さ」はここに由来していよう。
そして詩人(≒芸術家)とは「ずっと気持ち良い状態を求める人≒音楽の中を生きたい≒音楽とは様式の塊≒ディズニーランドや観光地でずっと夢心地」であるから、世界が雑音だと分かると、それを全力で拒絶し、猛烈な評論家になってしまう。
三島由紀夫が言っている通り、これが近代の宿命でもあり、近代に於いては「芸術家的気質≒様式的統一≒ずっと気持ち良い状態を求める」人ほど、評論家になってしまうのだ。しかもその評論は自らをもグイグイ傷つける。「これはまことに困った傾向で、モーツァルトの音楽のどこが評論であろうか?」
すったもんだがありまして殴り合いや激論の末にどうにかこうにか落ち着いて、近代の芸術家でも「My World」を作れる奴等が出てくる。
で、これは成長の仕方の一つの道標なのだが、「自分・モチーフ・道具手段」の三位一体とも言うべきMy Styleが出来て来ると、
そのスタイルで「他も塗ってみたくなる≒他のモチーフや道具も使いたくなってくる≒領土の拡大を狙いたくなる」。そのことでその者は新たな刺激も受けるし、作品自体が大きくなるかなと思いますね。

日本の強さ。 
完成度が高くその完成度に寄与するものを本来自由に連想できる(ガールズトーク的繋がり)
神代的感覚(マンガアニメなど例に事欠かない)
意味に囚われずモダン
ワビサビ

連綿
造形力(オノマトペ、マンガアニメ、運中供養菩薩)
天皇的な血統
受胎する(マニアック、オタク、その定義の組み合わせ徹底探求⇔定義替えに弱い)
「茶室のコギャル。掛け軸は宇宙で、そこから天の川が部屋に流れ込んでくる」

日本の弱さ
神経質、不安症臆病、フィードバック苦手、向こう三軒両隣、自閉症、鬱、
適所最適化で目的を忘れる、形而上的なものに肉感が湧かない、
キリスト教は神の国が本拠地(現実をゲーム的に眺められる)、
ユーモアセンスは非常に高いとも低いとも言える
細かい所に気付くからサムライもウォシュレットも生まれる

これを踏まえた上で、私がロシア好きなのは、
「倉庫がありゃ、後は俺がやります」と言う感覚が強いからだ。
ロシアって「捨てられない、ゴミカスチリ=雪のように全ては美しいからの逆上」⇒ネット
無論、参考になる人や物、授業は欲しいが、それはまさに「古典」だろう。
日本人は「反古典主義」で「所詮60年前まで感が強い」のと「フィードバックが弱い」のが嫌。
左脳が強過ぎて文字文字して輪郭がダセえ。
「向こう三軒両隣で数や技術を前提にif,then思考が出来ない=近代的でない」
即ち女っぽくて気持ち悪い。

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初登場第一位系【(俺なりの)陶器近代絵画、受験勉強、仮名書、俳句、写真、得意なゲーム、短歌和歌】
熟練もある【神学哲学】
結果的に熟練もするはず【詩】
熟練させた方が良い【仮名書】

・陶器と近代絵画。最初から目が良過ぎた。好みの変遷もあるがレベルが上がったと言う感覚が無い。
・受験勉強。中学の時はコツコツ勉強していた。高校生になると1年生の段階で、一気に大学大学院レベルで、文系偏差値は80(理系偏差値は40)。
・仮名書。臨書も出来ず変体仮名もほとんど覚えていないが、これも少し練習して納得のレベル。
・俳句。最初から高レベル。美意識、日本文学、哲学、編集術など全体重を乗せた。
・写真。写真は皆様そんな感じだろうが、そもそも俺は見る方が好き。選ぶ側。
・ゲーム。MW3DZ。これは初登場第一位過ぎるw
・短歌和歌。短歌和歌の練習ではなく、脳ミソの回路が落ち着くと、自然と詠めるようになった。

・要は俺は「回路を整えた挙句は初登場第一位モノ」以外、あまりやっていないのだ。「熟練・上達・ベテラン」を得ていない。
・いや、色々なものに影響を受け、回り回って落ち着く、成熟するわけで、簡単には言えないが、それにしてもだ。
・哲学や神学は常にやり続けている。実際に同じことを書いているが、それこそ望む所であり、落ち着きもし、定着もし、そこからまたレベルが上がる感覚もある。
・結局「それを続ける」ことこそ亀の甲より年の劫で、熟練や上達するならば、俺にとってその効果が表れるのは哲学神学なのだろうか。
・詩(俳句短歌和歌全般)については、結果としてついて来る感じだろうか。
・写真についてはディレクションをする。自分で京都の写真を撮るなどはあり得るが、これも人に任せたい。
・仮名書については引き籠って出来る故に、変体仮名を学び、必要な道具を揃えれば、自他共に認めるレベルまで行かせる自信はあるが、結局手を動かすのが面倒。
・料紙制作もやりたいが、これは陶器と同じく、他の人に任せたい。

・何故私がレストランに行くのかと言うと「私が料理人になりたかったから」「とにかく料理に興味がある」と言うのもあるが、「熟練や上達とは何事であるか」を身に染み込ませたいわけだ。
・「他のものではダメなの?」
ヒップホップはグローバルでクラウドなのが良いが、「歴史の浅さと個人的成熟」に関しては料理に軍配が上がるように思える。どちらも私にとって重要なのではあるが。
・料理の強さとは家庭料理からジャンクフードから伝統的お惣菜から高級料理まで繋がっている感があるところでもあり、それはクラシックとヒップホップが当然に合体している世界でもある。
・ヒップホップの場合、今の所「一人で哲学的探究をする」と言う面に於いてクラシックより凄いと言えない。
・ヒップホップの場合、今日始めたやつもセンスだけでサンプリングしてどうにかなるので、俳句レベルに取り組みやすい。しかもそれが「本当に良い」のが良い。「今日始めた割には」ではなく、最高レベルを叩き出せる。俳句と同じように。

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