典拠になり得る | まあのブログ

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 ところで、典拠に値するものと言えば何が挙げられるのでしょうか。
 「全ての意見は思い付きに過ぎない。取材しても確かさにおいて完璧はあり得ない」と言われた場合、「典拠の価値は~~で、その価値を有する典拠はこういうものでなければならない」と。
 典拠がどのようなものであっても、「典拠に価値は無い」と言う気はさすがにありませんが、私の心の根っこの部分に、考え方がイカれているのでしょうか、典拠どころか学問そのもの、あるいは言うところの「人間主義」に衝突するものがある気がするのです。
 先ず何となく思い付く。思い付いたら、その思い付きを支持するものだけを拾ってくる。無い場合は捏造する。逆に、反対意見は焚書にする。反対者は皆殺しにする。そうすれば、私の思い付きは永遠に正しく、思い付けば付く程、私はいよいよ正しくなっていきます。
 私の言い方は確かに極端ですが、「最初に言葉ありき」の文明の本質に宿っている感覚では無いでしょうか。やはり人間主義とは対立する何かでしょうか。・・・
 私はよく「日本は女性的な国だ」と言います。
 典拠としては河合隼雄などの心理学者や脳研究関係、あるいは風土論の本を挙げれば、「それは典拠である」とお墨付きを頂けるかもしれません(怪しげな物も多いですが)。
 ただ「日本は女性的な国だ」という私の言い分は、日常的な経験、芸術を見て感じたこと、先に挙げた読書などが渾然一体となって出てきたものです。
 その時に、典拠として挙げるものが「本や論文」だけでは、私の中の拙い経験や儚い妄想に申し訳ない気持ちもあるのです。
 典拠とは「説得的根拠あり」とされ、且つ「基本的に誰にでもアクセスできるもの」でないとダメだと思いますので、「私の経験だ。私の感想だ」では典拠として不十分だとは思います。
 しかし、世の中の意見の大半は典拠不充分ながら、十分な影響力を持っていると思われます。
 そうすると、益々典拠を挙げることへの乗り気の無さが私の中で膨らん来ます。
 そういう場合は、どのように考えれば「典拠を付けたい」と思えるのでしょうか。
 私としては、例えば「客観的資料の名前を、いくつかビシッと挙げておけば本棚の整理にもなるし、他の人も読んでくれるかも」などの考えがあります。

 追記:「本だけではなく経験や妄想にも、実は、その意見の正統性や妥当性を証明する力があるのでは?」という何とない期待があるからです。   
 典拠として挙げるものが「本や論文」だけでは、私の中の拙い経験や儚い妄想に申し訳ない気持ちもある。