神学 「自由意志の無い存在にも偶然があって良い」 | まあのブログ

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人間の知性は「感覚・肉体・物質」に影響を受けることはある。

しかし、「超時空の自由意志」という観点からすれば、

「本質的には物質の影響を受けない」とも言える。


意志と知性を持たぬ自然界の諸々の存在は物質的宿命に寄って流れている。

その場合、それは完全に宿命的か。


木の葉が散る。

裏を見せ、表を見せて、地面につく。

その時、裏を見せているとする。

それは宿命か。

「それは宿命だ」とする考え方は数多くある。

「色々な因果が積み重なって、その時に散り、裏を見せて地についたのだ」と。

即ち、それは必然である。


逆に、物質的因果に飲み込まれることはない自由意志があれば、

宿命ではなく、究極的には「全可能性のなかから、意志でそれを選んだ」ということになる。


自由意志が無い場合、「偶然」の入る隙間は存在しないか。

「その存在≒木の葉」に自由意志は無いが、偶然が入り込んでも良い。

神は全知全能であり、自由意志の無い存在の「振る舞い」にも、

偶然を滑り込ませる力があるからだ。

その場合、意志によるのでもなく、物質的宿命によるのでもない

「神によるルーレット」によることになる。

神によるルーレットは何物にも影響されない。

只管「偶然」に委ねられる。

「偶然とは何か」と言えば、「因果関係をもたらすものが介在しない」ということだ。



ちなみに、神は全知全能だから、物質が因果関係に則って動く場合でも、

あらゆる因果関係を遮断し、その物質を「偶然」に委ねることが出来る。

ちなみに、万物に自由意志を付与しても良い。

あるいは、「枯れ葉だと思っていたものが、自由意志を持つ人間である」可能性もある。
(「絶対に枯れ葉で、枯れ葉には絶対に自由意志が無い」とする場合は別だけれど)

逆に神は、全てを必然化することもできる(全てを奇跡としても起こし得る)。


cf「神学大全」第115問題第6項
「本質的に偶然的」
「Aという果をもたらすものからすれば、Bという果はAという果をもたらすものによるのではない」