息子が亡くなって、今日でちょうど1年です。
午前中に夫とお墓参りに行き、この時期の夏の暑さを2年ぶりに感じました。
昨年の夏の記憶が何もなく、息子の葬儀の時も暑かったはずなのに暑かった記憶がありません。
暑いとか寒いという記憶なんて他の記憶からしたら一番必要のない記憶なんでしょうね。
全く日陰のない墓地で久しぶりに暑さを感じながらそんなことを思っていました。


昨年の今日、書きかけの途中で保存していて結局あげることが出来なくなったブログがあります。


クローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバークローバー


自宅で看取ると決めてまだ1週間も経っていないのに、状態が安定せず不安定な状態を行ったり来たりしています。
逆に日に日に弱っているように見えるのです。


息子の肺の腫瘍は右肺の気管支を取り巻くように大きくなっていて、それが原因で気管支の通りを塞いでいたり出血したりしています。
大量に出血したりはしていませんが、断続的に出血が続いている状態で、息苦しさもあります。
そのため、昨日まで歩けていたのに今日は歩けなくなり、昨日まで起き上がることができていたのに今日はできなかったりと、たった1日で出来なくなっていることが一つずつではなくいっきに増えてきました。
話しかければ応えるけど、そうでなければ常にゼイゼイしながらもウトウト寝ている感じです。
それでも息子は必死に生きようと、まだ死なないと決めているかのように眼を開け、自分で痰を取り、お茶を飲んで頑張っています。
状態が少しでも安定してくれたら、たったそれだけでいいんですがそれすらも許されないのかと悔しく思います。


赤薔薇赤薔薇赤薔薇赤薔薇赤薔薇赤薔薇赤薔薇赤薔薇赤薔薇赤薔薇


この日、9時から訪看さんが来て息子のケアをしてくれました。

熱と血圧を測定して、この日はしばらくお風呂に入っていないから清拭をしようということになりました。
清拭のために着替えをしようとしましたが、少し動くと吐血してしまうため動けなくて着替えはしないで体を拭いてもらいました。
薬の点滴はこの後くる訪問医がすることになっているからと言ってこの日は薬のチェックだけしてまた明日来ますと帰りました。


その後に書いたのが上のものです。

ここまで書いている途中で訪問医が来て、診察と今後注射がしやすいようにとカテーテルを腕につけてくれました。
その時も先生ときちんと話をして、途中で水が飲みたいと言ったけどカテーテルを入れている最中だから氷だったらいいよと言われて氷を舐めていました。


カテーテルの処置が終わった後、先生から呼ばれて別の部屋で話をしました。
その時に「今はまだ話もできて意思疎通できるけど、今後話はできなくなります。今、体が熱いのに手足が冷たいのは心臓や脳に血液を集めるために抹消血管が縮まっているからです。これはあまりいい状態ではないです。だから、今のうちにたくさん話をしてできることはしてあげてください」と言われました。


今からしてあげられることって何?

私はまだ何もしてあげていないし、まだまだ話したいことだってあるのに、時間がない?


半分パニックになりながらも、なんとか冷静を保つことに必死でした。


訪問医が帰ってから、もう一度氷が欲しいと言われて氷を口に入れてあげました。
その後、先生から言われたことを夫に連絡してしばらく休めるか確認してもらいました。

あまりにも息子が静かだったので、氷を誤飲しないように声をかけて様子を見てみると、そこにはもう意識はなく努力呼吸をする息子がいました。
氷を誤飲したのかとも思いましたが、氷は口からこぼれていていました。
すぐに訪問医に連絡をし、訪看さんに来てもらうことになりました。
先生はすぐには行かれないので、別の医師が近くで診察をしているので、それが終わったら駆けつけることになりました。

それからすぐに夫が帰って来て、訪看さんもやってきて血圧や酸素などを測り先生に連絡をしていましたが、やはりもう何もできることはないのでそのまま見守るだけになりました。
私の実家の両親や実妹、夫のお兄さんなどに連絡をして来られる人には集まってもらえるようにお願いをしました。

訪看さんから、どんなに意識がなくても耳だけは聞こえているのでたくさん話をしてあげてくださいと言われました。
大好きだよ、お母さんの子どもになってくれてありがとう、守ってあげられなくてごめんね、もう一度お母さんって言って、何度も何度も同じこと言い続けました。
白目をむいていた息子に「ねえ!お母さんのこともう一度見て!ちゃんと見て!」息子に叫んだ時、クルッと黒目が戻って私を捉えました。
訪看さんが「お母さんの声がちゃんと聞こえたんだね。もう一度ちゃんとお母さんを見ようと思ったんだね」と言っていました。

何度も止まりかける呼吸に「頑張って吸って!」と何度も言い続けました。
それに応えるように体全体で息をしていました。
最後は全力で息を吸い、そのまま静かに息をしなくなりました。

息子の目からは一筋の涙が溢れていました。
それはもっと生きたかったという悔しさの涙なのか、頑張れなくてごめんねの涙なのか、家族と別れる寂しさの涙なのか…。
その涙をそっと拭いました。


実家の両親も妹も皆最期には間に合わず、最期は家族だけで見送りました。
私はそれで良かったと思います。
家族以外の人がいると遠慮して何も言えなかっただろうし、何よりも息子自身がそれを選んで旅立ったんだと思うので、家族だけで良かったです。


その後訪問医が到着し、息子を抱っこさせてくれました。
私よりも夫よりも大きくなった息子の体を抱っこするのは大変でしたが、その重さを腕に感じてしっかり抱きしめました。

生まれた時は片手で抱けたのに、いつの間にかこんなに大きくなって。


骨肉腫になる前、まだ私よりも若干小さかった頃に一度だけお母さんをおんぶさせてと言われておんぶしてもらったことがありました。
「大きくなったら歩けなくなった母をこうやっておんぶしてちょうだいね」なんて言って大笑いしたことを思い出しました。
「お母さんの子どもになってくれてありがとう」
最後にもう一度そう言って息子とお別れしました。


以上が2019年8月6日に書いたブログの裏側にあった出来事でした。