保守主義について | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

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・バークが大切にしたもの。
・慎慮、偏見、時効、黙諾、相続・世襲、法の支配、慣習、伝統、私有財産などである。

・逆にバークが断固として拒絶した概念。
・平等、人権、国民主権、抽象、裸の理性、進歩、革新、民主主義、人間の意思、人間の無謬性。


・バーク哲学において「人間の知力などというものは祖先の叡智が巨大な山のごとくに堆積している、
 古来からの“制度”には及ばない、矮小で欠陥だらけのもの」との考えがある。

・それゆえ「理性主義」、すなわちデカルト的な人間の理性への過度な過信を
 根源的に危険視し、慎慮を提唱する。
・それはまた、個々の人間を多くの間違いを冒す不完全な存在と看做す、
 謙抑な人間観が横たわっている。
・文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、
 文明の政治経済社会に仮に、人間の知力や理性に基づく“設計”や“計画”が参入すれば、
 その破壊は不可避となり、個人の自由は圧搾され剥奪されると考えたのである。
・実際に、このバーク哲学の思惟と予見どおりに、
 フランス革命は、人間の理性を絶対視し、既存の教会制度を否定し「理性の神」を崇拝した結果、
 個人の生命をフル操業するギロチンに奪われ、財産を革命権力の恣意に奪われ、
 血塗られた無法地帯の阿鼻叫喚の巷をつくりだした。

・以上、ウィキペディアより。
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・ところで、「日本の伝統を保守する」と言う。
・では、その伝統のなかに「反日、反伝統、日本嫌い」は入っているか。
・と言うのは、大昔から、そのようなタイプは存在し、
 彼等は日本の「伝統」に影響を与えてきただろうから。
・近い例では、明治から三島由紀夫までの作家達など、その良い例だろう。
・「愛と憎しみは糾える縄のごとし」であり、
 「これは伝統的で良い影響を与え、これは非伝統的で悪い影響を与える」とは簡単にはいかない。
・さらには、理性を行使するにあたっても、
 その理性は「無意識的な影響」を受けており、
 全ての理性など、結果的に無意識的に過ぎないということもできる。

【自覚的維持と無自覚的吸収】
・ところで、キリスト教の場合、
 最初期の頃から、この伝統と改革という対立が存在した。
・異教の文化を取り入れるべきか否か。
・あるいは、聖書の言葉を翻訳するべきか否か。
・「そのまま」を維持するべきだという人。
・「状況に応じて変えるべきだ」と主張する人。
・ともに「伝統」に影響を与え続けてきている。
・「流れに任せて、勝手に変わる」のを良しとする場合、
 多文化を吸収するにおいて、かなりナチュラルに吸い込める利点がある。
・しかし、「古典的完成度の堕落」という側面もある。
・明治期に西洋料理が入ってきて、日本には色々な料理が生まれた。
・かつ丼、アンパン、ラーメン、肉じゃがなど、今に至るまで続く。
・彼等は「流れに任せて美味いものを求めた」のだろう。
・結果として、素晴らしい完成度になっている。
 (人間の味覚と言うのは「最も保守的で、最も進取的な、バランス器官」だから、あれだけど)
・他には、漫画アニメなど。
・「流れに任せず、形を維持する」場合。
・例えば、歌舞伎や能などが挙げればわかりやすいか。
・自覚的に、型を厳格に維持すること無しには、
 歌舞伎や能は、跡形もなく消え去っていたことであろう。
・自覚的になり過ぎると、吸収力が悪くなり、不自然になる。
・無自覚的過ぎると、本当に無くなる場合もあり、完成度が落ちる場合も多々ある。

【求める条件】
・そもそも、「~~に適うか否か」とは、
 「それに求める条件が多いか少ないか」とも言える。
・結婚相手に求める条件で、「年収、身長、学歴、コネクション」などを高く求める。
・同じように、「日本の伝統」とされるものに、どの程度、条件を求めるか。
・「AとBとCとD」を満たしていなければならないとすると
 かなりキツくなる。
・「Aだけで良い」と言うなら、まあ、気楽なものだ。

