サドは、しかし「カトリシズムの雄叫び」と解することも出来る。三島も言っていた。
そもそもサディズムの対象は人間である場合が多い。
物を物と扱っても面白くない。
人間を物と扱うことに面白味があるのだ。
「意志が無い、感覚が無い、感動が無い」ということはニヒリズムにも通じるし、
ニヒリスティックに扱うことに快楽を見出すと言うことは、
サディズムの深さは、反面「全てに感動を見出す行為」にも繋がる。
カトリシズムは神道のように「全てに神が宿る」というところまで通じる。
それをひっくり返せば、「全てに意味が無い」とも言える。
一見「意味が無さそうなもの」をサディスティックに扱うということは、
「意味が無さそうに見えるものも、実は意味がある」と見出していることにもなる。
サドはイエズス会の学校で教育を受けているのだが、
生来の性格と相俟って、カトリシズムの臭いが強い。俺にはそう見える。
俺が想像するのは、サドなら世界のどこに行っても、
「サディズムの対象として何かを扱うだろう」ということだ。
密林の奥地に行っても、何かを痛めつけて快楽を得ていそう。
と言うことは、その痛めつけている対象に「何らかの意志=神に通じるもの」を
見出しているということだ。
エジプトの砂の一粒を手に取って、「この右下の部分を鋭角に削いだら・・・、どうなる!!」
とか言って、射精してそう。