それは若い頃かいつか分かりませんが、何かの縁や運あって歯車が噛み合って一時「我が世の春」かと思う時があります。しかしそれは世阿弥言う所の「時分の花」であって、間もなく散ることになるでしょう。時分の花が悪いと言うのではありません。その花や咲いたことの因縁来歴には一生学ぶべきことがあるかと思います。しかしどうでしょう。散ってしまいました。散った花を惜しむ気持ちも大いなる糧にはなりますが、散った花は元には戻りません。
私が思うのは「何かの縁や運あって咲いた時分の花」を自覚的に、あるいは無自覚をも栄養分として吸い込みながら「もう一度咲かせることが人生の醍醐味」なのではないだろうかということです。そのためには自らを顧みることも必要でしょうし、未来へ身を投げていくことも必要だと思います。散ってしまった時分の花を惜しむ心も、あのような花は偽物だと思い切る心も大切なのだと思います。その全身全霊の試行錯誤が「まことの花」を咲かせる土壌になるのではないでしょうか。
一度咲いた「まことの花」は消えてなくなることがありません。時に応じて散っていくことはあるでしょうが、それは時に応じているだけなのです。気持ちが変わっていくように花は咲き、散ってゆくものなのだと思います。しかし間違いなく、まことの花はまた咲くのです。