- 前ページ
- 次ページ
病室では私はダンナのジョリッパを借りて履いていました
ダンナが亡くなり体をきれいにするからとスマホだけ持って談話室へ
そこからは怒涛の連絡ラッシュ
話すと涙も出るけれど頭の中は誰に連絡するか?ぐるぐる
受付の人に「お友達がいらしているんですが…」
と言われ小部屋を見たら
タッチアウトでダンナに会えなかった体の大きな友達が端の方で小さくなっていた
「何であと30分待っていてくれなかったんたよう」と
ダンナには会えなかったけど
友達がいてくれることで私の気持ちは楽だった
病室に戻ると荷物が全てまとめられていて
私が履いて帰るはずの靴も何処かにしまわれてしまっていた
12/15夜
私が付き添いで病室に2泊目
細長いベッドに向かい合って横になる
夜中は酸素飽和度が80以下になることもありましたが
明け方安定しました
酸素飽和度90前後
12/16この日は私がどうしても自分の病院でCTを撮らないといけなくて
国立がんセンターから大学病院に行く
看護師さんにはなるべく早く戻ることを伝えて
旦那には「待っててよ」と声をかけて早朝出発
朝イチのCT予約だったから9時過ぎには会計まで終わり
急いでがんセンターに戻る
11時前に病室に入ると
「戻りましたか?」と緩和の先生、眠りの先生がやってきた
酸素飽和度70くらいに落ちて苦しそう
薬の追加をお願いする
そこからどんどん酸素飽和度が落ちていく
「苦しい、早く、先生、薬」と我慢強い旦那が叫び出す
モルヒネのボタンを連打
90以下になると苦しいのに68とかの数字はもうありえない
「息を吸うの?吐くの?」
と呼吸をすることにパニックになっていて私も一緒に
「吸って、吸って」と泣きながら叫ぶ
再度、先生方が来たけれど薬の増やす量を相談して戻るという
「話せなくなってもいいから楽にして、寝かしてあげて」と
私が泣きながら叫ぶ
早く早く
私もモルヒネのボタンを連打
そして薬の量が増やされた
少し落ち着いたタイミングで
旦那の高校時代のお友達が訪ねてきた
手を取って高校時代のいろいろな話を語りかけてくれた
呼吸もゆっくり落ち着いてきた
15時過ぎにお友達が
「また来るからね」と帰っていった
指が冷たくて酸素飽和度が測れなくなったので
同じ画面の脈のリズムを見ていて
と看護師さん
その時に顔を見たらちょっと変わってきていて
額を触ったら冷たい
え?
っと思った時に
旦那は
フーッと息を吐いた
脈のリズムが真っすぐになった
看護師さんと顔を見合わせ
「先生呼んできます」と看護師さんが出ていく
先生が来て瞳孔確認、聴診器をあてる
「15時31分」と言ったところで部屋の時計は15時35分
先生の時計の時刻で宣告をするそうです
その時は旦那さんが亡くなったことが悲しいよりも
楽になったことの安心感の方が強かった
ああ、逝ってしまった
すぐに緩和の先生がとんできて
「奥様大丈夫ですか?話聞きますよ」
と言ってくれたけれど
苦しみから解放された旦那の穏やかな顔を見たら
何も相談することはなくて涙も出てこなかった