【それは人を幸せにするか】
・それを維持するとして、「反対が90%、賛成が10%」だったとする。
・それを保守すると、人を不幸にする場合もある。
・しかし、「いや、嫌がるけど、慣れれば、こっちの方が良い」と説得するか。
・その場合、「タイミング的に正しいか」。
・あるいは、「そもそも、慣れると気持ち良くなる」というのは本当か。

【状況が変わっていないか】
・戦争ばかりしていた時代には、頑丈な城を作る。
・しかし、どう考えても、戦争勃発可能性が低く、
 しかも、城を頑丈にしても無駄だったとする。
・その場合、「それでも頑丈な城を保守する」ということにメリットはあるか。

【コストはどのくらいか】
・私は文化芸術に対して、圧倒的なレベルを要求する。
・ノートルダムレベルでないと、満足しない。
・頑張れば、今でも作れる。
・しかし、昔は簡単に入手できた素材でも、
 現代では、入手困難だったとする。
・それにもかかわらず、同一レベルに拘ってしまうと、
 他に金が回らなくなったり、人心に「やってられねえよ」などの悪影響も出る。
・尤も、楊貴妃やルードヴィヒ2世は、それを実行して、
 今に文化を伝えているわけだけれど。

【変えるのも伝統】
・もちろん、保守主義をいう人も、
 状況に応じて、制度などを変えていくわけだ。
・その場合、バークが批判するところの「理性的な≒狂信的な勢い」が、
 「良い影響」を与えることもあるだろう。
・先程のノイシュヴァンシュタインもそうだし、
 科学者の狂信が巡り巡って、患者を救う場合も多々あろう。
・その「うねり」が伝統なのであって、
 その意味で、狂信的な人間も「伝統」に包摂されると言える。
・尤も、それに反対するのも「伝統」ではあるけれど。

【保守と言ってもタイプは色々ある】
・「自分達だけが真性保守だ」というのは、
 自分達の意識を高め、勢いを付け、相手の弱点を攻めるのにも便利だが、
 本当の意識のところでは、「保守と言っても色々だよ」と思っていないとダメだ。
・「何を保守するか」は多様であり、
 しかも、そのそれぞれは、おそらく日本の伝統に、確かに包摂されるであろうからだ。
・共産党と江戸時代の共通点は多いだろう。
・それに対して、「無理がある」と批判するなら、
 では、「無理があると批判する人達の理想と、伝統の差異」は、
 「共産党と江戸時代の差異」より、絶対に小さいと主張できるか。
・実は、難しいだろう。
・保守主義と言った場合、何らかの形で、
 ある程度、守ろうとするものに対して、「条件が厳しくなる」ということは、
 「自覚」しておくべきかな。
 「状況、コスト、メリットデメリット」も、常に意識するべきだ。

【どちらが】
 「伝統的制度 市場に任せる 無意識」
 「個人的理性 政治的に介入 意識」
・横をイコールで結んだり、縦を矛盾として扱うことには無理があり過ぎる。
 「伝統的制度に基づき、政治的に介入する、夢見る集団」というのもあり得、
 その集団は個人的理性も市場も意識も大切にしているかも知れないからだ。
・アメリカ的保守が国家の介入を嫌い、「個人の勝手・各州の独立・市場に任せる」を
 大切にするのは、伝統が無い分、「個人の勝手・放任主義」が大幅に出るからだろうか。
 「個人の勝手」が強く出るから、結果的に「個人的理性」も強く出る。
・伝統や常識の代わりに「神・スッカラカン・未知・可能性・バカ・挑戦者」が奉られる。
 伝統や常識も「特定の価値観」に過ぎない。
 個人的理性も他の全てと同様にone of themであり、
 「可能性に挑むバカな挑戦者」として神に包摂される。
 そもそも歴史伝統など後付けの解釈でしかなく、解釈は無限であるから、
 無限の歴史伝統が生成される。常識など時と場に応じて移り変わる。
 伝統も常識も要らない。要らないのではなく、個人に任せられる。
・ところで「明晰な理性」に対峙できる程の「含蓄のある伝統」を持っているのか。
 AIは人間を遥かに越えて、「神≒伝統」に近いものになるのではないか。



