人間五十年、下天の内を比ぶれば


夢幻のごとくなり


一度生を得て滅せぬ者のあるべきか

 

(にんげんごじゅうねん
げてんのうちをくらぶれば
ゆめまぼろしのごとくなり
ひとたびしょうをえてめっせぬもののあるべきか)

 

 

大河ドラマ「麒麟がくる」にて
桶狭間の戦いの前に、信長が舞っていました


信長の辞世の句としても有名ですが、
これは平安末期に創作された「敦盛」という「幸若舞」
の語りの部分です。


信長はこの語りの部分を好み、普段から
事あるごとに舞っていたそうです。
そう考えると、一大事前の精神統一のようなものだと
考えられます。

 

 

 

命に限りがない神が住むのは「天界」
神に仕える四天王が住む世界は「下天」
そして、私たち人間が住む世界は「下界」

 

 

それぞれ時間の流れは違っており
下天の一昼夜(1日)とは、下界の五十年にあたるのだとか。

 

よく、「人生五十年」人間の寿命は五十年ほどしかない、
という諦めの境地にも似た捉えられ方をしますが、
実はそれは、本来とは違う解釈であると言えます。

 


この語りでは、下天の時間の流れと比較し、
人生とは一瞬であると、達観した視点で捉えられているものです。

 

 

大河ドラマでは、桶狭間の戦いを前にして、
信長は「幸若舞」を舞い、帰蝶には別の女性に産ませた
奇妙丸を引き合わせました。
それほどの覚悟があったのだろうと考えられます。

 

それにしても、
いきなり「わしの子じゃ。そなたが育ててくれ」
そう言われても、ポカンとなるのは当然のことで、
反対しようにも、子どもはすでに生まれ育っており
何と言っても、子どもに罪はありません。


信長と入れ違いに入ってきた光秀に「そのお子は?」
と聞かれ「殿の預かりものじゃ」と答える
帰蝶の姿に、全国の女性が同情したのはいうまでもないでしょう。

 

秀吉もまた、「夢」という文字を使って辞世の句を
残しています。自分のことを「露」と例えた秀吉は、
私にとって非常に意外な一面を最期に見せてくれました。

 

 

ちなみに、私が好きな句を作るのは


在原業平
良寛さん
西行法師
松尾芭蕉

 

 

かっこいいと思うのは伊達政宗。


伊達政宗の辞世の句は、これから死にゆく人とは思えない
美学がそこに存在していて、これまた惚れてしまいます。

 

 

 

 

 

 

伊達政宗

 

曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く

 

 

豊臣秀吉

 

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