久々にPrime Videoで映画を

観ました。




2022年12月公開。

辺見じゅん原作、

「収容所(ラーゲリ)からきた手紙」。


背景はネットから


日本は1941年、ソ連と中立条約を結んでいた。しかし国際秩序の破壊をするソ連は条約の期限が切れる前の45年8月9日、日本の植民地で傀儡国家だった旧満州(現中国東北部)に攻め込んだ。

さらに日本兵や民間人を自国領やモンゴルに拉致。最長11年間拘束した。これがシベリア抑留である。


山本旗男は08(明治41)年、島根県・隠岐4島の西ノ島町生まれ。東京外国語学校(現東京外国語大)でロシア語を学んだ。在学中、左翼運動に参加し28(昭和3)年、日本共産党員らが弾圧された3・15事件で逮捕され卒業間際だったが退学を余儀なくされた。

36年満州に渡り、日本の国策会社だった南満州鉄道株式会社(満鉄)の調査部に採用され以後、ソ連の経済や社会、軍事などの分析を担当した。

当時のインテリであり、ロシア通であった。日本の敗色が濃くなっていた44年、陸軍に召集されハルビン特務機関に配属され、ソ連に関する情報の分析に当たった。
 
抑留後、この経歴があだになり、ソ連は山本を「スパイ」と断定し、裁判で「重労働25年」の判決を下した。

まともな弁護も控訴もできない。

しかし崩壊した日本政府に、彼ら「被告」を救うことはできなかった。

事実上、被抑留者は見捨てられていたのだ。山本は49年、極東ハバロフスクの強制労働収容所に移された。


ソ連側は「ダモイ」(帰国)は近い」と言い、捕虜たちのモチベーションを保とうとしたが多くの場合、それはうそだった。仲間が次々と死に理不尽な旧軍秩序が残る。少ない食糧をめぐるいがみ合い、盗み合いまであった。いつ帰国できるか分からない。それどころか、自分も死ぬのではないか――。そうした絶望が広がった。
 
理不尽な旧軍秩序を解体する動き「民主(化)運動」が、捕虜たちの間で広まっていた。しかし運動が進みソ連主義、共産主義に感化されるか、感化されたふりをした者たちが、ソ連の力を背景として「新しい秩序」の担い手になり日本人同士を分断することになった。
 
自分たちを不法に拘束しているソ連を「祖国」として礼賛するような、倒錯した価値観も生じた。さらに旧軍時代に「反ソ」的な活動をしたり、立場にいたりした者たちを「反動」として糾弾し肉体的、精神的なリンチを行うことも少なくなかった。



捕虜たちが絶望にさいなまれる中、山本は希望の光をともす。日本語による文芸活動、俳句サークルを結成したり、俳句や和歌、エッセーなども掲載する冊子を作ったりした。これもソ連側が極度に嫌う活動で見つかったら「スパイ」扱いで、投獄される恐れもあったがそんな活動を山本は主宰した。

捕虜同士の精神的つながりを生み、強くする活動であった。ソ連側の理不尽な要求に体を張って抗議することもあった。優しい人柄と豊かな教養、勇気。そこから生じる人望とリーダーシップ。山本はしだいに捕虜たちの精神的な支柱となっていった。

 
しかし病魔に襲われる。収容所にいた東京外国語学校の先輩で、満鉄の上司でもあった佐藤健雄は、山本の死期が迫っていることを悟り、遺書の執筆を勧める。2人の絆があればこそだっただろう。

山本は受け入れた。必ず家族の元に届けてくれと、母と妻モジミ、3人の子どもたちに計4通の遺書をしたためた。4500字もの長文である。しかしソ連は日本語で書かれた物を国外へ持ち出すことを許さなかった。それでも山本の遺志を家族の元に届けたいと願った4人の仲間たちは、驚くべき方法で山本との約束を果たすのである。

映画ではここまで詳しくは描かれていないが、山本の年の割に一等兵な理由など詳しく調べた。




シベリア強制収容所に、捕虜として抑留された山本幡男(二宮和也)一等兵。

妻モジミ(北川景子)やまだ幼い4人の子供とは離れ離れになったまま、消息もつかめない。
栄養失調や過酷な労働作業で命を落とす者、自ら命を断つ者が出るなか、常に帰国する日を待ち、人間としての尊厳、生きる希望を持ち続けた山本。 


4人が如何にして遺書を伝えたか。


涙なくしては読み進めることができない、驚きと感動で心が震わされる、究極の愛の実話である。