【制度・組織など】
・基本的に5W1H的に考え、WやHを増やすことによって分かりやすくする。
・Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)、Whom(誰に)など。
・How(どのように)、How much、How many、How longなど。
・回数、範囲なども大切だろう。
・議会主義も独裁主義も、直接間接民主主義もこれに乗せて考える。
・その根底にバーク的な保守主義や理性的設計主義がある。(伝統と理性がある)

【共産主義的な】
<真善美の画一化>
<分配の平等化>
<身分と参加者の固定化>
<市場の禁止>
貨幣の統一、勝手な値付けを許さない、売って良いものを限る(誰がどのように決める)、
人気歌手が影響力を持ったら怖い、私の大切にしているものを君も大切にして、
市場のような価値観の流動性を如実に示すようなものを嫌悪する、
計画的な自覚的なストーリーを後付けして喜ぶ、無意識に対する嫌悪、
既存の価値や制度に変更や影響を与えて良いのは認められた人だけ、
真善美が画一的なのでレッテルは通じる、レッテルの奥の神秘が嫌い、
「何故そのレッテルを貼ったのですか」と言った場合、
そのレッテルを貼るに到らせた知性の完璧さを疑うことに乗り気でない。
変化球のカーブの来歴はそれを喜ぶことも含めてアメリカらしいが、そういうのを嫌う。
不満の合理化(合理化できない・すべきでない・その理屈で合理化できるか分からない)、
ひきずり降ろしたい、一度抜けると現人神、ユーモアを嫌う、

「保守主義とは漸進主義だ」などと言って「少しずつ進むために少しずつ進む」のはただのバカで「ガバっと歩くべき時はガバっと歩けば良い」のである。

「伝統に従え→従わねえ or 俺の我儘も伝統」
「多数決に従え→従わねえ or 実は多数派」

人間の欲望は社会の中で育まれ、社会の中で満たされる。
一人で満足するとしても、人間は本来社会的生物であり、
今言ったように欲望自体は社会で形成され、
一人だとしても何らかの繋がりを意識している。

ホッブス的国家・アウグスティヌス的教会

エドマンド・バークよろしく分からんもんだから愛を持って神秘を神秘のままにして、しかしながらそれだけだと世の中やっておれんから「3」というところを「3X」にする。「X≒人々の意識無意識歴史常識などなどをひっくるめた得体の知れない、しかしながら縁(よすが)となるもの」としようか。
ところが「X」どころか「3X」どころかいつの間にか「3」が我が物顔でしゃしゃり出る。しかもその3たるやどこの若造が何様のつもりで急ごしらえにでっち上げたものかも分からず、あっちで轢き殺しこっちで圧し潰し、とてもじゃないが仰ぐに足らぬ代物であるのに「我こそ神なり」と言って憚らない。そんなものに保守顔された日には堪ったものではないってね。

【アメリカと他の国の保守主義について】
意識と無意識。人間の意識など高が知れているので無意識に任せよう。無意識とは伝統。伝統がない国は勝手。アメリカの反知性主義とはアメリカなりの「無意識主義≒伝統主義≒保守主義」である。アメリカと他国では「保守とリベラルの定義が逆になる」と言うより、人間理性の限界を前提にした上で「伝統の有無」が問題なのだ。
多くの国の保守主義は「思い付きの改革」や「刹那的な人間理性」に対して懐疑的であり、時代に応じて伝統ヴァリエーションを奏でてゆく。しかし「伝統とは何か」の定義は一つではないので「真の保守」を巡って論争が絶えない。「時代に応じる」にしても同様。
アメリカの場合「無意識≒勝手≒反知性」と言ったところで「実は知性も人間の勝手であり無意識の現れかも知れない」ので、保守主義者も「思い付きのアイディア」による社会改革に積極的なことが少なくない。(知性も反知性に含まれる)

【まとまる】
予めの同質性高い:低い
まとまりたい気持ち強い:弱い
まとまる時の時間長い:短い
強制:誘導
報酬高い:低い (共通体験をしたい、同質性を確認したい、給料が良いか)
無意識の行動規範強い:弱い (文化や常識)
共通項多い:少ない (十戒以外ご自由に)

保守主義者とは「記憶を持つ者」だとして、どんな記憶だろうか。伝統だろうか。伝統も見方で多様な面を見せる。チェスタトンは「伝統とは死者の民主主義」と言っていた。色々な意見があれど「まあ、縄文から現代で多数決を取るとして、こっちじゃねえの感」を意識することだろうか。
あるいは「100年単位での多数決」と言う感覚かも知れない。現代なら明治から今。それ以前は「この100年感覚から良しとされたものを良しとする」。江戸以前に良しとされたものも、この100年感覚から悪しとされれば、悪し。
「100年感覚70%、2000年感覚30%」とか?「100年感覚70%、2000年感覚30%」の割合が崩れる程、その者は保守主義者から離れる?
そもそも「本当にこれで良いのか。物事は相対的だし、俺が正しいわけじゃない」と悩む力だろうか。ただそれだと「保守主義」と名付けなくても良いからな。「悩む力」と「伝統感覚」の合体が保守主義?

入れ替え可能な個人と言うが、兵士一人一人には個性がある。
あるいは入れ替え可能な個人だからこそ共通の思い出が出来る。

「近代に於ける適応異常(過剰摂取なども含む)」
何故、何を、どのくらい取り込んだか。
いつ、どこでどの範囲で、どのように、誰が。
日本は陰影も膨大だが、電気が来ると、元よりオドロオドロを感じる力が強過ぎて、それを一刻も早く消したがり、ここぞとばかりに膨大なるオドロオドロを殺し切ってしまう。
摂取前と摂取後では真逆になる例も多い。1位がビリになるようなケースも?
ぽっちゃりに「それが君の魅力なんだよ」「いやだ!」と脂肪吸引しまくり、脂質も全く取らなくなり、ガリガリになったは良いが、栄養失調で死んでしまうとか。

ローカルに縛られず、世界規模で考えよ。世界から自分好みをピックアップせよ。今に縛られず、時を越えて考えよ。宇宙生成から今に至るまで。自分に合ったものが見付かるであろう。
文化を継承する人もいれば、破壊する人もいれば、半継承半壊させる人もいる。それぞれがネットに蓄積される。その全てを参考にして、オリジナルブレンド。
嫌でも我慢する時期が役立ったり、すぐに打ち捨てるのが好都合だったり、それは試行錯誤せよ。
「継承してくれた人達がいたから、あなたも継承できるの。だからあなたも継承しなければならないの」と言うが、ならば我々は一億総縄文人でなければおかしい。文化伝統を破壊半壊した人達がいたから今があるの。「破壊系を見習っています」と返したまえ。
さらに破壊された伝統も「そういうもの」として受け継がれていく。「破壊され変質した伝統」も継承されたり破壊半壊されたりして後世に伝わる。そうこうしている内に、1つ前は破壊したけど、実は3つ前の伝統に合致しているぞと。先輩には逆らったが、ひいひいひいお爺ちゃんに「よくぞ俺を受け継いでくれた」と褒められたと。そう言った例も出てきます。
さらに破壊と言っても本当に破壊できてるの?継承と言っても全然継承できていないのでは?そんなことは日常茶飯事であり、継承も破壊も一筋縄では行かず、「お前の目論見を越えて、勝手なヴァリエーションを作っちゃっている」のが普通だったりする。
変えるにしても「徐々に変える主義」と「一気に変える主義」があるが、徐々に変えようとしても一気に変わってしまうこともあり、一気に変えようとしても徐々にしか変わらないこともある。一気に変えても反動で元に戻ることもあり、徐々に変えたまま戻らないこともある。
近代は破壊や一律化が急速に進んだので、その反動も起こる。急進的復古主義、ルネサンス。そもそも破壊しなければ、破壊されたものを復活させることも出来ない。破壊が復活を促すとも言える。現代人と江戸時代の人とでは、どちらが平安時代に詳しいか分からない。明治維新や20世紀の戦争を経たからこそ、大昔に興味が出た面もあるのかも知れない。実際に外国の存在を知ればこそ、国学に目覚めるわけだし。個人でも他人と接触し、揺らぐからこそ自分が照らし出される。
結局「好きにしたらええ」と思います。
1、伝統伝統言うが既に無い。
2、継承も破壊も伝統。そもそも原形通りでない。
3、ネット上に原形も変形も存在する。
4、未来の技術でいつか原始時代でさえ復活させられる。